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第6話 硝子の王座の崩壊

第6話 硝子の王座の崩壊


大型プレゼンを三日後に控えた朝、東京には冷たい雨が降っていた。都市開発事業部の窓は白く曇り、社員たちは濡れたコートを椅子の背にかけ、暖房の吹き出し口へ手をかざしていた。給湯室には昨夜の残業で食べたカップ麺の容器が二つ残り、醤油と消毒用アルコールの匂いが混じっていた。


九条麗華は白いブラウスに黒いパンツスーツを合わせ、午前七時から執務室でプレゼン資料を確認していた。机にはホテルから届けさせたクロワッサンとスクランブルエッグが並んでいたが、コーヒー以外には手をつけていない。資料の表紙には「湾岸複合都市開発事業・着工発表」と金色の文字が印刷され、その下に麗華の名前が記載されていた。


プレゼンには自治体関係者、金融機関、報道各社が招かれている。終了後には征一郎が正式に麗華を後継者候補として紹介するという話も出ていた。麗華は鏡代わりに暗くなったパソコン画面をのぞき込み、口紅の輪郭を指で整えた。


午前八時過ぎ、律が厚いファイルを抱えて入ってきた。紺色のスーツの裾は雨で濡れ、黒い革靴には泥がついている。いつも持っている大学ノートは、透明な袋に包まれていた。


「九条部長、着工発表を延期してください」


麗華はクロワッサンを取ろうとしていた手を止めた。律の後ろには奈央と現場責任者の高橋が立っている。高橋は作業着の上に防水ジャケットを着ていたが、肩から雨水が落ち、執務室の絨毯へ黒い染みを作っていた。


「朝から三人で押しかけて、何の話ですか」


「住民との合意が成立していません」


律はファイルを開き、説明会後に住民から提出された意見書を並べた。騒音対策、通学路の安全、地盤沈下への不安など、百七十三件の質問が寄せられている。そのうち四十件以上は回答が保留され、地元自治会の同意書にも会長の署名がなかった。


「説明会は予定どおり終了しました。自治体からも中止の連絡は来ていません」


「説明会を開くことと、合意を得ることは別です」


「反対する人が一人もいなくなるまで待てというの?」


「全員の賛成は必要ありません。しかし、通学路の変更と地盤の追加検証は、着工前に結論を出すと約束しています」


高橋が濡れた帽子を握りしめた。現場近くでは、雨が降るたびに工事用道路の一部へ水がたまる。大型車両を通すには排水設備を追加する必要があるが、その安全検証はまだ終わっていなかった。


「このまま工事を始めれば、小学校の登下校時間と資材の搬入が重なります。現場では責任を持てません」


「搬入時間をずらせば済む話でしょう」


「近隣との協議なしには決められません」


「では、今日中に協議してください」


律は麗華の前へ工程表を置いた。着工発表を三週間延期すれば、地盤の追加検証と自治会との協議を終えられる。施設の完成予定には影響しないよう、後の工程も調整されていた。


「三週間の延期で済みます。今日中に発表すれば、金融機関への説明も間に合います」


「延期はしません」


「理由を伺ってもよろしいですか」


「すでに招待状を送り、会場も押さえています。九条グループの信用に関わります」


「不十分な情報で着工を発表する方が、信用を失います」


麗華は椅子から立ち上がった。コーヒーカップへ袖が触れ、黒い液体が受け皿へこぼれた。麗華は布巾を取らず、律の工程表を閉じた。


「あなたは、自分がこの事業の責任者だと思っているの?」


「工程管理の責任者です。安全に関する問題を報告する義務があります」


「報告は受け取りました。最終判断をするのは私です」


「では、延期しないという判断と、私たちが延期を進言した記録を残してください」


「また記録ですか」


「事故が起きてから、聞いていなかったと言われないためです」


麗華は律の顔を見た。少しでも声を荒らせば、怯えて黙る者ばかりを相手にしてきた。しかし律は怒りも恐れも見せず、麗華の判断を待っていた。


「文書で提出してください。読んでおきます」


「本日の正午までに提出します」


律たちが出ていくと、麗華は執務室の扉を閉めた。受け皿から流れたコーヒーが白い書類の端へ染み込み、茶色い線を作っている。麗華は汚れたページを抜き取ると、細かく破いてごみ箱へ捨てた。


机の上のスマートフォンが震え、征一郎からのメッセージが表示された。


「三日後、結果を見せてもらう」


短い一文を読んだ麗華の指から、震えが始まった。着工発表を延期すれば、父は理由を尋ねる。住民との合意も得られない人間に大事業は任せられないと言われ、後継者候補の話も消えるかもしれなかった。


麗華は律から提出された延期要請書を開いた。安全検証が終わっていないこと、住民との協議が必要なこと、三週間の延期で対応できることが明記されている。麗華は要請書を役員会用の共有フォルダへ入れず、個人フォルダへ移した。


午後の役員会で、専務が住民との合意状況を尋ねた。会議室には老舗和菓子店の栗羊羹が用意され、切り口から甘い匂いが漂っている。麗華は羊羹へ手をつけず、準備していた報告書を配った。


「住民説明会は無事に終了し、現場の合意も得ています。残っている意見については、着工後も丁寧に対応します」


律が顔を上げた。延期要請書には目を通したはずだが、役員の前には提出されていない。高橋も会議へ出席していたが、麗華は二人が発言する前に説明を続けた。


「安全検証についても、大きな問題は報告されていません。予定どおり、金曜日に着工日を発表します」


「真壁君、工程上の問題はないのかね」


専務から指名された律は、手元の資料を閉じた。麗華の視線が向けられたが、律は言葉を変えなかった。


「三週間の延期を進言しています。住民との合意と、安全検証が完了していないためです」


役員たちが一斉に麗華を見た。麗華は水のグラスへ指を添え、落ち着いた声で答えた。爪の脇には親指を押しすぎて赤い跡がついていた。


「現場から慎重な意見が出るのは当然です。責任者である私が全体を検討し、予定どおり進められると判断しました」


「危険はないのかね」


「ありません」


麗華は言い切った。向かいに座る征一郎は、娘を褒めることも律を叱ることもなく、栗羊羹を小さく切って食べていた。麗華は父の顔から、正解だったという印を探した。


プレゼン当日の朝、空は前日までの雨が嘘のように晴れていた。ホテルの大宴会場には、九条グループのロゴが入った青い幕が張られ、中央には巨大なスクリーンが設置されている。受付には百合の花が飾られ、照明の熱で濃くなった香りが会場まで届いていた。


麗華は光沢のある白いスーツを着て、黒い髪を一つにまとめていた。首には母から譲られたダイヤモンドのネックレスが輝き、手には発表用の小さな端末を持っている。控室にはサンドイッチと果物が用意されていたが、麗華は葡萄を一粒食べただけだった。


美緒は秘書としてではなく、人事部の担当者とともに会場へ来ていた。紺色のワンピースを着て、首から社員証を下げている。麗華が近づいても、美緒は頭を下げるだけで話しかけなかった。


「美緒さん、今日は私の補助へ戻りなさい」


「人事部から、九条部長の個人的な指示を受けないよう言われています」


「プレゼンが終わるまででいいの」


「業務上必要なことは、現在の担当者へお伝えください」


麗華は美緒の隣にいる人事部員へ目を向けた。人事部員は眼鏡を押し上げ、会釈するだけだった。麗華は口紅を塗り直すために控室へ戻り、鏡の前で唇の両端を上げた。


午前十時、麗華は拍手の中で壇上へ上がった。スクリーンには、完成後の複合施設と緑地公園を歩く家族の映像が流れている。麗華は用意した言葉を間違えず、九条グループの未来と地域への貢献について語った。


「私たちは、地域の皆様とともに、この新しい街を育ててまいります。来月一日、湾岸複合都市開発事業は着工いたします」


会場の後方から、大きな声が上がった。


「私たちは同意していません!」


報道関係者が一斉に振り返った。入口には、地元自治会と小学校の保護者たちが立っていた。「通学路の安全を守れ」「合意なき着工に反対」と書かれた紙を掲げている。警備員が近づいたが、高齢の自治会長は署名のない同意書を頭上へ上げた。


「九条さんは、住民の合意を得たと言いました。しかし、私たちは追加説明を求めています。この同意書には、誰の署名もありません!」


麗華は端末を持ったまま、壇上から動けなかった。照明が顔へ当たり、白いスーツの内側に汗がにじむ。司会者が会見を中断しようとしたが、記者から次々と質問が飛んだ。


「安全検証が終わっていないという情報がありますが、事実ですか」


「工事車両と小学生の通学時間が重なるのではありませんか」


「現場から延期要請が出ていたという話は?」


麗華はマイクを握り直した。会場には百合の香りと、人々の湿った上着の匂いがこもっている。喉が乾いていたが、用意された水へ手を伸ばすこともできなかった。


「現在までに、着工を妨げる重大な問題は確認されておりません。住民の皆様には、引き続き丁寧にご説明します」


「追加検証は終わっているんですか。はいか、いいえで答えてください」


麗華が答える前に、会場のスクリーンが暗くなった。予定されていた着工発表は中止され、報道陣は住民団体を囲んだ。麗華が舞台袖へ戻ると、征一郎は秘書を連れて会場から出ていくところだった。


「お父様、お待ちください」


「会社へ戻れ。臨時役員会を開く」


「私から説明します。住民団体の要求は、事業を中止するほどのものではありません」


「ここで話すことではない」


「今日、後継者の発表をする予定だったでしょう」


征一郎は足を止めたが、麗華の顔を見なかった。床には、来場者が落としたサンドイッチのレタスが一枚転がっている。清掃員がそれを拾う横を、征一郎は何も答えずに通り過ぎた。


午後の臨時役員会では、プレゼンの映像と現場の資料が確認された。律が提出した延期要請書には、麗華が閲覧した時刻まで記録されていた。自治体への報告書には、麗華の承認によって「住民合意済み」と記載されている。


さらに、人事部が美緒の提出した記録を示した。日程変更のメールを律へ伝えなかったこと、履歴を削除するよう命じたこと、深夜の業務指示、異動を利用した脅しが日時とともに残されている。会議机の上には夕食用の幕の内弁当が配られたが、誰も蓋を開けなかった。


「佐伯さんが誤解しただけです。不要なメールの整理を命じたのであって、証拠を消せとは言っていません」


麗華は一つずつ反論した。声は落ち着いていたが、膝の上では両手の爪が互いの指へ食い込んでいた。征一郎は資料を最後まで読むと、眼鏡を外した。


「住民との合意を得たと報告したのは、お前か」


「事業を進めるために必要な判断でした」


「安全検証が終わっていないことは知っていたのか」


「完成予定に影響する問題ではありません。三週間の延期は、会社へ余計な不安を与えます」


「質問に答えろ。知っていたのか」


麗華は父の顔を見た。十歳のとき、九十八点の答案用紙を差し出した夜と同じ目だった。麗華は唇へ力を入れ、背筋を伸ばした。


「知っていました」


征一郎は眼鏡を机へ置いた。


「本日付で、九条麗華を都市開発事業部長から解任する。後継者候補からも外す」


「お父様」


「ここでは会長と呼べ」


「この事業を立ち上げたのは私です。今、私を外せば、九条グループの損失になります」


「すでに損失を与えたのはお前だ」


「一度の判断で、私の実績をすべて否定するのですか」


「九条グループに損害を与えた者を、身内だからと庇うつもりはない」


麗華は役員たちを見回した。以前は麗華を次期社長と呼び、食事やゴルフへ誘ってきた者たちだった。しかし、誰も麗華と目を合わせず、机の資料や手つかずの弁当を見ていた。


「専務、再開発の交渉をしたのは私です。私が抜ければ、金融機関との調整も止まります」


「引き継ぎは真壁君を中心に行ってもらいます」


「彼は入社したばかりです」


「少なくとも、都合の悪い報告を隠さない」


麗華は椅子から立ち上がろうとしたが、足に力が入らなかった。ダイヤモンドのネックレスが首へ食い込み、白いスーツの襟元が急に狭くなったように感じた。征一郎は会議の終了を告げると、秘書を連れて退室した。


役員たちも次々と部屋を出ていった。最後まで残っていた専務は、幕の内弁当を一つ持ち上げたが、麗華の分には触れなかった。扉が閉じると、広い会議室には空調の音だけが残った。


麗華は椅子へ座ったまま、消えたスクリーンを見つめた。そこには着工を発表する自分の姿ではなく、白いスーツを着て動けなくなった女が映っている。首から外れた社員証が机の端を滑り、床へ落ちた。


乾いた音がしても、麗華は拾わなかった。昼から何も食べていない腹が鳴り、机の上の弁当から煮物と焼き魚の匂いが漂っていた。麗華は誰かが戻ってきて自分へ声をかけるのを待った。


十分が過ぎても、扉は開かなかった。スマートフォンにも、励ましや称賛のメールは一通も届かなかった。麗華は消えた画面へ顔を向けたまま、爪の脇を押す指だけを動かし続けた。


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