第8話 鏡の中の父親
第8話 鏡の中の父親
十二月半ばになると、本社前の歩道に冷たい北風が吹くようになった。植え込みには赤と白の葉牡丹が並び、守衛が朝露でぬれた落ち葉を竹箒で集めていた。九条麗華は臙脂色のロングコートに黒い革手袋を合わせ、地下二階へ向かう社員とは思えないほど高い踵の靴でロビーを歩いた。
受付係は麗華に気づいたが、座ったまま頭を下げた。三十二階へ向かう社員たちは楽しそうに話しており、再開発事業の新しい広告が大型画面に映ると足を止めた。広告の責任者欄から麗華の名前は消え、代わりに専務と律を中心とする新体制が紹介されていた。
麗華は画面を見ないまま入館機へ社員証をかざした。地下二階までしか使えないことを知らせる短い音が鳴る。以前は気にならなかった機械音が、今朝は背後の笑い声より大きく聞こえた。
事業整理室へ入ると、斉藤が机の上の小菊へ水を与えていた。花は前より少なくなっていたが、代わりに窓のない部屋でも育つという赤いシクラメンが置かれている。大森は机で朝食のあんパンを食べ、紙袋に落ちた黒胡麻を指先で拾っていた。
「おはようございます、九条さん」
斉藤に声をかけられ、麗華はコートを脱ぎながら小さく頷いた。白いブラウスの胸元には、今日もダイヤモンドのブローチをつけている。ところが化粧をしても目の下の影は消えず、唇に引いた赤い色だけが顔から浮いて見えた。
「おはよう」
「今日は寒いですね。生姜湯を作りますけど、飲みます?」
「私は紅茶でいいわ」
「そうですか。余ったら、ポットに入れておきますね」
斉藤は断られても気を悪くせず、給湯室へ向かった。しばらくすると、生姜と蜂蜜の甘い匂いが部屋へ流れてきた。麗華は自分で淹れた紅茶へ口をつけたが、茶葉を入れすぎたため、舌に強い渋みが残った。
麗華の机には、閉鎖候補となっている山梨県の保養施設に関する資料が積まれていた。かつて九条グループの社員旅行に使われた施設だが、建物の老朽化が進み、利用者も十年前の四分の一まで減っている。前任者がつけた帳面には茶色い染みがあり、端の余白には「食堂のカレーはまだうまい」と鉛筆で書かれていた。
「大森室長、この書き込みは何ですか」
「前に現地へ行った社員でしょう。あそこのカレーは、玉ねぎを一日かけて炒めるそうですよ」
「業務資料に必要な情報ではありません」
「食堂を残せるか検討するときには、役立つかもしれません」
大森はあんパンの最後の一口を食べ、冷めた緑茶で流し込んだ。麗華は帳面の書き込みを消そうとしたが、鉛筆の跡に消しゴムを当てたところで手を止めた。前の社員が残した小さな感想を、消す必要があるのか分からなくなった。
午前十時を過ぎた頃、律が事業整理室へ入ってきた。濃い灰色のスーツに紺色のセーターを重ね、古い黒い鞄を持っている。先日斉藤からもらった小菊の礼として、紙袋に入れた蜜柑を持ってきていた。
「斉藤さん、娘が花を喜んでいました。ありがとうございました」
「わざわざいいのに。蜜柑、一つもらいますね」
「どうぞ。家に送られてきたのですが、三人では食べ切れなくて」
「奥様と娘さんにも、生姜湯の粉を持っていきます? 買いすぎたんです」
律と斉藤は、蜜柑と生姜湯を机の上で交換した。大森も蜜柑を一つ受け取り、皮をむく前に手のひらで何度か転がしている。爽やかな柑橘の香りが、古い紙の匂いに混じった。
「九条さん、先日の契約について、追加の確認をお願いします」
律は麗華の机へ三冊のファイルを置いた。麗華は書類ではなく、蜜柑の入った紙袋を見た。自分の机の前だけ、何も置かれていなかった。
「私にはないの?」
「蜜柑ですか。もちろん、どうぞ」
律は紙袋を麗華の方へ差し出した。特別に選んだものではなく、斉藤や大森へ渡したものと同じだった。麗華は形の整った一つを手に取り、すぐに机の隅へ置いた。
「それで、何を確認したいの?」
「ホテル運営会社との会食記録です。先方へ問い合わせましたが、違約金を請求しないという合意はしていないと言っています」
「専務が、口頭で認めたわ」
「先方は、検討すると答えただけだと話しています」
「私の記憶が間違っていると言いたいの?」
「双方の認識が違っています。このままでは、違約金が発生する可能性があります」
律は感情を交えずに説明した。麗華が交渉を誤ったと責めるのではなく、これから何を確認するべきかを話している。その態度を見るうちに、麗華の胸の奥へ、熱いものが溜まっていった。
「あなたは楽しいでしょうね」
「何がでしょうか」
「私の失敗を一つずつ見つけて、確認しに来ることよ」
「契約条件を確定するために必要です」
「私を助けているつもり? 落ちぶれた女にも同じ態度で接する自分は立派だと、そう思っているのでしょう」
事業整理室の空気が止まった。斉藤はむきかけの蜜柑を持ったまま手を止め、大森も眼鏡を外して二人を見た。律は麗華の言葉に反論せず、机の上の資料へ手を置いた。
「会議室を借りましょう」
「ここで話せばいいわ。私はもう、人に聞かれて困る地位ではないもの」
「業務に関係のない話をするなら、場所を移した方がいいと思います」
律はファイルを抱え、地下の小会議室へ向かった。麗華は椅子へ座ったまま動かなかったが、大森たちの視線に耐えられず、臙脂色のコートを椅子へ残して律のあとを追った。
小会議室には、長机と折り畳み椅子が六脚置かれていた。蛍光灯の下には小さな羽虫の死骸が入り、壁の時計は実際の時刻より五分遅れている。前の利用者が置いていった紙コップには、溶け残った粉末スープが黄色く固まっていた。
律は窓のない壁を背にして座り、麗華にも椅子を勧めた。麗華は座らず、机の上のファイルを開いた。ホテル運営会社とのメール、会食の日付、担当者の証言が順番に並べられている。
「よく調べたわね。私を追い詰めるために、ここまでしたの?」
「違約金が発生するかどうかを確認するためです」
「同じことでしょう」
「同じではありません」
「あなたは最初から私を嫌っていた。私の指示に従わず、社員たちを味方につけ、最後には私の地位まで奪った」
「私に人事権はありません。九条さんを解任したのは役員会です」
「私が解任されて、あなたは再開発事業の中心に入った。十分に利益を得たでしょう」
麗華はファイルを持ち上げ、机の向こうへ投げた。留め具が外れ、何十枚もの書類が床へ散らばった。ホテルの契約書は折れ曲がり、会食記録の一枚は律の靴へ当たって止まった。
律は書類を拾わなかった。椅子に座ったまま、麗華が次の言葉を口にするのを待っている。麗華は肩で息をしながら、動かない律を睨んだ。
「拾いなさいよ」
「投げたのは、あなたです」
「私に拾えと言うの?」
「必要な書類です。拾ってください」
「私を見下しているから、そんなことが言えるのよ」
「私はあなたを見下していません。しかし、あなたがしたことを許したわけでもありません」
麗華は机へ両手をついた。指先が冷え、ダイヤモンドのブローチが重く胸へ当たった。これまで近づいてきた者は、麗華を褒めるか、利用しようとするか、失脚した途端に笑う者ばかりだった。
「だったら、なぜ普通に話しかけるの? 私には、もう利用価値がないでしょう」
「契約の経緯を知っているので、業務上は必要です」
「仕事以外では?」
「今のところ、個人的に親しくする関係ではありません」
「ほら、やっぱりそうじゃない」
「何がですか」
「役に立たない私には、何の価値もない。あなたもそう思っているのでしょう」
麗華の声が会議室の壁に響いた。律は眉を寄せるのではなく、麗華の言葉の意味を確かめるように少し首を傾けた。床では暖房の風に押され、薄い書類が一枚だけ動いた。
「仕事で必要とされないことと、人間として価値がないことは別でしょう」
「別ではないわ」
「なぜですか」
「結果を出せない人間に価値などないからよ。失敗した人間は席を失う。誰からも必要とされず、名前さえ取り上げられる。それが当然でしょう」
「誰に、そう教えられたのですか」
麗華は答えなかった。父の書斎にあった葉巻の匂いと、赤い字で九十八点と書かれた答案用紙が頭に浮かんだ。机の端に置いた旅行鞄と、冷えたエビグラタンまで、はっきり思い出せた。
「あなたは、利用価値のない人間へ親切にできるの?」
「親切にしているつもりはありません。必要なことを伝えているだけです」
「何もできない人間を見ても、笑わないの?」
「笑いません」
「失敗した部下を見ても、腹が立たないの?」
「腹が立つことはあります。注意もします。ただ、失敗したことを利用して、その人の人格まで支配しようとは思いません」
麗華の指が、爪の脇へ伸びた。律はその癖に気づいていたが、止めようとはしなかった。麗華は皮膚が白くなるまで押し、呼吸を整えようとした。
「あなたに私の何が分かるの?」
「分かりません。分かると言うつもりもありません」
「だったら、勝手なことを言わないで」
「一つだけ、見ていて分かったことがあります」
「何よ」
「あなたは、自分が役に立つかどうかを、いつも他人の反応で確かめています」
麗華は父の顔を思い浮かべた。褒められなかった夜には、部下を呼び出した。父に欠点を指摘されたあとは、美緒へ深夜の電話をかけ、謝罪の言葉を聞くまで終わらせなかった。
「違うわ。私は部下を成長させるために厳しくしただけよ」
「それなら、なぜ皆の前で家庭事情まで話したのですか」
「木村さんの仕事に影響していたからよ」
「影響はありませんでした。あなたは、反論しにくい場所を選んで責めただけです」
「私を悪人にしたいの?」
「それも違います」
律は床へ落ちた契約書を見た。紙は散らばったままで、麗華の高い踵の下にも一枚挟まっている。律は声を変えず、麗華へ視線を戻した。
「それは、あなた自身が人間を役に立つかどうかでしか見ていないからです」
麗華は口を開いたが、言葉が出なかった。父から言われた言葉と、自分が奈央へ言った言葉が、頭の中で重なった。父は九十八点を見ずに二位を責め、麗華は正しい資料を見ずに文字の大きさを責めた。
征一郎は、役に立たない人間を九条家には置かないと言った。麗華も、美緒の人事評価や異動を利用し、従わないなら居場所を奪うと脅した。自分を捨てた父と同じ方法で、麗華は何人もの部下を跪かせていた。
「私は、お父様とは違うわ」
律は何も答えなかった。麗華の父親がどのような人物か、律には判断できないからだ。その沈黙によって、麗華は自分で続きを考えなければならなくなった。
「私は努力したのよ。誰よりも勉強して、誰よりも働いた。失敗しないように何度も確認したわ」
「その努力は否定していません」
「それなのに、全部なくなった」
「なくなっていないものもあります。ただ、あなたがしたことの責任は消えません」
「どうすればいいのよ」
「それを私に決めさせるのですか」
麗華は律を見た。命令を出してほしいと思った。何をすれば元の地位へ戻れるのか、誰に謝れば価値のある人間になれるのか、正解を示してほしかった。
しかし律は、麗華の人生の責任まで引き受けなかった。腕時計を確認し、午後の会議へ戻るために椅子から立った。床の書類には手を伸ばさなかった。
「契約書は、明日までに整理しておいてください。先方との交渉に必要です」
「私を、このまま置いていくの?」
「仕事へ戻ります」
「真壁さん」
「何でしょうか」
「私が謝れば、あなたは許すの?」
律は扉の前で足を止めた。廊下から台車の車輪が鳴る音と、誰かが昼食用の蕎麦を注文する声が聞こえた。律はしばらく考えてから、首を横へ振った。
「私ではなく、傷つけた本人に聞いてください。ただし、謝罪したから許すよう求めるのは違うと思います」
律は会議室を出ていった。麗華は追いかけず、散らばった書類を見下ろした。床に落ちたままにすれば、清掃員か事業整理室の誰かが拾ってくれるかもしれなかった。
麗華は椅子へ座り、両手を膝の上へ置いた。目から落ちた雫が一滴だけ、黒いスカートへ染みを作った。声を上げても誰も来ないと分かっていたため、唇を噛み、もう一度書類へ目を向けた。
やがて麗華は椅子から降り、膝を床についた。高価なストッキングが汚れるのを気にしながら、最初の一枚を拾った。折れた角を指で伸ばすと、そこには美緒が作成した交渉記録という文字があった。
美緒は何度も、確認の時間が欲しいと言っていた。麗華は父に認められることを急ぎ、深夜まで働かせた。美緒が謝る声を聞くことで、自分の中にあった震えを止めていた。
二枚目には、木村奈央の名前があった。麗華は奈央の母親が入院していると知りながら、その事情を社員の前で口にした。奈央を育てるためではなく、反論できない場所へ追い込むためだった。
三枚目には、現場責任者の高橋の署名があった。高橋は通学路の危険を訴えていたが、麗華は発表の日付を守ることだけを考えた。事故が起きなかったからといって、自分の判断が正しかったことにはならなかった。
麗華は一枚ずつ拾い、曲がった紙を机の上で伸ばした。指には床の埃がつき、ダイヤモンドのブローチにも白い粉が薄く積もった。最後の一枚を拾い終える頃には、膝が痛み、紅茶を飲んでいない喉は乾いていた。
事業整理室へ戻ると、斉藤が保温容器から昼の残りの味噌汁をカップへ移していた。大根と油揚げの匂いが広がり、机のシクラメンには新しい蕾が一つ増えていた。斉藤は麗華の汚れた膝を見たが、理由を尋ねなかった。
「生姜湯、まだありますよ」
麗華は自分の机に置いた蜜柑を見た。皮には小さな傷があり、九条邸の食卓に出される果物のように形が整ってはいなかった。それでも麗華は蜜柑を手に取り、皮へ爪を入れた。
「生姜湯も、いただけるかしら」
「はい。少し甘めでいいですか」
「ええ。お願いします」
斉藤が給湯室へ向かうと、麗華は蜜柑を一房口へ入れた。酸味が強く、果汁が指へ垂れた。麗華はそれを白いハンカチで拭き、机の上に置いた契約書の最初のページを開いた。
書類には、自分が踏みつけてきた人たちの名前が残っていた。麗華はもう画面を消すように閉じず、名前を一つずつ読み直した。自分が父と同じになった事実を、誰かのせいにせずに見るためだった。




