第1話 完璧なる女王の庭
第1話 完璧なる女王の庭
午前九時、九条グループ本社の三十二階では、都市開発事業部の社員たちが会議の準備に追われていた。窓の外には、秋晴れの空を映した高層ビルが並び、その隙間を白い雲がゆっくり流れている。長い会議机には人数分の資料と水のボトルが置かれ、部屋の隅からは淹れたてのコーヒーの香りが漂っていた。
佐伯美緒は、スクリーンに映した資料を確認しながら、紺色のスカートについた糸くずを指でつまんだ。今朝は寝坊して朝食を取れず、鞄には駅前の店で買った鮭のおにぎりが入ったままだった。腹が小さく鳴ったが、隣にいた若手社員の木村奈央が青い顔で電卓をたたいていることの方が気になった。
「木村さん、どうしたの?」
「別館の建設費です。昨日の集計と数字が合わなくて」
「今から直せる?」
「確認します。たぶん、コピーしたときに一つ前の数字を使ってしまっただけだと思います」
奈央は薄いベージュのブラウスの袖を肘までまくり、何度も計算をやり直した。机には飲みかけのミルクティーが置かれていたが、氷はすっかり溶けている。美緒が一緒に確かめようと椅子を引いたとき、会議室の扉が開いた。
九条麗華が入ってきた。
麗華は体にぴったり合った白いジャケットと黒いワンピースを着て、耳元には小さな真珠を飾っていた。艶のある黒髪は肩の後ろできれいに揃い、歩くたびに柑橘系の香水がほのかに香った。麗華が資料を机へ置くと、それまで慌ただしかった社員たちの手が一斉に止まった。
「皆さん、おはようございます。役員の方々は予定より五分早く到着されます」
「おはようございます」
「美緒さん、飲み物は確認しましたか?」
「はい。会長は常温のお水、専務は砂糖なしのコーヒーです」
「結構です。木村さんは、先ほどから何をしているの?」
奈央は電卓を握ったまま、立ち上がった。数字の不一致を話せば叱られるかもしれない。しかし、隠したまま会議を始める方が危険だと考え、奈央は集計表を差し出した。
「建設費の合計を再確認しています。昨日の数字と合わない箇所がありまして」
「そう。会議開始まで、あと十二分ね」
「必ず間に合わせます」
麗華は怒らなかった。むしろ奈央の肩へ軽く手を置き、安心させるように微笑んだ。その笑顔を見た奈央は息を吐き、美緒も胸元で握っていた社員証から手を離した。
「焦らなくていいわ。間違いは誰にでもあります。困ったときは、私が責任を取りますから」
「ありがとうございます」
「ただし、役員へ間違った資料を渡すことだけは許されません。あと十分で原因を見つけてください」
麗華はそう言うと、自分の席へ向かった。奈央は再び電卓をたたき始め、美緒も元のデータを開いて数字を照合した。二人の背後では、麗華が紙コップのコーヒーへ口をつけ、小さく眉を寄せていた。
「美緒さん。このコーヒー、昨日と味が違わない?」
「豆が変わったそうです。秋限定のブレンドだと、受付の方が言っていました」
「私は以前の方が好きだわ。あとで戻せるか聞いておいて」
「承知しました」
役員たちが入室すると、会議室の空気がさらに張り詰めた。麗華はスクリーンの前へ立ち、東京湾岸地区に建設する複合施設の完成予想図を映した。高級ホテル、商業棟、住宅棟、緑地公園を備えた大規模事業で、総事業費は二千億円を超えていた。
「この施設は、九条グループの次の五十年を決めます。物を売るだけの場所ではなく、人が暮らし、働き、再び訪れたくなる街をつくります」
麗華の声は広い会議室の隅までよく通った。質問を受けても資料を探すことはなく、工期、予算、想定来場者数を即座に答えた。専務がホテルの稼働率について意地の悪い質問をしても、麗華は笑顔を崩さなかった。
「近隣施設より高い数字ではないかね。希望的な予測に見えるが」
「三年後に開通する新路線の利用者数を含めた数字です。ただし、開業初年度は八十二パーセントまで下がる可能性があります。その場合の収支も、資料の四十七ページに記載しています」
専務が資料をめくる音が響いた。そこには、麗華の言ったとおりの試算が載っていた。役員たちが納得したように頷き、後ろに座る社員たちの肩から力が抜けた。
だが、麗華は次の画面を見た瞬間、説明を止めた。完成予想図の下に表示された建設費が、手元の資料より三億円少なかった。奈央が修正したのは配布資料だけで、映写用のデータには古い数字が残っていた。
「失礼いたしました。画面には、先週の概算額が表示されています。正しくは、皆様のお手元にある千二百三十八億円です」
麗華は間違いを説明すると、そのまま次の項目へ進んだ。役員たちは大きな問題とは受け取らず、会議は予定どおり終了した。最後には拍手が起こり、会長の九条征一郎も、娘へ一度だけ頷いた。
「見事だったよ、麗華さん」
「さすが九条部長ですね」
「この計画なら、取締役会でも通るでしょう」
役員たちに囲まれた麗華は、控えめな笑顔で礼を述べた。けれども右手の親指は、左手の爪の脇を強く押していた。画面に誤った数字が出た瞬間から、その指だけは動き続けていた。
役員たちが退出したあと、社員たちは成功を喜び合った。誰かがコンビニで買ってきた小さなシュークリームの箱を開け、紙皿へ並べている。奈央は胸をなで下ろし、冷たくなったミルクティーを一気に飲んだ。
「木村さん、少しよろしいかしら」
麗華の声を聞いた奈央は、空になったカップを握りつぶしかけた。麗華は穏やかに微笑み、自分の執務室ではなく、社員たちが残っている会議室の中央へ奈央を呼んだ。美緒はシュークリームを取ろうとしていた手を止めた。
「先ほどの数字について、事情を聞かせてもらえる?」
「申し訳ありません。配布資料は直したのですが、映写用のデータを差し替えるのを忘れました」
「昨夜、あなたから完成したと報告を受けたわね」
「はい」
「ご家族の具合が悪いと聞いていたから、無理をさせないように仕事を減らしたつもりでした。それでも難しかったの?」
奈央の母親が入院していることは、直属の上司と美緒しか知らないはずだった。社員たちの視線が集まり、奈央の頬が赤くなった。麗華は奈央を心配するように首を傾けた。
「母のことは関係ありません。私の確認不足です」
「そう。私はてっきり、事情があったのだと思ったわ」
「本当に申し訳ありませんでした」
「あなたを信じて任せた私が、間違っていたのね」
奈央の目に涙が浮かんだ。麗華は声を荒らげず、叱責らしい言葉も使っていない。それでも奈央は、皆の前で自分だけが不合格を言い渡されたように背中を丸めた。
「次からは絶対に間違えません。もう一度、任せていただけませんか」
「顔を上げて。泣かせるつもりはなかったの」
麗華はポケットから白いハンカチを取り出し、奈央へ渡した。社員たちは、奈央を慰めることも麗華を止めることもできなかった。美緒が窓の外へ目を向けると、先ほどまで晴れていた空に薄い雲が広がっていた。
「私は木村さんに期待しているの。だから、ほかの方より厳しくなってしまうのよ」
「はい。ありがとうございます」
「今日中に、すべての資料を確認してください。終わるまで私も残りますから、一緒に頑張りましょう」
奈央は泣きながら頭を下げた。その姿を見届けた麗華は、ようやく爪から指を離した。胸の奥に引っかかっていたものが取れたように息を吸い、紙皿に残っていた最後のシュークリームを手に取った。
午後十一時を過ぎると、三十二階には麗華だけが残っていた。奈央は資料の確認を終え、美緒も終電に間に合うよう退社している。窓には夜の街の光と、黒いワンピースを着た麗華の姿が重なって映っていた。
机の上には、夕食代わりに注文したサンドイッチが残されていた。乾いたパンの間からレタスがはみ出し、添えられたポテトは油の匂いを残したまま冷えている。麗華は一口だけ食べたサンドイッチを箱へ戻し、スマートフォンを手に取った。
画面には、会議に出席した役員や社員からのメールが並んでいた。
「本日のプレゼンは完璧でした」
「九条部長の下で働けることを誇りに思います」
「次期社長は麗華さんしかいません」
麗華は、一通ずつ開いて読み返した。三度目に入ると文章を覚えてしまったが、それでも指を止められなかった。画面が暗くなるたびに電源ボタンを押し、自分を称える言葉が消えていないことを確かめた。
やがて新しいメールが途絶えた。麗華は連絡先を開き、誰かへ電話をかけようとしたが、夜中に用もなく話せる相手の名前は見つからなかった。父の名前を押しかけて、昼間の頷きを思い出し、指を引っ込めた。
静かな室内で、空調の音だけが続いていた。窓に映る麗華の背後には、頭を下げる部下も拍手する役員もいない。麗華は机の上の真珠のイヤリングへ触れ、片方が少し緩んでいることに気づいた。
「今日の私は、完璧だったわ」
誰も答えなかった。麗華はもう一度スマートフォンを点灯させ、最初の称賛メールを開いた。白い光に照らされた顔から笑みが消えないよう、唇の両端へ静かに力を入れた。




