第2話「頑張った(つもりだ)けれど、すでに手遅れだった」
天界・ラブリーカンパニー代表執務室の前。重厚な両開きの扉から、這うようにして廊下へ転がり出たのえるの視界に、艶やかな黒のハイヒールが映り込んだ。
「……のえるさん」
凍りつくような低い声に、のえるは恐る恐る顔を上げた。
そこに立っていたのは、幽鬼のように生気を失った愛結課係長・ちえるだった。白磁の美しい肌は完全に血の気を失って青黒く染まり、右手は先ほどからずっと自分の胃袋のあたりを強く圧迫している。
「ち、ちえる係長……あわわわ(滝のような大汗)……!」
「神様に……這いつくばって、泣いて頼み込みましたわ。最後の、本当に最後の猶予を一回だけいただきました」
ちえるの切れ長の瞳から、ハイライトが完全に消え去っている。感情の抜け落ちた、冷酷無比な氷の眼差しでのえるを見下ろした。
「もし、あの子たちの関係を元の純愛のレールに戻せなければ……貴女は即刻、天界を追放されて人間界で野良天使落ちです。そして私は……懲罰降格。第三課のはえるさんのもとへ行く転属願も、永久却下となります」
「ひぃぃっ!?」
「私の……私の、はえるさんとの愛の巣が……! 毎晩のように抱きしめられて愛を語り合うはずだった未来が、貴女の遅刻と覗き見のせいで灰燼に帰すなど、絶対に許しませんことよ……!!」
ちえるの背後に、黒々とした怨念のオーラが立ち昇る。
彼女はすらりと伸びた右脚を振りかぶると、廊下の床にぽっかりと口を開けさせた人間界直通ゲートへ向けて、のえるの尻を容赦なく爪先で蹴り飛ばした。
「残された矢は、あと一発! 支給された神力を使って、今すぐ現場を立て直しなさい! 死ぬ気で、ですわーーーっ!!」
「ぎゃああああああああっ!?」
落下の風圧に巻き込まれながら、のえるは二度目の人間界へと投げ出された。
◇◆◇
翌日、人間界・県立高校。昼休みを告げるチャイムが校舎に鳴り響いていた。
「うぅ……お尻がジンジンするのだ。ちえる係長、容赦なさすぎるのだ……」
高校指定のブレザー制服に変装したのえるは、中庭の大きなケヤキの木陰に身を潜め、双眼鏡を構えていた。
銀髪の姫カットを揺らしながら、目標のポイントへとレンズを合わせる。
「でも、ボクだってやるときはやる天使なのだ! ここからが愛のキューピッド、のえるんの真骨頂なのだ〜!」
中庭の片隅、木漏れ日の当たる木製ベンチに、一人の男子生徒がぽつんと腰掛けていた。
黒髪の少し気弱そうな少年――幼馴染の翔太だ。
彼の手元には、布巾に包まれた手作りの弁当箱が二つ。いつもなら、ここで幼馴染の葵と一緒に弁当を広げ、他愛のない冗談を言い合いながら笑い合っている時間だった。
「よし! ここは『のえるんパワー!』で葵を自然に引き寄せて、昨日のあんなハプニングなんて『ちょっとした気の迷い』ってことにさせるのだ!」
のえるは指先をパチンと鳴らし、残された神力を少し削って微弱な奇跡の風を起こした。
そよ風が昇降口から出てきた葵の長い黒髪を優しく揺らし、まるで見えない手に導かれるように、翔太の座るベンチの前へとその歩みを進めさせる。
(ふふん、来た来た! 完璧なアシストなのだ! あとは翔太が男らしく声をかければ、元通りなのだ!)
木陰でのえるがほくそ笑む。
だが――ベンチの前へと差し掛かった葵の足取りは、鉛のように重かった。
「……あ」
翔太が顔を上げ、少しぎこちなく、しかし精一杯の笑みを浮かべて立ち上がった。
「葵。……こんにちは。あのさ、今日、葵の好きな卵焼き……作ってきたんだけど。よかったら、一緒に――」
差し出された弁当箱。
いつもなら「もう、また甘いやつ? 仕方ないわね」と勝気に笑って隣に座っていたはずの少女。
だが、葵は翔太と視線がぶつかった瞬間、まるで汚らわしいものに触れられたかのように、肩をビクッと跳ねさせた。
「…………っ」
その顔に浮かんだのは、隠しようもない居心地の悪さと、冷たい罪悪感。
そして何より――彼女の濡れたような瞳は、翔太の顔を一瞬捉えたあと、無意識のように別の場所へと吸い寄せられていた。
中庭を見下ろす渡り廊下。
太い柱に背を預け、炭酸飲料の缶を指先で弄びながら、意地の悪いニヤケ面で見下ろしている男子生徒――あの蓮だった。
蓮と目が合った瞬間、葵の白いうなじから耳たぶ、首筋にかけて、カッと熱い朱が広がった。
昨日、放課後の薄暗い旧校舎で、無理やり乱暴に暴かれ、奥深くまで快楽を叩き込まれた記憶。
葵は喉を小さく鳴らして唾を飲み込むと、制服のプリーツスカートの裾を、爪が食い込むほどぎゅっと握りしめた。翔太の前では一度も見せたことのない、肉欲の余韻に熱を孕んだ、卑猥な女の表情。
「……ごめん」
葵の口から漏れたのは、蚊の鳴くような、拒絶の冷たさを含んだ声だった。
「今日……あんまり、お腹空いてないから」
「え……?」
「それじゃ」
翔太が引き止める間もなく、葵は逃げるように踵を返し、早足で渡り廊下の階段へと姿を消していった。
その視線の先が、階段の踊り場へと移動した蓮の背中を追っていることは、誰の目にも明白だった。
「あ……葵……?」
差し出しかけた手作りの弁当箱を持ったまま、翔太はその場にぽつんと取り残された。
何が起きたのか理解できないというように、呆然と宙を見つめ、固まっている。昨日まで確かに手の届くところにあった温かな日常が、跡形もなく崩れ去っていた。
「……嘘、でしょ……?」
ケヤキの木陰で双眼鏡を下ろしたのえるの口から、乾いた呟きが零れ落ちた。
のえるの銀色の瞳が、葵の去っていった空間を透視する。
昨日まで淡いピンク色を放っていた純愛の波長は、影も形もなく消え去っていた。
代わりに葵の心身をドロドロと侵食していたのは、どす黒く熟れ切った紫色のオーラ――一度知ってしまった肉の悦び、力づくで組み伏せられた背徳の快感への、生々しい執着そのものだった。
手遅れ。
そんな生易しい言葉では済まない。
一度開いてしまった女の欲望の扉は、見習い天使の思いつきのアシスト風などで押し戻せるはずがなかったのだ。
「な、なんにも戻ってないじゃん……! むしろ昨日より、ずっとずっと酷くなってるのだ……っ!?」
絶望に震えるのえる。
そして、ベンチでがっくりと膝をつき、深い孤独の底へと沈みかけていた翔太の背後に――。
「……ねえ、君。どうしたの? そんなところで、浮かない顔して」
中庭の甘いツツジの植え込みを分け入るようにして、ふわりと柔らかい香水を漂わせた一人の女子生徒――莉乃が、吸い寄せられるように歩み寄ってきていた。
(第2話「頑張った(つもりだ)けれど、すでに手遅れだった」おわり / 第3話へ続く)




