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第5話 女王のいない昼食

第5話 女王のいない昼食


十一月五日の住民説明会は、大きな混乱もなく終了した。翌朝の都市開発事業部には、徹夜を免れた社員たちの安堵した声と、差し入れでもらった肉まんの匂いが広がっていた。窓の外はよく晴れ、遠くの建物まで見渡せたが、九条麗華の机に置かれたコーヒーからは、とっくに湯気が消えていた。


説明会の報告書には、真壁律の名前が何度も記載されていた。現場との工程調整、自治体への確認、住民からの質問への対応など、どの項目にも律が関わっている。麗華は報告書を閉じると、深紅のスーツの袖口を直し、内線で律を執務室へ呼び出した。


「住民説明会、お疲れさまでした」


「九条部長もお疲れさまでした」


「評判がいいようですね。役員からも、真壁さんの対応は落ち着いていたと聞きました」


「現場の高橋さんと木村さんが、事前に資料を揃えてくれたおかげです」


律は褒められても、いつものように功績を分けた。麗華は机の上に三つのファイルを並べ、律の前へ押し出した。どれも現在の担当業務とは直接関係のない資料だった。


「次の役員会までに、こちらをまとめてください。海外企業の事例調査、近隣商業施設の売上予測、それから住宅棟の管理規約案です」


「住宅棟の管理規約は、法務部の担当ではありませんか」


「都市開発の全体を知るためには必要でしょう。経験を広げるよい機会だと思います」


「提出期限は、いつでしょうか」


「三日後の午前九時です」


律はファイルを一冊ずつ開いた。通常なら、それぞれ数日はかかる仕事だった。現在の工程管理と並行して一人で終わらせれば、夜通し働くことになる。


「優先順位を確認させてください。現在担当している地盤調査と住民対応を延期し、こちらを優先するという指示でしょうか」


「両方進めてください」


「勤務時間内に終えるのは困難です。残業を命じられる場合は、対象業務と必要時間を文書でお願いいたします」


麗華の口元から笑みが消えかけた。これまでの部下なら、無理だと思っても仕事を持ち帰り、眠らずに仕上げていた。麗華から能力がないと思われる方が、残業よりも恐ろしかったからだ。


「何でも文書にしなければ動けないの?」


「業務の優先順位を明確にするためです。地盤調査を遅らせた場合、着工日にも影響します」


「あなたの力量を見込んで任せているのよ」


「ありがとうございます。では、必要な人員も指定してください」


「一人ではできないと言うの?」


「一人で行えば、確認の精度が下がります。急ぐ仕事ほど、複数人での確認が必要です」


律は反抗的な言葉を一つも使わなかった。それでも麗華が逃げ道を塞ごうとするたび、記録と手順を求めてくる。麗華は爪の脇へ親指を押しつけながら、書類の担当を割り振ると約束するしかなかった。


午前の進捗会議では、奈央が商業棟の収支予測を説明した。奈央は白いニットに茶色のスカートを合わせ、母親から借りたという小さな銀色のブローチを胸につけていた。机の下には病院へ持っていく紙袋が置かれ、中には母親の着替えと蜜柑が入っていた。


「開業初年度の売上は、百八十二億円を見込んでいます。近隣施設との競合を考慮して、前回より三パーセント下方修正しました」


麗華は資料をめくり、三ページ目で手を止めた。注釈の文字がほかよりわずかに小さい。内容には問題がなかったが、麗華は資料を閉じ、奈央の前へ投げ返した。


紙の束が机の上を滑り、奈央の水筒へ当たった。蓋が緩んでいたため、温かいほうじ茶が少しこぼれた。香ばしい匂いが広がり、奈央は慌ててハンカチで拭いた。


「こんな読みにくい資料を、役員へ出すつもりなの?」


「申し訳ありません。注釈の文字を修正します」


「先日の映写資料でも間違えましたね。何度注意されれば理解できるのかしら」


「内容については、二人で確認しました」


「今は内容の話をしていません」


麗華は奈央の足元にある紙袋へ目を向けた。奈央が母親の見舞いへ行くため、今日は定時で退社する予定だと知っていた。ほかの社員たちも、その事情を承知している。


「お母様のことで大変なのは分かります。でも、家庭の問題を職場へ持ち込まれては困るのよ」


奈央の手が止まった。会議室にいる全員が、紙袋へ視線を向けている。奈央は母親の病名を話していなかったが、麗華の言葉によって、仕事へ影響が出るほど重い病気だと思われるような形になった。


「母のことは、今回の資料と関係ありません」


「そうかしら。以前は、このような見落としをする方ではなかったでしょう」


「注釈の大きさは見落としではなく、ほかの文字を読みやすくするために変えました」


「口答えをするようになったのね」


奈央は唇を結び、ぬれた資料をハンカチで押さえた。以前なら、麗華に見放されることを恐れて何度も謝っていた。しかし今は頭を下げず、床の紙袋を自分の椅子の後ろへ移した。


律が自分の資料を開き、麗華の方へ向けた。


「九条部長、私の資料も同じ形式です。役員会用の統一書式として、私が木村さんへ提案しました」


「真壁さんには聞いていません」


「木村さん個人の判断ではないことだけ、訂正させてください」


「あなたは、自分の立場を理解しているの?」


「工程管理の担当者です。資料の形式を変更した責任もあります」


麗華はペンを机へ置いた。いつもなら誰か一人を責めれば、ほかの社員は巻き込まれないよう目を伏せた。しかし今日は、奈央の隣に座る社員まで、顔を上げて麗華を見ていた。


「資料を修正して、午後三時までに提出してください。会議は以上です」


社員たちは無言で席を立った。扉を出たところで、誰かが奈央へ新しいハンカチを渡し、別の社員がぬれた資料をコピーし直すと申し出た。麗華が廊下へ出ると会話は止まったが、以前のように頭を下げる者はいなかった。


正午になると、美緒が麗華の執務室へ昼食の予定を確認しに来た。麗華は午前中の会議などなかったように、白いブラウスへついた髪を払った。机には朝から置かれたコーヒーと、森山が持たせた洋梨のタルトが残っていた。


「今日は皆さんと近くのフランス料理店へ行きましょう。真壁さんの歓迎会以来、ゆっくり話していなかったものね」


「今日は、皆さん予定があるそうです」


「全員?」


「木村さんは病院へ行く前に銀行へ寄ります。真壁さんたちは、地下の社員食堂で現場担当者と打ち合わせです」


「では、美緒さんは空いているでしょう」


美緒は手帳を胸の前で閉じた。昨夜も麗華から午前零時過ぎに電話があり、過去三年分の会議記録を調べるよう命じられていた。帰宅後に作った味噌汁は手をつけないまま冷め、猫の餌だけを用意して眠ってしまった。


「人事部へ行く予定があります」


「昼休みに?」


「はい。面談をお願いしています」


「何の面談?」


「個人的なことです」


麗華は美緒の顔を見た。以前の美緒なら、問われる前に誰と何を話すか説明していた。しかし今日は、手帳を抱えたまま、麗華から目をそらさなかった。


「そう。では、一人で行ってくるわ」


麗華が執務室から出ると、社員たちはそれぞれ財布や弁当を手に席を立っていた。奈央は母親が作ったという梅干しのおにぎりを律へ一つ渡し、律は代わりに娘が詰めたきんぴらを分けている。麗華が通ると会話が止まり、エレベーターの扉が閉じたあとで再び笑い声が聞こえた。


麗華は予約していたフランス料理店へ一人で入った。白いクロスのかかった四人用の席には、人数分の水とパンが用意されていた。店員が余分な食器を片づける音を聞きながら、麗華は前菜の鴨肉へナイフを入れた。


「ほかのお客様は、遅れていらっしゃいますか」


「来ません。席を一人用に替える必要もありません」


「承知いたしました」


料理は温かく、肉の焼き加減にも問題はなかった。それでも麗華は半分ほど残し、ワイングラスの水ばかり飲んだ。向かいの空いた椅子へ、いつ誰が座っていたか思い出そうとしたが、顔ではなく、自分を褒めた言葉しか浮かばなかった。


その夜、午後十一時四十分に麗華は美緒へ電話をかけた。再開発事業とは関係のない、征一郎が出席する慈善晩餐会の招待客を調べさせるためだった。呼び出し音は鳴ったが、美緒は出なかった。


麗華は五分おきに三度かけ直した。四度目で美緒が電話に出ると、背後から洗濯機の回る音と猫の鳴き声が聞こえた。美緒は部屋着に着替え、洗濯物を干そうとしていた。


「どうして出なかったの?」


「勤務時間外だからです」


「急ぎの用事かもしれないでしょう」


「業務上の緊急連絡なら、会社のメールへ内容を送ってください」


「晩餐会の招待客名簿を確認してほしいの。父が出席するから、失礼があってはいけないわ」


「それは秘書室の業務です。明日の朝、担当部署へ依頼してください」


麗華はスマートフォンを握り直した。誰も見ていない自宅でも、背筋を伸ばし、足を組み直した。テーブルには宅配で注文した海老のパスタが置かれていたが、ソースの表面は冷えて固まり始めていた。


「私の秘書でしょう」


「勤務時間内の業務には対応します。ただし、深夜の電話には今後出ません」


「あなたまで、私を裏切るの?」


電話の向こうで、洗濯機が止まった。美緒はしばらく黙り、床へ落ちていた猫の玩具を拾った。鈴が小さく鳴ってから、低い声が返ってきた。


「最初から、麗華部長に人生を差し出した覚えはありません」


「その言葉がどういう意味か、分かっているの?」


「分かっています」


「あなたの人事評価を決めるのは私よ。望むなら、明日にでも地方の支社へ異動させられます」


「その発言も記録させていただきます」


麗華は椅子から立ち上がった。香水の瓶へ腕が当たり、化粧台の上で倒れた。甘い花の香りが急に広がり、麗華は眉を寄せた。


「記録ですって?」


「業務時間外の指示と、これまで受けた発言を記録しています。自治体からのメールを削除するよう求められた件も含め、今日、人事部へ提出しました」


「私を告発したの?」


「事実を提出しました。判断するのは人事部です」


「私があなたを育てたのよ。何もできなかったあなたを、ここまで連れてきたのは私でしょう」


「仕事を教えていただいたことには感謝しています。でも、それで何をされても黙っている義務はありません」


美緒はそう言うと、電話を切った。麗華がかけ直しても、今度はつながらなかった。画面には、着信を拒否されたことを示す短い表示だけが残った。


翌朝、美緒はいつもどおり出社した。灰色のカーディガンに黒いスカートを合わせ、昨夜洗ったブラウスを紙袋に入れて持っていた。自分の席へ座ると、麗華の予定表ではなく、引き継ぎ用の一覧を作り始めた。


「美緒さん、執務室へ来なさい」


「人事部の担当者も同席する場合のみ、お話しします」


「命令に従わないの?」


「秘書業務については従います。個人的な電話や、記録の削除には従いません」


社員たちはパソコンへ向かったまま、二人の会話を聞いていた。麗華が周囲を見回しても、目を伏せて怯える者はいない。奈央は母親から借りた銀色のブローチをつけ、律は短い鉛筆で大学ノートへ予定を書いていた。


麗華は執務室へ戻り、扉を閉めた。机の上には一人分のコーヒーしかなく、以前なら美緒が添えていた小さな菓子もなかった。窓の下にある社員食堂では、何人もの社員が同じテーブルを囲み、昼食を取っていた。


恐怖でつないだ相手は、自分から離れられないと思っていた。しかし、美緒は電話を切り、奈央は頭を下げず、ほかの社員たちも麗華を待たずに昼食へ行った。麗華は冷めたコーヒーを一口飲み、苦さを消すために砂糖を二袋入れた。


昼休みになっても、麗華を誘いに来る者はいなかった。廊下の向こうから社員たちの笑い声が聞こえたが、麗華が扉を開けると、声はすぐに止まった。麗華は誰もいない会議室へ入り、四人分の席が用意されていた昨日の食卓を思い出しながら、一人で洋梨のタルトの箱を開けた。


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