第2話 仮面の裏の砂嵐
第2話 仮面の裏の砂嵐
土曜日の午後六時、九条麗華は黒塗りの車を降り、東京都内とは思えないほど広い九条邸の門をくぐった。昼から降っていた雨は上がっていたが、敷石には水が残り、庭の松から落ちた雫が肩へ当たった。麗華は濃紺のワンピースに薄い灰色のコートを重ね、耳には前回とは違う黒真珠のイヤリングをつけていた。
玄関では、家政婦の森山が白いエプロン姿で待っていた。七十歳近い森山は、麗華が小学生だった頃から九条家で働いている。麗華の濡れたコートを受け取ると、少し曲がった襟を手で直した。
「お帰りなさいませ、麗華お嬢様。冷えませんでしたか」
「車ですもの。濡れたのは、玄関までの数歩だけよ」
「それでも秋の雨は冷たいですから。温かいお茶をお持ちしましょうか」
「結構よ。父は?」
「書斎にいらっしゃいます。夕食には下りてこられるそうです」
麗華は階段の上を見たが、父を呼びに行こうとはしなかった。玄関脇の花瓶には白い百合が生けられ、甘い香りが広がっている。麗華は幼い頃から百合の匂いが苦手だったが、父が好むため、九条邸から百合が消えたことはなかった。
ダイニングルームには、十二人が座れる長い食卓が置かれていた。席は二つしか使われないのに、銀の燭台にはすべて火がともされ、白いテーブルクロスには折り目一つない。麗華が子どもの頃につけた小さなジュースの染みも、何年も前に新しい布へ替えられて消えていた。
麗華は父の右側から二番目の席に座った。真正面ではなく、少し離れた位置が麗華の決められた席だった。皿の横には三本のフォークが並び、ナプキンからは洗いたての布と糊の匂いがした。
「今夜は舌平目でございます」
料理人の声とともに、白ワインで蒸した舌平目が運ばれてきた。焦がしバターの香りが立ち、皿の端には黄色い菊の花びらと細く切ったニンジンが添えられている。麗華は昼食を取っていなかったが、父の席が空いたままなので、料理へ手をつけなかった。
時計が六時半を打った。食卓の上で、舌平目のソースから少しずつ艶が失われていく。さらに五分が過ぎたところで扉が開き、九条征一郎が入ってきた。
征一郎は黒いスーツの上着を脱ぎ、白いシャツに濃いえんじ色のネクタイを締めていた。六十二歳になっても背筋は伸び、白髪の交じった髪にも乱れはない。椅子へ座ると、麗華の顔より先に料理へ目を向けた。
「冷めているな」
「新しいものをご用意いたします」
「食べ物を無駄にする必要はない。これでいい」
森山が頭を下げて退室すると、征一郎はナイフを取った。麗華もようやく舌平目を口へ運んだが、冷えたバターが舌に重く残った。二人の間には食器の触れ合う音だけが続き、征一郎は娘が何をしていたのか尋ねなかった。
「湾岸再開発のプレゼンは、予定どおり終わりました」
麗華から話を切り出すと、征一郎は魚の骨を器用に避けた。麗華は役員の反応、新路線の利用者予測、ホテル運営会社との交渉状況を順番に報告した。征一郎は途中で口を挟まず、料理を食べながら聞いていた。
「専務からも、取締役会で承認される見込みだと言われました」
「承認されるまで決定ではない」
「もちろん承知しています」
「映写資料に数字の誤りがあったそうだな」
麗華のナイフが皿へ触れ、乾いた音を立てた。社内では大きな問題にならず、すでに修正版も送付している。父がわざわざ取り上げるとは思っていなかった。
「古い概算額が一枚だけ残っていました。その場で訂正しましたので、プレゼンへの影響はありません」
「影響があったかどうかを決めるのは、お前ではない」
「ですが、役員の皆様からは高い評価をいただきました」
「褒められた話は聞いていない。なぜ、誤った資料を役員の前へ出した?」
麗華は背筋を伸ばし、膝に置いたナプキンを握った。部下の確認不足だと答えれば、管理能力を疑われる。自分の責任だと認めれば、父の中に失敗の記録が残る。
「最終確認の手順に不備がありました。すでに改善を指示しています」
「つまり、お前の管理不足だ」
「次回は起こしません」
「当然だ。同じ失敗を二度繰り返す者は、九条には必要ない」
次の皿には、赤ワインで煮込んだ牛頬肉が運ばれてきた。肉はナイフを入れるだけで崩れるほど柔らかく、付け合わせのマッシュポテトからは生クリームの香りがした。麗華は口へ運んだが、味はほとんど分からなかった。
「今回の再開発事業は、必ず成功させます」
麗華がそう告げると、征一郎はナイフを置いた。銀の刃に赤いソースがつき、燭台の明かりを鈍く反射している。征一郎はナプキンで口元を拭いてから、娘を見た。
「成功させるのは当然だ。お前が望んで任された事業だろう」
「九条グループの新しい象徴にしてみせます。収益も予定を上回らせます」
「口約束には価値がない」
「結果で証明します」
「そうしろ。結果を出せない人間に、九条の名を名乗る資格はない」
麗華の鼻の奥へ、急に鉛筆と消しゴムの匂いがよみがえった。視線を落とすと、白いテーブルクロスが、小学生の頃に使っていた答案用紙と重なって見えた。赤い文字で書かれた九十八点と、その横にある二位という順位まで思い出した。
十歳の麗華は、答案用紙を両手で持って父の書斎へ入った。苦手だった計算問題を何度も練習し、前回より十点も上がっていた。翌日からは家族三人で箱根へ行く予定で、麗華は旅行鞄に白い帽子と水色のワンピースを詰めていた。
「お父様、九十八点でした。クラスで二番です」
征一郎は書類から顔を上げ、答案用紙の順位だけを見た。机には飲みかけのコーヒーがあり、灰皿には途中で消した葉巻が残っていた。麗華は褒められると思って、背伸びをしながら答案を差し出した。
「一番は誰だ」
「相沢さんです。でも、前は四番だったから、二つ上がりました」
「なぜ一番を取れなかった」
「最後の問題で、引き算を一つ間違えてしまって」
「言い訳は聞いていない」
その日の夕食に、父は現れなかった。麗華の好物だったエビグラタンは表面が冷えて固まり、母もほとんど口を利かなかった。翌朝、玄関に置いていた旅行鞄は使用人によって部屋へ戻されていた。
「箱根へは行かないの?」
「遊びへ行く前に、するべきことがあるでしょう」
母はトーストへバターを塗りながら、それだけを言った。麗華は泣かなかった。水色のワンピースから普段着へ着替え、旅行用に買ってもらった菓子を机の引き出しへしまい、一位を取るまで毎日問題集を解いた。
「麗華、聞いているのか」
父の声で、麗華は九条邸の食卓へ戻った。皿に残った牛頬肉のソースは冷え、表面に薄い膜ができていた。麗華はナプキンから手を離したが、指先に力が入らず、フォークを持ち直した。
「失礼しました。少し考え事をしていました」
「食事中に仕事以外のことを考える余裕があるのか」
「いいえ。再開発事業の今後について考えていました」
「ならばいい」
デザートには洋梨のタルトが出た。麗華が幼い頃から好きだった菓子だが、征一郎は娘の好物だとは知らない。麗華は半分だけ食べ、残りを皿の上で細かく切り分けた。
九条邸を出ると、雨が再び降り始めていた。森山が傘を差し出し、麗華のコートの襟を整えた。玄関には百合の香りが残り、麗華は呼吸を浅くして外へ出た。
「洋梨のタルト、お好きでしたよね。少しお包みしましょうか」
「いらないわ」
「昔は、お皿を舐めたいくらい好きだとおっしゃっていました」
「子どもの頃の話でしょう」
「そうでしたね。余計なことを申しました」
森山が頭を下げると、麗華は胸の中に小さな苛立ちが生まれるのを感じた。父の前では何も言い返せなかったのに、森山のしわの増えた手を見ると、きつい言葉が簡単に出そうになった。麗華は傘を受け取らず、運転手が開けた車の後部座席へ乗り込んだ。
自宅へ戻ったのは午後十一時を過ぎてからだった。麗華は濡れたコートを椅子へかけ、真珠のイヤリングを化粧台へ置いた。冷蔵庫には未開封のヨーグルトと炭酸水しかなく、流しには朝に使ったコーヒーカップが残っていた。
麗華はワンピースのまま机へ座り、会社の共有資料を開いた。再開発計画の数字を一つずつ確認していると、別館の来場者予測にわずかなずれを見つけた。計画全体には影響しない程度だったが、麗華はすぐに美緒へ電話をかけた。
呼び出し音が六回鳴ったあと、眠そうな声が聞こえた。
「はい、佐伯です」
「美緒さん、今どこにいるの?」
「自宅です。何かありましたか」
「共有資料の百二十三ページを開いて。来場者予測の数字が、先月の資料と違っているわ」
「申し訳ありません。今、確認します」
電話の向こうで布団の擦れる音がした。続いて、何かが床へ落ちる音と、猫の鳴き声が聞こえた。美緒は一人暮らしの部屋で飼っている猫をなだめながら、パソコンを起動しているようだった。
「猫を飼っているの?」
「はい。今、机の上のペン立てを落としてしまって」
「仕事中に猫の話は必要ないわ」
「申し訳ありません」
「数字を確認して」
「はい。先月は十二万三千人で、現在の資料は十二万二千八百人になっています。調査会社から修正値が届いたため、差し替えました」
「なぜ、私に報告しなかったの?」
「二百人だけでしたので、次の定例報告でお伝えする予定でした」
「数字の大小を決めるのはあなたではないでしょう」
麗華はスマートフォンを強く握った。鏡に映る自分の指が、わずかに震えている。美緒が謝るたびに、父の声が少しずつ遠ざかっていった。
「申し訳ありません。今後は小さな変更でも、すぐにご報告します」
「今回の資料は、すべて確認し直してください」
「今夜中に、でしょうか」
「何か問題があるの?」
「いいえ。すぐに確認します」
「私が気づかなければ、誤った認識のまま役員会へ臨むところだったのよ。あなたを信頼して任せているのに、残念だわ」
「本当に申し訳ありません」
美緒は何度も謝った。麗華は椅子の背にもたれ、ようやく深く息を吸った。指の震えは止まり、冷えていた足先にも少しずつ感覚が戻ってきた。
「では、午前一時までに報告してください」
「承知しました」
電話を切ると、部屋は静かになった。椅子にかけた濡れたコートから、雨と香水の混じった匂いが漂っている。麗華は冷蔵庫から炭酸水を出し、グラスを使わずに瓶のまま飲んだ。
机の上では、スマートフォンが短く震えた。美緒から届いた謝罪と確認開始の報告を読んだ麗華は、画面を伏せた。九条邸で父に向かって言えなかった言葉が、胸の奥から消えていた。
麗華は、自分が美緒へ何を押しつけたのか考えなかった。今夜も見捨てられずに済んだような気がして、濡れたコートを片づけないまま寝室へ向かった。




