第3話 支配できない男
第3話 支配できない男
月曜日の朝、九条グループ本社の一階ロビーには、雨にぬれた傘とコーヒーの匂いが広がっていた。出勤してきた社員たちは受付前の床に残った水滴を避けながら、足早にエレベーターへ向かっている。真壁律は使い込んだ黒い鞄を右手に持ち、灰色のスーツの肩についた雨粒をハンカチで拭いていた。
律のスーツはきれいに手入れされていたが、袖口にはわずかな擦れがあった。黒い革靴にも細かな傷があり、高価な品を身につけた本社社員たちの中では目立った。受付を済ませた律は入館証を首にかけ、社員食堂で買った百円の紙コップのコーヒーを飲みながら、案内役が来るのを待った。
「真壁律さんでしょうか」
声をかけた佐伯美緒は、薄い水色のブラウスに紺色のパンツを合わせていた。昨夜も麗華から資料修正を命じられたため、目の下には化粧で隠し切れない影がある。急いで家を出たらしく、右足と左足で靴下の色が少し違っていた。
「はい。本日からお世話になります」
「都市開発事業部の佐伯です。三十二階までご案内します」
「よろしくお願いします」
エレベーターには、香水とぬれた上着の匂いがこもっていた。美緒は各階の説明をしながら、抱えていた書類を何度も持ち替えている。律はその様子を見て、一番上から滑り落ちそうになった封筒を押さえた。
「ありがとうございます。昨日、資料の修正がありまして、まだ整理できていないんです」
「日曜日も出勤されたのですか」
「自宅で少しだけです。うちの部署では珍しくありません」
「少しだけという量には見えませんね」
美緒は返事をせず、書類の角を揃えた。三十二階に着くと、窓の向こうに灰色の東京が広がっていた。遠くの建物は雨にかすみ、窓ガラスには細い水の筋がいくつも流れている。
都市開発事業部では、朝礼を前に社員たちが机を片づけていた。誰かが土産に持ってきた温泉まんじゅうの箱が給湯室の前に置かれ、甘い餡の匂いが漂っている。律は自分に用意された机へ鞄を置くと、隣の席にいた木村奈央へ頭を下げた。
「真壁です。よろしくお願いします」
「木村です。こちらこそ、よろしくお願いします。おまんじゅう、食べますか」
「いただきます。朝食を取る時間がなかったので助かります」
「真壁さんも朝は苦手ですか」
「今朝は、シャツにアイロンをかけ直していたら遅くなりました。昨夜、干し方を失敗しまして」
律は包装紙を丁寧に開き、まんじゅうを二口で食べた。奈央は地方の現場をいくつも経験してきた専門家だと聞いていたため、もっと近寄りがたい男を想像していた。律が指についた餡を紙ナプキンで拭く姿を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
午前九時になると、九条麗華が執務室から出てきた。麗華は深緑色のジャケットに同色のタイトスカートを合わせ、首元には金色の細い鎖を飾っていた。髪には乱れがなく、朝の湿気さえ麗華の周囲だけ避けているように見えた。
「本日から、真壁律さんが私たちの部署に加わります」
社員たちが一斉に立ち上がった。麗華は律の経歴を簡潔に紹介したが、地方の建設会社で働いていたことを二度繰り返した。その声には親しみが込められていたため、事情を知らない者には歓迎しているように聞こえた。
「真壁さんは、地方都市の再開発に長く携わってこられました。本社とは規模も仕事の進め方も違うでしょうけれど、その経験を生かしていただきたいと思います」
「真壁律です。現場と本社の間で、情報のずれが起きないよう努めます。よろしくお願いいたします」
「頼もしいですね。分からないことがあれば、遠慮なく皆さんへ尋ねてください」
麗華は拍手しながら、律の顔を観察した。地方と本社の違いを指摘すれば、経歴を軽く扱われたと感じるはずだった。しかし律は眉も動かさず、周囲の社員へ頭を下げている。
朝礼後、律は再開発計画の工程表を確認した。机には分厚いファイルが五冊積まれ、付箋の色も担当者によってばらばらだった。律は上着を脱いで椅子の背へかけると、短くなった鉛筆を取り出し、気づいた点を古い大学ノートへ書き始めた。
「パソコンへ直接入力しないんですか」
奈央が尋ねると、律は鉛筆の先を小さな削り器で整えた。削りかすを手のひらに集め、ティッシュへ包んでから答える。机を汚さない動作に慣れているところを見ると、現場でも同じことを続けてきたらしい。
「最初は紙の方が頭に入ります。このノートも、まだ半分残っていますから」
「ずいぶん古そうですね」
「娘が小学校で使い残したものです。捨てるのはもったいないので、もらいました」
「娘さんがいらっしゃるんですか」
「中学二年です。今朝も、私の弁当へ昨日のきんぴらを詰めてくれました」
律は足元の鞄から、紺色の布で包んだ弁当箱を取り出して見せた。布には白い猫がいくつも描かれている。奈央が笑うと、律も口元を少し緩めた。
昼前には、律のノートが細かな文字で埋まっていた。彼は現場責任者へ電話をかけ、資料に載っていない搬入路の幅や、近隣の小学校が下校に使う時間帯まで確認していた。電話を終えると、律は工程表の一部を赤い鉛筆で囲んだ。
「木村さん、この地盤調査は来月の予定になっていますね」
「はい。麗華部長が、着工発表を早めるために後ろへ移しました」
「基礎設計の確定より後になっています。地盤調査の結果が変われば、設計をやり直すことになります」
「私も気になったのですが、専門会社から大きな問題はないだろうと言われていて……」
「問題がないだろうという予想と、問題がないという確認は別です」
律は声を荒らげなかったが、奈央は机の下で両手を組んだ。麗華の決定へ異議を唱える社員はいない。奈央が周囲を見回すと、美緒も電話を止め、律の方を見ていた。
午後の進捗会議で、律は工程表の問題を報告した。麗華は中央の席に座り、フランス料理店から届いた小さな焼き菓子を皿に載せていた。昼食を取り損ねたらしく、会議が始まる直前まで、アーモンドの香りがする菓子を少しずつ食べていた。
「地盤調査を前倒しする必要があります」
律が資料を配ると、麗華は焼き菓子の粉を指先からナプキンへ落とした。役員会で承認を得るには、予定どおりの日付で着工発表を行わなければならない。麗華は律が何も知らずに反対しているように見せようと、柔らかい声で尋ねた。
「真壁さん、本社では事業計画と調査を同時に進めることもあります。地方の現場とは速度が違うのです」
「承知しています」
「慎重なのは悪いことではありません。ただ、慎重になりすぎて機会を逃すこともあるのよ。早く本社の進め方に慣れてくださいね」
「承知しました。ただし、工期を縮めるために安全確認を省くことはできません」
会議室が静かになった。奈央は手元のペンを落とし、慌てて拾った。美緒は麗華の横顔を見たが、その唇にはいつもと変わらない笑みが浮かんでいた。
「私が安全を軽視しているとおっしゃりたいの?」
「いいえ。現在の工程では、調査結果によって基礎設計をやり直す危険があると申し上げています」
「その可能性は、専門会社が低いと判断しています」
「低くても、起きた場合の損失は大きいです。調査を二週間前倒しすれば、着工発表の日程は変えずに済みます」
律は代わりの工程表を画面へ映した。夜間作業を増やす案ではなく、空いている調査会社を探し、別の工程と並行して進める計画だった。追加費用も許容範囲に収まり、現場の負担も大きく増えない。
麗華は反論する箇所を探した。しかし律の資料には、調査会社との仮調整の結果まで記載されていた。誰かを否定するとき、麗華は必ず逃げ道を塞いでから口を開く。目の前の男も、同じように必要な準備を終えていた。
「よく一日で、ここまで調べましたね」
麗華は声を明るくし、律を褒める方へ切り替えた。拒絶されるなら、認めて味方へ引き入れればいい。麗華から特別に評価された社員は、次から彼女の期待を裏切れなくなる。
「真壁さんを採用した私の判断は、正しかったようです。今後は私へ直接報告してください。あなたの経験を、もっと近くで見せていただきたいわ」
「ありがとうございます。ただ、木村さんと現場担当者が資料を揃えてくださった結果です」
「謙遜しなくてもいいのよ。優秀な人は、相応に評価されるべきです」
「では、木村さんと現場担当者の名前も報告書に記載してください」
麗華は笑みを保ったまま、机の下で爪を手のひらへ押しつけた。ほかの社員なら、自分だけが認められたことを喜び、麗華のそばへ寄ってくる。しかし律は麗華の称賛を、自分の価値を決める特別なものとして受け取らなかった。
会議が終わると、麗華は律を執務室へ呼んだ。窓際には手入れされた観葉植物が並び、机の上には書類一枚出ていない。午前中に森山から届けられた洋梨のタルトが箱に入ったまま置かれ、室内には甘い香りが漂っていた。
「座ってください」
「失礼します」
「先ほどの提案は採用します。あなたには期待していますよ」
「ありがとうございます」
「ただし、次からは会議の前に私へ話を通してください。上司の方針を公の場で否定すれば、反感を買います」
「事前にご相談する時間を取っていただけるなら、そうします」
「私が忙しいときは、美緒さんへ伝えてください」
「昨日、美緒さんへ面談をお願いしましたが、部長の資料修正で時間が取れないと言われました」
麗華は机の上のペンを指で回した。律は責める口調を使わず、起きたことだけを話している。そのため、麗華は美緒の不手際にして逃げることも、律の態度を非難することもできなかった。
「ずいぶん率直な方ですね」
「遠回しに伝えて、違う意味で受け取られる方が困りますから」
「その率直さが、いつも歓迎されるとは限りません」
「承知しています。必要な報告をしなかった結果よりは、叱られる方を選びます」
麗華は、律の前へ置いた水のグラスに目を向けた。律は緊張して水を飲むこともなく、姿勢を変えずに次の指示を待っている。麗華が黙っていても、焦って言葉を足そうとはしなかった。
「今日はもう結構です。お疲れさまでした」
「失礼します。地盤調査の件は、明日の午前中に正式な見積書を提出します」
「私が承認するとは限りませんよ」
「承認されなかった場合も、理由を記録に残していただければ、それに従います」
律は頭を下げ、執務室を出ていった。扉が閉じると、麗華はペンを机へ置いた。強く握っていたため、金属の冷たさが指に残っていた。
夕方、都市開発事業部では律の歓迎会が開かれた。店は本社近くのイタリア料理店で、テーブルには生ハム、魚介のパスタ、薄く焼いたピザが並んだ。焼きたての生地とニンニクの匂いが広がり、社員たちは昼間よりも大きな声で話していた。
麗華は赤ワインを手に、律の隣へ座った。律は酒を飲まず、炭酸水と鶏肉のトマト煮を注文していた。皿に残ったソースをパンにつけながら、奈央と地元の食堂について話している。
「真壁さんは、お酒を召し上がらないの?」
「体質に合わないんです。ビールを一杯飲むと、翌朝まで頭が痛くなります」
「お付き合いも仕事のうちですよ」
「飲まなくても話はできます」
「地方では、それで通ったのかしら」
「地方でも、飲めないものは飲めませんでした」
律は不快そうな顔をせず、炭酸水を一口飲んだ。麗華は、彼が恥じている経歴や弱点を探した。しかし律は古いスーツも地方勤務も酒を飲めない体質も、隠すべき欠点だとは考えていなかった。
麗華は笑顔でワイングラスを置いた。恐れない人間は、自分の力を認めていない人間と同じだった。律がこの部署にいる限り、ほかの社員まで麗華を恐れなくなるかもしれない。
テーブルの向こうで、奈央が律の猫柄の弁当包みについて楽しそうに話していた。麗華はその輪へ加わりながら、律をプロジェクトから外す理由を考え始めた。赤ワインの渋みが舌に残ったが、麗華は誰よりも楽しそうに笑い続けた。




