第7話 利用価値のない女
第7話 利用価値のない女
十二月最初の月曜日、九条麗華は午前六時に目を覚ました。目覚まし時計が鳴る前から天井を見ていたが、いつもの時刻になるまで布団を出なかった。寝室の椅子には、クリーニングから戻ったばかりの白いカシミヤのコートと、黒いウールのワンピースが用意されていた。
台所には、昨夜の宅配で届いた茸のスープとパンが残っていた。麗華はスープを温め直したものの、鍋から立つクリームの匂いを嗅いだだけで火を止めた。焦げ目のない食パンを一枚焼き、半分だけ食べると、残りを皿へ置いたまま化粧台へ向かった。
麗華は普段より時間をかけて化粧をした。目の下の影を隠し、頬へ薄く色を入れ、唇には深い赤色の口紅を引いた。耳には黒真珠のイヤリング、胸元にはダイヤモンドのブローチをつけ、鏡の前で何度も横顔を確認した。
「これでいいわ」
口に出しても、答える者はいなかった。スマートフォンには、天気予報と通販会社からの広告しか届いていない。麗華は画面を伏せ、白いコートを着て自宅を出た。
通勤途中にある小さな公園では、赤い山茶花が冷たい風に揺れていた。根元には散った花びらが重なり、夜露を含んで濃い赤色になっている。以前の麗華なら車の中から見るだけだったが、その朝は信号待ちの間、誰かが竹箒で花びらを集めている姿をぼんやり眺めた。
本社へ着くと、一階ロビーの受付係が一瞬だけ目を見開いた。以前なら三人いる受付係が揃って立ち上がり、麗華へ頭を下げていた。今朝は一人だけが座ったまま小さく会釈し、残りの二人は来客用の名札を整理し続けた。
「おはようございます、九条さん」
「九条部長です」
麗華は反射的に訂正した。受付係の指が止まり、隣にいた社員が顔を伏せた。すぐに自分が解任されたことを思い出したが、言葉を取り消せなかった。
「失礼いたしました。九条さん」
「もう結構よ」
麗華は社員証を入館機へかざした。以前とは違う短い音が鳴り、画面には「地下二階まで利用可」と表示された。役員会議室も三十二階の執務室も、麗華の社員証では入れなくなっていた。
エレベーターへ乗ると、都市開発事業部の社員が二人入ってきた。以前は朝の挨拶とともに麗華の服や髪を褒めていた者たちだった。二人は麗華を見ると話を止め、階数ボタンの前へ並んだ。
「三十二階でしょう。押してあるわ」
麗華が声をかけると、一人が振り返った。視線は麗華の白いコートから黒真珠のイヤリングへ移ったが、以前のような称賛の言葉は出てこなかった。
「ありがとうございます」
「再開発事業はどうなっているの?」
「担当外の方には、お話しできません」
エレベーターが三十二階へ着くと、二人は短く頭を下げて降りた。扉が閉じる直前、廊下から小さな笑い声が聞こえた。自分の話ではないかもしれないと思いながらも、麗華は地下二階へ着くまで、親指で爪の脇を押し続けた。
地下二階の事業整理室は、廃止された社員用書庫の一角にあった。窓はなく、灰色の机と金属製の書棚が並んでいる。古い紙と埃の匂いがこもり、天井の蛍光灯が一本だけ不規則に明滅していた。
室長の大森は六十歳を過ぎた男性で、茶色いカーディガンの肘に毛玉がついていた。机には蓋の欠けた湯飲みが置かれ、中で冷めた緑茶が濁っている。大森は麗華を見ると、新聞を折り畳んで立ち上がった。
「今日からでしたね。大森です」
「私の席はどこですか」
「こちらです。前に使っていた人の荷物が少し残っていますが、すぐ片づけます」
大森が示した机には、古い電卓、輪ゴムの箱、半分ほど残った喉飴が置かれていた。引き出しを開けると、割り箸と醤油の小袋がいくつも入っている。三十二階にあった麗華の執務机より狭く、隣の机との間には人一人が通れるほどの隙間しかなかった。
「個室はないの?」
「この部署に個室はありません。私も皆さんと同じ机です」
「秘書は?」
「書類の整理に秘書は必要ありませんよ」
大森は嫌味を言った様子もなく、段ボール箱を麗華の前へ置いた。箱の側面には「地方施設・閉鎖候補」と黒いペンで書かれている。中には、赤字が続く宿泊施設や小売店の報告書が詰め込まれていた。
「こちらを施設別、年度別に分けてください。分からないことがあれば、斉藤さんに聞いてください」
斉藤と呼ばれた女性は、灰色のパーカーの上に事務用のエプロンをつけていた。髪は後ろで一つに束ね、足元には履き古した室内履きを置いている。麗華へ軽く頭を下げると、昼食用らしい保温容器を机の下へしまった。
「並べ替えるだけですか」
「まずは内容を知ってもらいます。閉鎖の判断をするにも、資料が揃っていなければ始まりませんから」
「私が担当する仕事ではありません」
「人事部からは、この業務を担当してもらうよう聞いています」
「私がどれだけ大きな事業を動かしてきたか、知らないの?」
大森は毛玉のついた袖を指でつまみ、少し考えたあとで頷いた。麗華が期待した敬意も、失脚を喜ぶ表情もなかった。机の冷めた茶を一口飲み、顔をしかめてから答えた。
「ニュースで見ました。でも、ここにある書類も会社の仕事です」
大森は自分の席へ戻った。麗華は白いコートを椅子へかけ、段ボール箱から報告書を一冊取り出した。表紙には手垢がつき、綴じた紐の間には、どこから入ったのか乾いた菊の花びらが挟まっていた。
昼前になると、地下の暖房が効きすぎて空気が重くなった。麗華はジャケットを脱がず、額に浮いた汗だけをハンカチで押さえた。慣れない書類の分類に時間がかかり、三時間かけても段ボール箱の半分しか終わっていなかった。
「九条さん、昼ですよ」
斉藤が声をかけると、ほかの社員たちは保温容器や弁当箱を出した。大森の弁当にはアジの開きと卵焼きが入り、斉藤の容器からは大根の味噌汁の匂いが漂っている。社員たちは地下の休憩室へ向かったが、麗華を誘う者はいなかった。
麗華は鞄から、朝にコンビニで買ったサンドイッチを取り出した。普段なら専門店から取り寄せていたが、地下の食堂へ行けば社員たちに見られるため、途中で買ってきたものだった。透明な包装の中で、卵サラダの端が乾き始めていた。
麗華は机で一人、冷えたサンドイッチを口へ運んだ。味が薄く感じられ、二口食べるたびに水を飲んだ。食事の合間には、通知のないスマートフォンを何度も点灯させた。
画面には、かつて麗華を褒めたメールが残っている。次期社長は麗華しかいないと書いた役員は、解任後、一度も連絡してこなかった。麗華は古いメールを開いて読み、日付が三か月前であることを確認すると、すぐに画面を閉じた。
「九条さん、お客様です」
斉藤の声に、麗華はスマートフォンを机へ伏せた。入口には律が立っていた。黒いコートを腕にかけ、片手にはファイル、もう片方には社員食堂の紙袋を持っている。
「何の用?」
「再開発事業の引き継ぎ書類を持ってきました」
「私には、もう関係のない仕事でしょう」
「一部の契約について、九条さんしか経緯を知らないものがあります。確認をお願いします」
律は麗華の向かいへ椅子を置き、ファイルを開いた。紙袋からは、カレーの香りが漂っている。食堂が混んでいたため、昼食を持ってきたらしい。
「食べながら説明するつもり?」
「申し訳ありません。午後一時から会議があるので、まだ昼を食べていません」
「相変わらず、見た目を気にしないのね」
「カレーの染みには気をつけます」
律は紙袋を机の端へ置き、契約書の該当箇所を指した。麗華は律が自分を哀れむ言葉を口にするのを待った。しかし律は失脚にも地下の机にも触れず、業務の確認だけを続けた。
「ホテル運営会社との契約では、開業延期の場合に違約金が発生します。交渉時に、口頭で何か合意しましたか」
「一年以内の延期なら、違約金を請求しないと聞いています」
「誰から聞きましたか」
「先方の専務よ。会食の席で話しました」
「記録はありますか」
「私の言葉では信用できないの?」
「正式な交渉に使うため、確認できる記録が必要です」
麗華は唇を結び、当時の手帳を鞄から取り出した。以前は美緒が予定を管理していたが、解任後は自分で持ち歩いている。革の表紙には小さな傷が増え、挟んでいたレストランの領収書が床へ落ちた。
「この日よ。十月三日の会食で話しました」
「ありがとうございます。先方へ確認します」
「それだけ?」
「ほかに二件あります」
律は次の書類を開いた。慰める様子も、勝ち誇る様子もない。麗華がいら立った声を出しても、眉一つ動かさなかった。
「私がこんな所へ追いやられて、満足でしょう」
「仕事の話を続けてもよろしいですか」
「あなたは私を嫌っていたはずよ。失敗した私を見て、笑いたくならないの?」
「なりません」
「なぜ、笑わないの?」
律は書類を閉じた。地下の休憩室から、大森たちの笑い声と弁当箱を洗う水の音が聞こえている。律は麗華の目を避けず、いつもと同じ声で答えた。
「あなたの失敗は笑うものではありません。後始末が必要な問題です」
「私を責めないの?」
「責任は取るべきです。そのための異動でしょう」
「では、慰めに来たの?」
「引き継ぎに来ました」
麗華は律を見つめた。哀れまれるより、嫌われるより、何の特別な感情も向けられないことの方が耐え難かった。利用価値を失った自分は、律にとって、後始末に必要な情報を持つ社員の一人でしかなかった。
「私がいなくても、再開発は進むの?」
「進めなければなりません。ただし、着工は延期しました」
「三週間?」
「安全検証の結果、四週間必要になりました。住民との協議もやり直します」
「それでは、完成が遅れるわ」
「後の工程を調整すれば、完成予定は守れます」
「私の判断が、すべて間違っていたと言いたいのね」
「違います。あなたがまとめた資金計画や運営会社との交渉には、使えるものが多くあります。だから確認に来ました」
麗華は答えられなかった。律は麗華のしたことを許してはいない。それでも、過去の仕事まで否定せず、必要な部分を確かめている。
休憩を終えた斉藤が戻り、机の上のファイルを見た。手には小さな鉢植えがあり、黄色い小菊が三輪咲いていた。休憩室の窓辺では日が当たらないため、自分の机へ移すのだという。
「真壁さん、これ、よかったら一輪持っていきますか。挿し木で増えすぎたんです」
「ありがとうございます。娘が喜びます」
「九条さんも、いります?」
麗華は、自分へ花を渡そうとする斉藤の手を見た。安いビニール鉢には土がこぼれ、葉の一部が虫に食われていた。九条邸に飾られていた立派な百合とは違い、香りもほとんどない。
「私は結構よ」
「そうですか。欲しくなったら言ってください。まだ家にもありますから」
斉藤は気を悪くした様子もなく、小菊を一輪切って律へ渡した。律は濡らしたティッシュを茎へ巻き、大学ノートと一緒に透明な袋へ入れた。それから残りの確認事項を麗華へ尋ね、午後一時前に席を立った。
「ご協力ありがとうございました」
「もう、ここへ来る必要はないでしょう」
「確認事項があれば来ます」
「私が役に立つ間だけ?」
律はコートを腕へかけ、少し考えてから答えた。
「会社では、仕事があるときに話します。それではいけませんか」
麗華は返事をしなかった。律は小菊とファイルを持ち、地下二階から出ていった。机の端には食べる時間のなかったカレーの紙袋が残され、しばらくして律が慌てて取りに戻ってきた。
「忘れていました」
「会議に遅れるわよ」
「走れば間に合います」
律は紙袋を抱え、今度こそ廊下を走っていった。斉藤はその背中を見て笑い、大森は休憩室から戻りながら、走るとカレーがこぼれるぞと声をかけた。麗華の前であっても、三人の会話は止まらなかった。
午後、麗華は再び地方施設の書類を分類した。ある温泉宿の報告書には、従業員が庭で育てている山茶花の写真が挟まれていた。建物は古く、浴室の修繕費も払えないほど赤字だが、冬になると花を見に来る客がいるらしい。
麗華は写真を捨てず、報告書の表紙へ挟み直した。昼のサンドイッチは半分残り、卵サラダの匂いが机の上に残っていた。スマートフォンは一度も震えなかったが、麗華は夕方まで画面を点灯させなかった。
退社するとき、斉藤の机に置かれた小菊が蛍光灯の下で咲いていた。麗華は誰も見ていないことを確認し、花びらへ指先で触れた。斉藤が戻ってくる足音を聞くと、何もしていなかったように白いコートを着た。
「九条さん、お疲れさまでした」
「お疲れさま」
麗華は初めて斉藤へ返事をし、地下二階を出た。エレベーターの鏡には、高価な服を着たまま段ボールの埃を袖につけた女が映っていた。麗華は埃を払おうとして手を上げたが、そのまま下ろし、一階まで消さずに残した。




