第9話 謝罪に拍手は起きない
第9話 謝罪に拍手は起きない
年が明けると、東京には乾いた北風が吹いた。本社前の花壇では白い水仙が咲き始め、細い葉が風に押されて何度も傾いていた。九条麗華は黒いロングコートの襟を閉じ、紙袋を両手で抱えて地下二階へ向かった。
紙袋には、前日に焼いた形の悪いクッキーが入っていた。料理をほとんどしたことのない麗華は、薄力粉と砂糖の分量を二度間違え、台所には洗っていないボウルと泡立て器が残っている。高級店の菓子を買うことも考えたが、それでは以前と何も変わらない気がして、焦げた端だけを包丁で削って持ってきた。
「おはようございます」
麗華が自分から挨拶すると、大森と斉藤が顔を上げた。麗華は淡い灰色のニットに紺色のパンツを合わせ、耳には小さな銀の飾りをつけている。以前のような高い踵の靴ではなく、黒い革の平底靴を履いていた。
「おはようございます。今日は早いですね」
「これを、よかったら皆さんで食べてください」
斉藤が紙袋を開くと、不揃いなクッキーが並んでいた。丸いもの、四角いもの、端が少し欠けたものが混じっている。斉藤は一枚取り、慎重に噛んだ。
「硬いですね」
「やっぱり失敗かしら」
「でも、味は悪くないですよ。コーヒーに浸せばちょうどいいです」
大森も一枚取り、蓋の欠けた湯飲みに入ったコーヒーへ浸した。麗華は褒められるのを待ちかけたが、すぐに自分の席へ向かった。机のシクラメンには新しい花が二輪咲き、赤い花びらが蛍光灯の下でも鮮やかに見えた。
麗華は仕事を始める前に、美緒へ面談を申し込むメールを送った。件名には「謝罪について」と書き、断っても構わないことも付け加えた。送信ボタンを押すまでに三十分かかり、その間に紅茶はすっかり冷めていた。
午後、美緒から短い返事が届いた。人事部の面談室で、担当者の同席を条件に十五分だけ会うという内容だった。麗華は一度、二人だけで話したいと返信しようとしたが、その文章を消した。
翌日の午後三時、麗華は人事部の小さな面談室へ入った。机の中央には録音機が置かれ、紙コップの水が三人分並んでいる。美緒は濃い緑色のカーディガンを着て、膝の上に手帳を置いていた。
「時間を作ってくれて、ありがとう」
「人事部から、話を聞くかどうかは自分で決めていいと言われました。それで、来ました」
「そう」
麗華は用意してきた文章を鞄から出した。何度も書き直したため、便箋の角は柔らかくなっている。読み上げれば間違えずに済むと思ったが、美緒の顔を見て、便箋を机へ置いた。
「私は、あなたに深夜まで仕事をさせました。仕事に必要のない電話もかけ、断ろうとしたあなたを異動させると脅しました」
美緒は答えず、手帳の端を指で押さえていた。麗華は許してほしいと言いそうになり、紙コップの水を一口飲んだ。水はぬるく、唇に塗った口紅の味が混じった。
「自治体から届いたメールも、私の都合で真壁さんに渡しませんでした。その記録を消すよう、あなたへ命じました。あなたが誤解したのではありません。私は、証拠が残らないようにしたかったのです」
人事部の担当者が記録へ書き込む音が響いた。美緒は膝の上の手帳を握り直したが、目をそらさなかった。麗華は両手を机の下で組み、続けた。
「あなたが謝る声を聞くと、私は落ち着きました。私が父に認められない恐怖を、あなたへ押しつけていました。本当に、申し訳ありませんでした」
麗華は頭を下げた。髪が頬へ落ちたが、すぐには直さなかった。誰からも返事がない時間が、これまで経験したどの会議より長く感じられた。
「顔を上げてください」
美緒の声を聞き、麗華はゆっくり頭を上げた。美緒は泣いても笑ってもいなかった。手帳を開き、挟んでいた小さな猫の写真を一度見てから、静かに閉じた。
「謝ってくださったことは受け取ります。でも、私は今でも麗華さんの着信音が鳴ると、手が震えます」
麗華の胸に、尖った言葉が浮かんだ。もう電話をかけていない、仕事を教えたのは自分だ、美緒にも確認不足があった。どれも口にすれば、自分が受け入れやすいように美緒の傷を小さくする言葉だった。
麗華は組んだ指へ力を入れた。爪が手のひらへ食い込んだが、親指で爪の脇を押す癖は止めた。美緒が続きを話すまで待った。
「以前の関係には戻れません。個人的な連絡先も、今後はお伝えしません」
「分かりました」
「本当に分かっていますか」
「今すぐ許してほしいと思っています。でも、それをあなたに求める権利がないことも、分かるようになりました」
美緒は小さく息を吐いた。十五分が過ぎると、人事部の担当者が面談の終了を告げた。麗華が立ち上がっても、美緒は以前のように扉を開けたり、コートを持ったりしなかった。
「美緒さん」
「はい」
「もう一度だけ、申し訳ありませんでした」
「受け取りました」
美緒の返事は、それ以上でもそれ以下でもなかった。面談室を出た麗華を、誰も待っていなかった。麗華は廊下の窓辺に置かれた白い胡蝶蘭を見ながら、地下二階まで階段で下りた。
数日後、麗華は奈央にも謝罪した。社員食堂の隅にある二人用の席で、奈央は鯖の味噌煮定食を食べていた。麗華の前には、手をつけていないきつねうどんが置かれ、甘い油揚げと出汁の匂いが湯気に混じっていた。
「お母様のことを皆の前で話したのは、あなたを心配したからではありません。反論できないようにするためでした」
奈央は箸を置いた。胸元には、母親から借りた銀色のブローチをつけている。母親は退院し、今は自宅で療養しているという。
「分かっていました」
「そう」
「麗華さんが私を心配していないことは、あのときも分かっていました。でも、認めたら仕事へ行けなくなりそうだったので、私が悪いと思うことにしました」
麗華はうどんの器を見た。表面に浮いた葱が、湯気に押されてゆっくり動いている。何か言い訳をすれば、奈央の言葉を止められたが、麗華は口を開かなかった。
「申し訳ありませんでした」
「私は、まだ麗華さんと一緒に働くのは怖いです」
「分かりました」
「でも、謝りに来てくれたことは、人事部へ伝えます」
「評価を変えてもらうために来たのではないわ」
「では、誰にも言わない方がいいですか」
麗華はすぐに答えられなかった。心のどこかで、謝罪した自分を誰かに知ってほしいと思っていた。だが、それを奈央へ背負わせるのは、再び相手を使うことになる。
「あなたの話したいようにしてください。私のために黙る必要も、話す必要もありません」
奈央は頷き、冷めかけた鯖の味噌煮を食べ始めた。麗華も伸びたうどんを一口すすった。油揚げは甘すぎたが、残さずに食べた。
その月の終わり、事業整理室では山梨県の保養施設を閉鎖するための面談が始まった。施設は春までに営業を終え、二十七人の従業員のうち、九条グループ内で再雇用できるのは十二人だけだった。大森は、現地へ同行する担当者を募った。
「私が行きます」
麗華が手を挙げると、大森は眼鏡の上から顔を見た。以前の麗華なら、施設の帳簿だけを確認し、従業員との面談は人事担当者へ任せていた。大森は少し考えてから、分厚い名簿を麗華へ渡した。
「全員の希望を聞いてください。ただし、できない約束はしないこと」
「分かりました」
「閉鎖を取り消すと言って、安心させるのも駄目です」
「言いません」
「それなら、お願いします」
山梨へ向かう朝、麗華は紺色のダウンコートと動きやすい黒いパンツを着た。駅で買った鮭のおにぎりを車内で食べると、海苔が前歯についていると斉藤に指摘された。麗華は慌てて鏡を出したが、斉藤が声を上げて笑ったため、つられて口元を緩めた。
保養施設の庭には雪が残り、玄関脇では赤い椿が咲いていた。建物へ入ると、古い畳と石油ストーブの匂いがした。食堂の厨房からは、帳面に書かれていたカレーの玉ねぎを炒める甘い香りが漂っていた。
最初の面談者は、六十三歳の料理長だった。白い調理服の袖には薄いカレーの染みがあり、指の関節は長年の包丁仕事で太くなっていた。麗華は用意された履歴書を見ながら、希望する仕事を尋ねた。
「年齢を考えれば、再就職は難しいでしょう。できれば、ここが閉まるまで厨房に立たせてください」
「系列ホテルの厨房なら、経験を生かせるかもしれません」
「東京へは行けません。女房が地元の病院へ通っています」
以前の麗華なら、転居できないという欄に印をつけ、対象外として面談を終えていた。だが、料理長の財布からのぞく診察券と、袖の染みが目に入った。麗華は次の質問へ進まず、名簿の余白へ妻の通院先を書き込んだ。
「近隣の飲食店も調べます。ただし、必ず見つかるとは約束できません」
「それで構いません。話を聞いてくれただけでも助かります」
「まだ何もしていません」
「偉い人は、だいたい話の途中で時計を見ます。あなたは、まだ見ていない」
麗華は机の下に置いた腕時計へ触れかけ、手を戻した。面談は予定より二十分長くなった。廊下には次の従業員が待っていたが、麗華は料理長の希望を最後まで名簿へ書いた。
客室係の女性は、娘の高校卒業まで地元を離れられないと話した。設備担当の男性は、聴力が落ちても続けられる仕事を希望した。若い受付係は東京のホテルへ移りたいが、高齢の犬を連れて入れる住居が見つからないと話した。
「犬の話まで必要ですか」
同行した人事担当者が小声で尋ねると、麗華は受付係の希望欄へ書き込みながら答えた。
「この人が転居できるかどうかに関係します」
「会社は犬の住居まで用意できません」
「用意できるとは言っていません。条件を知らなければ、探すこともできないでしょう」
面談を終えた夜、麗華は保養施設の食堂でカレーを食べた。帳面に書かれていたとおり、玉ねぎの甘みが強く、形の崩れた牛肉が入っている。付け合わせの福神漬けは大きさが不揃いで、料理長が自分で漬けたものだった。
「お味はどうですか」
料理長に尋ねられ、麗華は銀色の匙を置いた。誰かを喜ばせるためではなく、自分が感じた味を伝えようと考えた。言葉を選ぶ間、ストーブの上のやかんが音を立てた。
「おいしいです。帳面に、ここのカレーはまだおいしいと書いた人がいました」
「誰でしょうね。昔は、鍋が空になるほどお客さんが来たんですよ」
「この味を使って、何か残せないか検討します」
麗華は約束ではなく、検討するとだけ伝えた。料理長も大げさに喜ばず、カレーが冷めるから早く食べるよう勧めた。麗華は皿に残ったルーを最後まで食べた。
東京へ戻った麗華は、従業員ごとの希望を一覧にした。系列会社だけでなく、地元企業や自治体の再就職支援窓口へも連絡した。華やかな発表もなく、役員へ評価される仕事でもなかったが、麗華は一件ずつ電話をかけた。
料理長には、地元の道の駅にある食堂の仕事が見つかった。客室係の女性は近隣の介護施設で清掃を担当し、若い受付係にはペット可の社員寮を持つホテルが候補に挙がった。それでも、希望に合う仕事を見つけられない従業員が七人残った。
「全員を救えないのね」
麗華が名簿を見ながら言うと、大森は冷めた緑茶を飲んだ。机には斉藤が持ってきた蜜柑の皮が、小さな山になっている。シクラメンは花びらを一枚落とし、麗華の書類の端へ赤い色を添えていた。
「会社にできることには限りがあります」
「もっと早く動いていれば、違ったかもしれない」
「そうかもしれません。でも、今さら時間は戻りません」
「では、ここからできることを探します」
麗華は残った七人の書類を自宅へ持ち帰らず、勤務時間内に一件ずつ見直した。以前のように部下へ徹夜を命じず、自分も夜中まで会社へ残らなかった。午後七時になると机を片づけ、続きを翌日の予定へ書き込んだ。
一か月後、保養施設を地元の観光会社へ譲渡できる可能性が出てきた。建物の一部を宿泊施設として残し、食堂のカレーを名物にする案だった。決まれば、仕事の見つからなかった七人のうち五人を雇用できる。
大森は報告書を読み、赤い判を押した。斉藤は余ったクッキーをコーヒーへ浸しながら、よかったですねと笑った。麗華は褒められるのを待たず、次の交渉資料を揃えた。
その夜、麗華は自宅へ戻り、冷蔵庫に残っていた大根と油揚げで味噌汁を作った。大根は厚さが揃わず、煮えるまでに時間がかかった。食卓には一人分のご飯と焼いたアジの開きを並べ、窓辺には斉藤から分けてもらった小さなシクラメンを置いた。
食事を終えたあと、麗華はスマートフォンを手に取った。父の名前を開くと、最後の通話は解任される前の日付で止まっていた。指が震え始めたが、麗華は爪の脇を押さず、発信ボタンを押した。
征一郎は五回目の呼び出し音で電話に出た。
「何の用だ」
「保養施設の件で、お伝えしたいことがあります」
「お前は、会社の判断に従って書類を整理すればいい。余計なことはするな」
「地元企業への事業譲渡を進めています。従業員の雇用も、一部は残せる見込みです」
「そんな小さな施設に時間をかけても、九条の利益にはならない」
麗華は食卓の上のアジの骨を見た。以前なら父の言葉を正解に変えるため、すぐに利益の数字を並べていた。しかし今夜は、父に認められる説明を探さなかった。
「利益だけで決めれば、切り捨てられる人たちがいます」
「経営は慈善事業ではない」
「分かっています。全員を救えるとも思っていません。それでも、できることを調べずに切り捨てるのは、経営ではありません」
「地下の部署へ追われて、ずいぶん生意気になったな」
麗華は息を吸った。台所には洗っていない味噌汁の鍋が残り、窓の外では風がベランダの物干し竿を揺らしていた。シクラメンの花が小さく震えたが、鉢は倒れなかった。
「お父様は、結果を出せない人間に九条の名を名乗る資格はないとおっしゃいましたね」
「その考えは変わらない」
「九条の名を取り上げるなら、どうぞ。私はもう、それで自分の価値を決めません」
電話の向こうから返事はなかった。麗華の指先は冷えていたが、スマートフォンを落とさずに持っていた。やがて征一郎が低い声で尋ねた。
「誰に、そんなことを吹き込まれた」
「誰かに教えられた言葉ではありません。私が、自分で決めました」
「後悔するぞ」
「するかもしれません。それでも、決めるのは私です」
征一郎は何も答えず、電話を切った。麗華は暗くなった画面を見たが、すぐにはかけ直さなかった。父から認められなかったことを埋めるために、美緒や奈央へ電話することもしなかった。
麗華は食卓の皿を重ね、台所へ運んだ。冷めた味噌汁の鍋を水につけ、アジの骨を小さな袋へ入れた。指には魚と洗剤の匂いが残ったが、香水で消さず、そのままシクラメンへ水を与えた。
翌朝、保養施設の事業譲渡に関する打ち合わせが入っていた。父も役員も、その仕事を褒めることはないかもしれない。それでも麗華は目覚まし時計を午前六時半に合わせ、昨夜の味噌汁を朝食用の器へ移してから、部屋の明かりを消した。




