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第4話 仕組まれた欠落

第4話 仕組まれた欠落


十月に入ると、朝の風が急に冷たくなった。九条グループ本社の三十二階では暖房がまだ使えず、佐伯美緒は膝へ薄い毛布をかけて仕事をしていた。机には昨夜コンビニで買った栗入りの蒸しパンが置かれていたが、包装を開ける暇もないまま、表面に水滴が浮いていた。


午前八時半、東京都湾岸整備局から麗華宛てに一通のメールが届いた。住民説明会の日程を十一月十二日から十一月五日へ変更し、説明資料を十月二十五日までに提出してほしいという内容だった。会場となる区民ホールが改修工事へ入るため、予定を一週間早める必要があるらしい。


「九条部長、自治体から日程変更の連絡です」


美緒が印刷したメールを届けると、麗華は淡い紫色のジャケットの袖を整えながら受け取った。執務机には紅茶と小さなスコーンが置かれ、苺のジャムから甘い香りが漂っている。麗華は日程を一度確認すると、書類を伏せた。


「この件は私から真壁さんへ伝えます。ほかの方には、まだ知らせなくて結構です」


「ですが、説明資料の提出まで十日しかありません」


「だからこそ、情報が混乱しないように私が管理するのよ」


「承知しました。メールを真壁さんへ転送しましょうか」


「必要ありません。私が伝えると言ったでしょう」


麗華の声は穏やかだったが、美緒はそれ以上聞けなかった。深夜に電話をかけられた日から、美緒は麗華の着信音が鳴るたびに肩へ力が入るようになっていた。美緒は空腹のまま席へ戻り、冷たくなった蒸しパンを小さくちぎって口へ入れた。


麗華は自治体からのメールを個人フォルダへ移した。先週の歓迎会以来、律は社員たちから何度も意見を求められている。奈央まで麗華を通さずに律へ資料を見せるようになり、その姿を見るたび、麗華の指は無意識に爪の脇を押していた。


午前十時、麗華は律を執務室へ呼んだ。律は白いシャツに紺色のネクタイを締め、古い大学ノートを抱えて入ってきた。ノートの表紙には、娘が貼ったらしい犬のシールが増えていた。


「住民説明会の準備を、あなたに任せます」


「承知しました。現在の予定では十一月十二日ですね」


「ええ。資料の提出期限は十一月一日です」


麗華は古い予定が記載された工程表を律へ渡した。律はページをめくり、説明資料の作成担当者を確認している。麗華は机の上の紅茶へ口をつけながら、その横顔を観察した。


「中途入社したばかりのあなたには、大きな仕事かもしれません。でも、私は能力のある方には機会を与えたいの」


「ありがとうございます。住民から出ている質問と、自治体との直近の協議記録もいただけますか」


「必要なものは、このファイルに入っています」


「最新の記録は先月十八日のものでしょうか」


「それ以降、重要な変更はありません」


律は麗華の顔を見たが、問い直さなかった。ファイルを閉じ、提出物を一つずつノートへ書き込んだ。麗華は、律が自分を疑う様子を見せないことに満足しながら、残っていたスコーンを二つに割った。


「期待していますよ、真壁さん」


「できるだけ早く、現場と確認します」


「失敗を恐れなくてもいいわ。責任は上司である私が取りますから」


「では、変更があればすぐに共有をお願いします」


「もちろんです」


律が退室すると、麗華はスコーンへ厚くジャムを塗った。甘酸っぱい苺の味が舌へ広がり、朝から胸に引っかかっていたものが少し軽くなった。説明会の日程変更が判明すれば、律は確認不足を問われ、麗華の指示に従わざるを得なくなるはずだった。


その日の午後、律は湾岸地区の建設予定地へ向かった。空には灰色の雲が広がり、海から吹く風には潮と重機の油が混じった匂いがあった。律は会社から支給された作業着へ着替え、白いヘルメットをかぶって現場事務所へ入った。


事務所の隅には、作業員が持ち寄った菓子の袋と、昼に食べたカップ麺の容器が積まれていた。壁際の電気ポットは何度も沸騰を繰り返し、窓ガラスは内側から曇っている。現場責任者の高橋は、冷めた缶コーヒーを飲みながら律の工程表を見た。


「真壁さん、この日程で本当に間に合うのか」


「説明会まで、あと一か月あります。今週中に住民からの質問を整理できれば間に合います」


「一か月? 説明会は十一月五日だろう」


律の鉛筆が止まった。手元の工程表には、十一月十二日と書かれている。律は念のため日付を指で押さえ、高橋へ見せた。


「こちらでは、十二日になっています」


「先週、自治体から変更の連絡が来たぞ。うちにも会場設営の確認が来ている」


「その連絡を見せていただけますか」


高橋は机の上に積まれた書類を探し、自治体から届いたファクスを取り出した。紙の端には昼食の醤油が一滴ついていたが、説明会の日程と提出期限ははっきり読めた。律はファクスを撮影し、その場で美緒へ電話をかけた。


「佐伯さん、説明会の日程が十一月五日へ変更されたと聞きました。社内に連絡は届いていませんか」


「その件は……」


電話の向こうで、美緒が言葉を止めた。律は急かさず、事務所の窓から建設予定地を見た。雨が降り始め、むき出しの土へ濃い染みを作っている。


「届いているなら、変更後の協議内容を送ってください。資料提出まで十日しかありません」


「九条部長から、真壁さんへ直接伝えると聞いていました」


「私は聞いていません」


「すぐに確認します」


「確認を待っている時間はありません。自治体へ私から連絡してもよろしいですか」


美緒は返事に詰まった。麗華の許可なく律へメールを転送すれば、何を言われるか分からない。しかし黙っていれば、住民説明会の準備が間に合わなくなる。


「私から送ります。届いた記録を、すべて転送します」


「ありがとうございます。送信日時も残してください」


律は電話を切ると、現場の長机へ資料を広げた。高橋や担当者たちを集め、提出までに必要な作業を確認する。日程が一週間早まっても、すでに完成している資料を活用すれば、遅れを最小限にできると判断した。


「今夜中に、騒音対策の資料をまとめます」


高橋が言うと、律は首を振った。高橋の作業着には乾いた泥がつき、目の下には疲れが残っている。無理な徹夜をさせれば、別のミスが起きるだけだった。


「今日は定時で帰ってください。明日の朝、担当を分けます」


「十日しかないぞ」


「十日あります。徹夜を前提にしない工程を作ります」


「本社から来た人間は、現場へ無茶を言うものだと思っていたよ」


「以前の会社では、私も無茶を言って怒鳴られました。娘の運動会へ一度遅刻してから、考えを変えたんです」


「それは奥さんに怒られただろう」


「弁当に私の分だけ卵焼きが入っていませんでした」


事務所に小さな笑いが起きた。律は大学ノートへ担当者の名前を書き、翌日からの作業を組み直した。外の雨脚は強くなっていたが、現場の社員たちは、何をすればよいのか分かったことで手を動かし始めた。


翌朝、麗華が出社すると、部署内はすでに慌ただしくなっていた。社員たちは住民から届いた質問を分類し、印刷機から次々と資料が吐き出されている。給湯室には夜食用に買われたカップスープが並び、コーンの甘い匂いが漂っていた。


「これは何の騒ぎですか」


麗華が尋ねると、美緒が席を立った。薄桃色のブラウスの袖口には、こぼしたコーヒーの茶色い染みが残っている。美緒は麗華と目を合わせられず、両手を前で組んだ。


「住民説明会の日程変更に対応しています」


「誰の指示で?」


「真壁さんです。現場で変更を知り、自治体にも確認してくださいました」


「私が伝えると言ったはずよ」


「ですが、資料の提出期限が迫っていましたので」


麗華は笑顔を崩さず、律の席を見た。律は電話で自治体の担当者と話しながら、修正した工程表を画面に映している。麗華が近づくと、律は電話を終えて立ち上がった。


「九条部長、日程変更への対応を始めました。自治体にも確認済みです」


「勝手に連絡したの?」


「現場責任者から変更を聞きました。確認しなければ準備が間に合わないと判断しました」


「変更は私から伝える予定でした」


「承知しました。いつ伝えていただける予定だったのでしょうか」


麗華は一瞬、答えられなかった。周囲では社員たちが手を止め、二人の会話を聞いている。ここで律を叱れば、日程変更を伝えなかった自分の責任が注目される。


「ほかの案件への対応が重なり、失念していました。私の不注意です」


「では、現在の工程表をご確認ください。説明会は予定どおり実施できます」


律は麗華を責めなかった。声にも勝ち誇った様子はなく、修正内容を説明するだけだった。麗華は資料を受け取りながら、爪の脇へ親指を押しつけた。


午後の役員会で、住民説明会の日程変更が報告された。麗華は自分の指示によって迅速に対応したように説明しようとしたが、現場から先に報告書が届いていた。資料には、律が食い違いを発見した時刻と、自治体へ確認した経緯が記載されている。


「真壁君が気づかなければ、説明会に間に合わなかったのではないかね」


専務が尋ねると、麗華は膝の上で指を組んだ。向かいに座る父の征一郎は、娘の顔を見ずに報告書を読んでいる。会議室には熱い緑茶が用意されていたが、麗華の湯飲みだけは手をつけられないまま冷えていた。


「最終的には予定どおり実施できます。真壁さんの対応は適切でした」


「地方の現場経験が役に立ったようだな」


「九条部長の見落としを、真壁君が救った形ですね」


役員の言葉に、誰かが小さく頷いた。麗華は口元に笑みを浮かべ、律の働きを称えた。会議が終わるまで、爪が手のひらへ食い込んでいることには触れなかった。


役員会のあと、麗華は美緒を執務室へ呼んだ。窓から差し込む夕日が机を赤く照らし、朝に用意されたハーブティーはカップの中で冷えていた。麗華は扉が閉まったことを確認してから、美緒へ自治体とのメール履歴を開かせた。


「この日程変更に関するメールを整理してください」


「整理とは、フォルダを移すということでしょうか」


「不要な重複メールを削除して。私から真壁さんへ転送していないことが分かる記録も残す必要はありません」


美緒の指が、ノートパソコンの上で止まった。空調の風が当たり、袖口のコーヒー染みが冷たくなっている。麗華は急かさず、椅子へ深く座ったまま美緒の手元を見ていた。


「削除しても、会社のサーバーには記録が残ります」


「通常の画面から見えなければいいの」


「それは、証拠を消すということですか」


「言葉に気をつけなさい。業務に不要なメールを整理するだけよ」


「承知しました」


美緒はメールを削除用のフォルダへ移した。しかし執務室を出たあと、給湯室へ入り、持っていた小さな保存媒体にメールと指示記録の写しを残した。流しには誰かが食べたカレーうどんの容器が置かれ、だしと香辛料の匂いがこもっていた。


美緒の手は震えていた。保存を終えても、しばらく取り外しの操作ができなかった。やがて奈央が給湯室へ入ってくると、美緒は慌てて保存媒体を化粧ポーチの中へ隠した。


「佐伯さん、大丈夫ですか。顔色が悪いですよ」


「少し、コーヒーを飲みすぎただけ」


「今日はもう四杯目です。温かい麦茶を淹れましょうか」


「ありがとう。お願いします」


数日後、律は進捗会議で新しい情報共有の仕組みを提案した。自治体や現場から届いた連絡を一つの共有画面へ集め、誰がいつ確認したか記録する方法だった。重要な変更については、担当者全員へ自動的に通知が届く。


「今回のような伝達漏れを防ぐためです」


律は誰の責任とも言わなかった。麗華の名前も出さず、仕組みの問題として説明した。社員たちは便利になると歓迎し、美緒も黙って資料へ目を落とした。


「つまり、私が情報を管理できないとおっしゃりたいの?」


麗華が笑顔で尋ねると、律は首を横へ振った。会議室には昼食用のサンドイッチが届き、焼いたベーコンとマスタードの匂いが広がっている。律は手元の資料を閉じ、麗華をまっすぐ見た。


「個人の能力に頼らなくても、誰もが確認できるようにしたいだけです」


「私の承認なしに、情報が共有されることになりますね」


「業務上の変更については、早く届く方が安全です。最終的な判断は、これまでどおり九条部長にお願いします」


「皆さんはどう思いますか」


麗華が周囲を見回すと、以前なら社員たちは目を伏せていた。しかし奈央が最初に手を挙げ、現場との連絡が取りやすくなると答えた。続いて別の社員も賛成し、美緒も小さく頷いた。


麗華は提案を承認した。反対すれば、伝達漏れを隠したいと認めることになる。律は一度も麗華を責めず、麗華が同じことを繰り返せない仕組みだけを残した。


会議後、社員たちは新しい共有画面の使い方を教え合っていた。麗華は一人で執務室へ戻り、冷めたハーブティーを流しへ捨てた。大声で責められたのなら、相手の無礼を理由に攻撃できた。


しかし律は、麗華が戦う相手になろうとしなかった。机の上に残された承認書には、麗華自身の署名があった。麗華はペン先でその名前を何度もなぞりながら、次は仕組みでは防げない場所で律を失敗させようと考えた。


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