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第10話 自分の足で立つ場所

第10話 自分の足で立つ場所


七月の朝、山梨県の山あいにある保養施設では、昨夜の雨が紫陽花の葉に残っていた。赤、青、白の花が玄関までの坂道に並び、清掃員が落ちた花びらを竹箒で集めている。半年前には閉鎖を待つだけだった建物の前へ、東京から来た観光バスが一台入ってきた。


九条麗華は紺色のシャツに薄いベージュのパンツを合わせ、受付横の長机で宿泊者名簿を確認していた。髪は首の後ろで簡単に束ね、耳には小さな銀色の飾りをつけている。以前のような高価なスーツも高い踵の靴も、施設の石段や厨房を歩き回る仕事には向かなかった。


「九条さん、今日の団体客は二十二人です。夕食で一人、海老が食べられません」


受付係の小松彩が、赤い付箋を貼った名簿を持ってきた。以前は高齢の犬を連れて東京へ移れる社員寮を探していたが、施設の営業継続が決まり、そのまま地元で働いている。足元の事務机には犬の写真が飾られ、隣には開封した煎餅の袋が置かれていた。


「厨房には伝えましたか」


「はい。料理長が、鶏肉へ変更すると言っていました」


「では、配膳係にも伝えてください。皿を置く位置まで決めておいた方がいいわ」


「分かりました。九条さん、朝ご飯は食べました?」


「まだよ」


「またですか。料理長が怒りますよ」


彩が厨房へ向かうと、麗華は名簿を閉じた。食堂からは、焼いた鯖と味噌汁の匂いが流れている。利用客の朝食が終わったあと、従業員用に残してあった卵焼きと漬物を白い皿へ盛り、一人で急いで食べた。


味噌汁には大根と油揚げが入っていた。以前、自宅で作ったものより大根が薄く揃い、出汁の香りも強い。麗華が最後の一口を飲んでいると、料理長が大きな鍋を洗いながら振り返った。


「九条さん、昼はちゃんと時間を取って食べてくださいよ。食事を抜いて働いても、偉くはなりません」


「分かっています」


「昨日も、昼のカレーを三時に食べていたでしょう」


「打ち合わせが延びたのよ」


「働く人の生活を守るとか言って、自分が無茶をしていたら説得力がありませんよ」


麗華は言い返しかけたが、時計を見て頷いた。以前なら、料理長の勤務態度や厨房の小さな不備を探し、口を閉じさせていただろう。今は湯気の立つ洗い場で袖をまくる料理長を見て、注意を受ける理由を考えるようになっていた。


「今日は一時に食べます」


「十二時ですよ。昼食なんですから」


「では、十二時半で」


「そのくらいにしておきましょう」


料理長は笑い、鍋についたカレーをたわしでこすった。施設の名物として売り出したカレーは評判になり、休日には食堂だけを利用する客も訪れている。入口の売店には、持ち帰り用のレトルトカレーと、近隣農家が育てた桃が並んでいた。


午前十時から、事業再生チームの定例会議が始まった。会議室には扇風機が一台しかなく、古い機械が首を振るたびに小さく軋んだ。長机には冷たい麦茶と塩飴が置かれ、窓から入る湿った風が資料の端を揺らしていた。


麗華に役職はなかった。東京本社から派遣された事業再生チームの一員として、宿泊計画、従業員配置、地元企業との交渉を担当している。会議の中央には座らず、ほかの社員と同じ長机の端にノートを置いた。


議題は、秋から始める新しい宿泊企画だった。麗華は、首都圏の富裕層を対象とした高価格の長期滞在プランを提案していた。客室を改装し、料理と接客の質を上げれば、少ない利用者でも利益を確保できる計画だった。


「では、次に小松さんの案をお願いします」


大森に促され、彩が立ち上がった。白いポロシャツの裾には犬の毛が一本つき、資料を持つ手には緊張で汗がにじんでいる。彩は麗華の案とは異なり、地元の家族と学生を対象にした低価格の体験型プランを提案した。


「使っていない宴会場を、雨の日でも遊べる工作室にします。近隣農家の収穫体験や、料理長のカレー作りも組み合わせます。古い客室は無理に高級化せず、子どもが汚しても利用しやすい部屋として売り出します」


麗華は資料をめくった。高級化より改装費が安く、地元の農家や商店にも収入が入る。これまで施設を利用していなかった若い家族を呼び込めるうえ、平日は学校の研修旅行にも使える計画だった。


「ですが、客単価は九条さんの案より低くなります」


彩は自分から欠点を説明した。麗華は、その言葉を聞いた瞬間に反論を思いついた。低価格の家族客は客室を汚しやすい、子どもの声を嫌う宿泊客もいる、工作室の管理責任が曖昧だと指摘すれば、彩の案を退けられる。


胸の奥が熱くなり、麗華は紙コップを強く握った。薄い紙がへこみ、麦茶が縁まで上がって指へこぼれた。隣の斉藤が布巾を差し出したが、麗華はすぐに受け取れなかった。


自分の案が負ければ、半年かけて積み上げた評価が崩れるように感じた。父から九条の名を取り上げると言われた夜と同じように、爪の脇を強く押したくなった。彩の資料から一つでも間違いを見つけ、皆の前で指摘したいという考えが浮かんだ。


麗華は目を閉じず、彩の資料をもう一度読んだ。数字に大きな誤りはない。自分が考えた高級化計画より、この施設で働く人や地元の環境を理解していた。


「九条さん、どう思いますか」


大森に尋ねられ、麗華はへこんだ紙コップを机へ置いた。手についた麦茶を布巾で拭き、資料の角を揃えた。口を開くまでに時間がかかったが、誰も急かさなかった。


「よくできています。私の案より、こちらの方が現場に合っています」


彩は驚いたように顔を上げた。


「でも、九条さんの案も一部は使えると思います。二階の静かな客室だけ、長期滞在向けにするのはどうでしょうか」


「いいと思います。家族用の部屋と階を分ければ、音の問題も減らせます」


「九条さん、私の案へ反対すると思っていました」


「私も、さっきまで反対する理由を探していたわ」


会議室が静かになった。麗華は隠さずに認めたが、誰かに褒めてもらうためではなかった。彩は戸惑いながら、資料の端を指でなぞった。


「どうして、やめたんですか」


「あなたの案を退けても、施設の利益にはならないからよ。それに、私の案が負けることと、私に価値がないことは別だと覚えたの」


「私も、九条さんの数字の出し方を教えてもらわなかったら、ここまで作れませんでした」


「それなら、二つの案を合わせましょう。ただし、計算を間違えたら普通に注意しますからね」


「はい。皆の前で犬の話をされないなら、大丈夫です」


彩が机の下の犬の写真を指すと、小さな笑いが起きた。麗華も唇へ手を当てて笑った。誰かを黙らせたあとに得ていた笑い声とは違い、その場にいる全員が同じ方向を見ていた。


会議が終わると、麗華はへこんだ紙コップをごみ箱へ捨てた。手のひらには爪の跡がついていなかった。斉藤は机に残った塩飴を二つ取り、一つを麗華へ渡した。


「よく言えましたね」


「褒めないで。次も同じようにできるか、まだ分からないもの」


「では、今日はできたということだけ覚えておけばいいですよ」


「あなたは、ときどき先生みたいな話し方をするわね」


「子どもを三人育てましたから。九条さんくらいの反抗では驚きません」


「私、反抗していたの?」


「半年くらい前は、ずっとしていましたよ」


斉藤は笑いながら会議室を出ていった。麗華は塩飴を口へ入れ、窓の外の紫陽花を見た。日差しが戻り、濡れた葉から水滴が落ちていた。


昼過ぎ、東京本社から律が視察に訪れた。律は夏用の灰色のスーツを着ていたが、駅から坂道を歩いてきたため、額に汗をかいている。右手には使い込んだ黒い鞄、左手には娘が持たせたという猫柄の水筒を持っていた。


「駅から送迎車があったでしょう」


麗華が声をかけると、律は水筒のお茶を飲んだ。玄関脇では団体客の子どもたちが靴を脱ぎ、受付係が取り違えないよう番号札を渡している。律は子どもが落とした黄色い帽子を拾い、保護者へ渡してから答えた。


「一本前の電車で着いたので、歩いてみました。坂が思ったより長かったです」


「再生計画の資料に、送迎便を増やす案が書いてあったでしょう」


「今、その必要性を実感しました」


「遅いわね」


「現地を歩かなければ分からないこともあります」


律は施設内を見て回り、改修した食堂や売店を確認した。食堂では料理長が大鍋のカレーを混ぜ、彩が団体客の席へ水を運んでいる。窓辺には従業員が庭から切ってきた紫陽花が飾られ、青い花の横に手書きの献立表が置かれていた。


「九条さん、昼食は食べましたか」


律が尋ねると、料理長が厨房から顔を出した。


「今日は十二時半に食べましたよ。私が見張っていましたから」


「見張られているのですか」


「放っておくと、仕事を理由に食べませんから」


「あなたに言われたくないわ。真壁さんも、前にカレーを食べ損ねていたでしょう」


「今日は娘に、必ず食べた写真を送るよう言われています」


律は猫柄の水筒と一緒に、カレーの写真を撮った。麗華はその姿を見て笑い、料理長へ自分の分は少なめにしてほしいと頼んだ。二人は食堂の隅に座り、福神漬けが多いか少ないかという話をしながらカレーを食べた。


食後、律は再生チームの報告書へ目を通した。彩の宿泊企画と麗華の長期滞在案を組み合わせた計画を読み、収支についていくつか質問した。麗華は数字を確認し、分からないところは彩を呼んで説明してもらった。


「九条さんが、ほかの人へ説明を任せるとは思いませんでした」


律が言うと、麗華は資料を閉じた。以前なら皮肉だと受け取り、すぐに言い返していただろう。今は律の顔を見て、悪意がないことを確かめた。


「小松さんの計画ですもの。私が全部説明したら、また人の仕事を奪ってしまうわ」


「変わりましたね」


麗華はすぐに頷かなかった。窓の外では、清掃員が朝に集めた紫陽花の花びらを袋へ入れていた。日陰に残った花は色鮮やかでも、地面へ落ちた花びらは茶色く変わり始めている。


「まだ、人を見下したくなることがあります」


「そうですか」


「今日も、小松さんの案を潰したいと思いました。欠点を見つけて、皆の前で黙らせようとしたの」


「でも、しなかったのでしょう」


「今日はね。明日もできるとは限らないわ」


「では、変わったのでしょう。以前のあなたは、それを間違いだと思っていなかった」


律はそれ以上褒めず、次の資料を開いた。麗華も、自分が変わったと認めてもらうために説明を重ねなかった。二人は送迎車の費用と秋の宿泊料金について、午後三時まで話し合った。


律が帰る頃、玄関は宿泊客と従業員で混雑していた。子どもが売店の桃を転がし、彩が慌てて追いかけている。料理長は夕食用の野菜を運び、大森は玄関前の紫陽花へ水を与えていた。


「真壁さん、駅まで送ります」


「送迎車へ乗ります。時刻表も確認したいので」


「では、乗り遅れないでください」


「九条さんも、夕食を抜かないように」


律は頭を下げ、ほかの利用客と一緒に送迎車へ乗った。麗華だけのために立ち止まることも、特別な言葉を残すこともなかった。車が坂を下りると、麗華はすぐに玄関へ戻った。


そこへ彩が、桃の入った段ボール箱を抱えてきた。箱の底が湿っており、一つだけ形の崩れた桃から甘い汁がにじんでいる。麗華は自分のブラウスが汚れるのを気にしかけたが、箱の反対側を持った。


「九条さん、重いですよ」


「二人で持てば軽くなるでしょう。どこへ運ぶの?」


「厨房です。傷んだ桃で、デザートのゼリーを作るそうです」


二人が厨房へ入ると、料理長から床を汚さないよう注意された。麗華の袖には桃の汁がつき、薄い茶色の染みができていた。以前ならすぐに着替えていたが、麗華は濡れた布巾で拭き、そのまま夕食の準備を手伝った。


仕事を終えたのは午後六時半だった。誰も麗華へ拍手せず、特別な礼も言わなかった。父からの電話も、半年間一度も届いていなかった。


麗華は更衣室で紺色のシャツを脱ぎ、洗濯用の袋へ入れた。鏡には化粧の落ちた顔と、平底の靴を履いた自分の姿が映っている。麗華は唇の両端へ力を入れて笑顔を作ることも、誰かから届いた称賛のメールを読み返すこともしなかった。


施設を出ると、雨上がりの土と紫陽花の匂いがした。坂道の途中では、地元の中学生が自転車を押しながら挨拶をしてきた。麗華も立ち止まらずに挨拶を返し、駅へ向かって歩いた。


硝子の王座へ戻る道は、もう探していなかった。誰かを跪かせなければ保てない高さより、失敗を認め、翌日も仕事へ来られる場所を選んだからだ。九条麗華は歩きにくい高い靴を脱ぎ、自分で選んだ靴で、濡れた坂道を一歩ずつ下っていった。


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