第5話 リュカ
裸足で踏んだ白い石床は、容赦なく熱を奪った。
神殿奥の搬送路には、人の声が届かない。壁に並ぶ鉄扉の隙間から、薬草でも香でもない、乾いた冷気だけが漏れていた。
イーラは灰色の押収袋を抱え直した。
中で、小さな鈴が鳴った。
音はすぐ消えた。
片方だけの革手袋が、中から半分ほど出ていた。色の抜けた編み紐は、縁からこぼれ、白い石床に細く触れていた。
「……ここ?」
返事はない。
イーラは一歩、戻った。
手首に絡んだ小袋の紐が、細く食い込んでいる。編み紐の先は、白い石床に触れたまま動かなかった。
その触れた場所だけ、足裏に伝わる冷たさが違った。
レヴが最後にくれた名だけが、唇に残っている。
リュカ。
顔は知らない。
でも、約束した。
イーラは袋を片腕に抱き直し、編み紐を引っ張らないように膝をついた。白い石床の継ぎ目に、細い隙間がある。
指を入れると、小さな取っ手に触れた。引くと、鉄扉はほとんど音を立てずに開いた。
中は白かった。
白い床が、薄く光を返している。
壁にも、台にも、埃ひとつない。
台の足元には、細い溝が切られていた。
音はなかった。
イーラの小さな息だけが、冷えた部屋の中で白くなった。
台の上には、白い布をかけられた身体が横たえられていた。
肩から足元まで覆われ、胸元に札が一枚置かれている。
保管体。
楔候補。
移送、ガレス大司教立会。
札の文字はきれいに揃っていた。
イーラはそれを見て、唇を結んだ。札へ触れかけて、止まる。
布の下から、冷えた指先が少しだけ出ていた。
人の手だった。
イーラは押収袋を台の横へ置いた。
袋の口が少し開いた。
革手袋が口から滑り、白い床へ落ちる。
編み紐も袋の口に引っかかり、白い布の裾へ垂れた。
「待って」
イーラはこぼれたものを拾い、胸のそばへそっと寄せる。
白い布が、ほんの少しだけ膨らみ、また沈んだ。
まだ、息がある。
イーラの指が震えた。顔にかかった布をつまみ、一息でめくった。
布の下には、知らない男の人の顔があった。
閉じたまぶた。色の薄い唇。額にかかった髪。
胸元には、痣があった。
めくれた布の上に、ガレス大司教の名が書かれた札が残っていた。
イーラは札をつまみ上げた。床へ置くのではなく、裏返して台の隅へ押しやる。
押収袋を、男の肩へ寄せた。
冷えた部屋の中で、その人の奥だけが、かすかに温かかった。
「リュカ」
声は小さかった。
男は目を開けない。
鈴が、ちり、と鳴った。
その音に遅れて、男の呼吸が一拍だけ乱れた。胸の痣が、薄く赤く焼ける。すぐに消えた。
イーラは台に両手をついた。
「リュカ」
もう一度呼ぶ。
まぶたが、かすかに震えた。
それだけだった。
指は動かない。唇も開かない。
白い部屋は、すぐに元の冷たさへ戻った。
イーラは袋を抱え直し、こぼれた遺品を胸の上にそっと集める。
めくった布を、肩へかけ直した。寒そうだったから。
知らない顔だった。
けれど、あの隠し場所で自分の前に立った人と、奥の色が同じだった。
水面の光の中で逃げろと言った人とも、同じ色だった。
だから、思わず口をついた。
「おにぃちゃん」
漏れた声に、イーラは唇へ指を当てた。
その声だけが、部屋に残った。
台の上の男は答えない。
胸の痣も、もう焼けない。
廊下の先で、靴音が止まった。
鍵束が鳴った。
イーラは袋を抱え、台の固定具へ指をかけた。
押しても、台は動かなかった。
車輪が床の溝から抜けない。
冷たい固定具を引くと、爪の先が白くなった。
外れない。
もう一度、指をかけ直す。
押収袋が腕からずり落ちそうになり、イーラは肘で抱え込んだ。床へ落ちかけた革手袋を、膝で押さえる。
「だめ」
小さく言って、固定具を引いた。
爪が欠けた。
それでも、ひとつ外れた。
扉の向こうで、衣擦れの音がした。
扉の隙間に、白い手袋が見えた。
「その器から離れなさい」
その言葉に、イーラの指が台へ食い込んだ。
白い手袋が、扉を押し開いた。
イーラは離れなかった。欠けた爪を握り込み、片腕で袋を抱え、もう片方の手を台にかけている。
白い手袋の向こうに、神殿兵の槍が並んだ。
「押収袋を回収しなさい。保管体には触れずに」
ガレス大司教の声は、廊下の冷気と同じ温度だった。
兵の後ろで、金属の鞘が鳴る。
*
列の三番目に、ラヴェリアがいた。
逃げた少女の確保。
押収物の回収。
神殿奥への侵入対応。
そう聞かされて、ここまで来た。
その子は袋を抱え、台にしがみついていた。
白い布の下に誰がいるのか、ラヴェリアにはまだ見えなかった。
「騎士殿」
ガレス大司教が振り返らずに言った。
「あなたの任務は少女の確保です」
ラヴェリアは一歩、前へ出た。
開いた扉の内側が見えた。
台の上に、白い布をかけられた身体が横たえられている。
肩の幅。
胸元に残る痣。
ラヴェリアの指が、剣の柄で止まった。
その顔が見えた。
あんた、本当に騎士に向いてないわね。
「……リュカ」
ラヴェリアは剣を抜いた。
神殿兵の一人が、少女へ手を伸ばす。
「娘を押さえろ。器を損なうな」
抜いた刃が、その手の前を横切った。
刃は当てていない。
だが、兵は一歩止まった。
「どきなさい、騎士殿」
ガレス大司教は、まだ扉の前に立っていた。
「その器は、必要な処置の途中です」
器。
その一言で、祝福式の朝がよみがえった。
胸当ての留めが緩いと叱ると、リュカは困ったように笑った。
あの胸に、ガレス大司教の白い手袋が触れた。
平気なふりをしたリュカを、そのまま行かせてしまった。
「そんなふうに呼ぶな」
ラヴェリアは扉の中へ入った。
少女の肩がびくりと跳ねた。それでも、リュカの横から離れなかった。
台の固定具は、ひとつ外れていた。
車輪が溝の中で、少しだけ斜めになっている。
ラヴェリアは空いた手で台を押した。重い。床の溝が低く鳴り、台が指一本ぶんだけ動いた。
「押して」
少女がうなずいた。足の指で床を掴み、細い肩で台へ体重をかける。
神殿兵が踏み込んだ。
ラヴェリアは半身で前へ出る。剣先を低く置き、兵と台の間を切った。
「リュカには触れさせない」
「騎士殿」
ガレス大司教の声は乱れない。
「秩序を乱すおつもりですか」
「人を隠しておいて、よく言う」
左右の廊下から、靴音が増えた。
槍の穂先が、白い部屋の入口を塞ぐ。後列の兵が押収袋を見た。別の兵が、台の脚元へ回り込もうとする。
ラヴェリアは台の前に立った。
背中のすぐ後ろで、少女が袋を抱え直した。
ガレス大司教は、白い手袋の両手を胸の前で組んだ。
「囲みなさい。器と押収物に、傷をつけてはいけません」
槍が、半円を作って狭まった。
ラヴェリアは剣を握り直した。
「私の前で、二度も奪わせない」
*
神殿外縁の石壁の陰に、黒い外套が潜んでいた。
セレネは膝をつき、濡れた石の上へ広げた紙片を押さえた。
聖環名簿の写し。
除外控え。
神殿の封蝋は割れている。
連れてきたのは、走れる者だけだった。
子どもも、負傷者も、谷に残してある。
「セレネ様」
部下が低く呼んだ。
セレネは紙から目を離さない。
除外村名。
寄進不足。
信仰確認、薄。
出生記録、減。
人間側の村の記録だった。
「除外された村を見た。どこも子が消えていた」
セレネは紙を畳んだ。
部下の喉が鳴る。
「魔族に起きていたことが、人間の村にも広がっている」
セレネは白い神殿を見上げた。奥の塔だけが、夜目にも白く残っている。
「名簿から外された村だ。ガレスの名で処理されている」
紙片を部下へ渡す。
その時、内側の搬送路から短い笛が鳴った。
短く二つ。
間を置いて、一つ。
先行させた斥候の合図だった。
部下が影から戻る。肩で息をしているが、声は押さえていた。
「奥の白い部屋で異常です。赤い外套の王国騎士が、神殿兵と争っています」
セレネは、顔を上げた。
「中には何がある」
「台の上に男が。布をかけられています。神殿兵は、保管体と呼んでいました」
「ガレスは」
「現場にいます。兵を集めています」
セレネは立った。
「今なら崩せる」
「正面は閉じています」
「裏へ回る」
黒い外套が、石壁の影を滑った。
神殿兵の声が、壁の向こうで近づいていた。セレネは刃を抜かず、白い通路の陰へ入る。
「音を殺せ」
曲がり角の先は、槍で埋まっていた。
白い部屋の入口を、神殿兵が塞いでいる。
その内側に、赤い外套の女騎士が立っていた。
背後には、台と、袋を抱えた少女がいる。
台の上には、白い布。
胸元の痣が、布の隙間から見えた。
セレネは奥歯を噛んだ。
白い手袋が、台へ伸びる。
「押さえなさい」
ガレスの声が聞こえた。
セレネはそこで刃を抜いた。
「足を止めろ。槍を折れ。道を開けろ」
兵たちが一斉に動いた。
槍の柄が、横から折られた。
神殿兵の膝裏に足が入り、体が石床へ沈む。
白い部屋の入口で、半円が崩れた。
セレネは倒れた兵に目を向けなかった。
槍の隙間を抜け、ガレスの立つ方へ進む。
赤い外套の女騎士が、こちらを見た。
剣先は下がらない。
その向こうに、白い布をかけられた身体が見えていた。
セレネはその前で止まった。
台の上の顔には、覚えがあった。
白い回廊で、自分が刃を通した男だ。
その胸の痣が、薄く赤く焼ける。
泥の中で、短い一本角の兵が倒れた。
腕の中で軽くなっていく体。
あのとき、傷口を押さえた指先の感触が、戻る。
ルク。
名は違う。
顔も違う。
けれど、子どもの前へ飛び出した姿が重なった。
命令を聞かず、傷も省みず、それでも小さな角を守った。
命令だ。生きろ。
届かなかった声が、胸の奥に残っている。
セレネはガレスを見た。
「死んだ兵まで、己の欲に使うか」
ガレス大司教は、台へ伸ばした手を止めなかった。
*
奥の床が、水を張ったように光り始めた。
濡れてはいない。
それでも、槍の影が水底のように揺れた。靴底が踏むたび、薄い波紋が走り、白い石の奥へ沈んでいく。
ガレス大司教の白い手袋が、台へ伸びた。
「処置を始めます」
その声は、遠くで沈んだ。
深い場所に、音だけが落ちてくる。
剣が床を擦る音。
誰かが息を止める音。
胸の痣が熱を持つ。
熱だけが、沈んだ場所まで届いた。
ラヴェリアは台の前で剣を構えていた。
神殿兵の槍が三本、同時に突き出される。一本を弾き、一本をかわし、残る一本が肩当てを掠めた。
赤い外套の裾が、白い床を擦った。
それでも、ラヴェリアは退かない。
セレネは崩れた半円の外から、ガレスへ詰めていた。
神殿兵が二人、石床へ沈み、道が開く。
だが、別の兵が横から槍を重ねる。
セレネの刃が、ガレスの袖へ届く寸前で止まった。
イーラは台の横で、袋を抱えていた。
横から伸びた兵の手が、袋の口を掴む。
布が裂け、遺品が床へこぼれた。
イーラは袋を胸に押しつけた。
「だめ」
声は細い。それでも、イーラは離さない。
床の光に、黒い文字が浮いた。
名が一つ、沈みかける。
別の名が、途中でほどける。
ガレス大司教は台の胸元へ手を置いた。
「戻りなさい。器は、まだ処置の途中です」
浮きかけた名が、水面の下へ押し戻された。
白い手袋の下で、胸の痣が焼けた。
音が、さらに遠くなる。
水の底に、呼び声だけが届いた。
リュカ。
剣が弾かれる音に混じって、その名が沈んできた。
ルク。
低い声だった。命令みたいで、けれど命令ではなかった。
おにぃちゃん。
袋が裂ける音。
泣きそうな声。
三つの声は、同じ場所へ届いた。
別々の名だった。
けれど、どれも消えなかった。
水の底が、割れた。
白い布の下で、まぶたが震えた。




