第6話 輪廻を灯す光
空気が流れ込んだ。
冷たい石の匂いがした。
白い布が頬に触れていた。
胸の奥で、焼け残ったものが脈を打った。
俺は目を開けた。
最初に見えたのは、白い手袋だった。
その向こうで、ラヴェリアが膝をついていた。床に立てた剣だけが、まだ体を支えている。
セレネは、槍の柄を二本、腕で受け止めていた。黒い刃が、ガレスから逸れていく。
台の横では、裂けた袋から遺品がこぼれ、イーラの手がそれを押さえていた。
その指の隙間から、小さな鈴がひとつこぼれ、白い布の上へ落ちた。
指を動かそうとした。うまく曲がらない。
それでも、指先で布を擦り、鈴へ近づけた。
掴んだ。
台の下で、還り水が大きく波打った。
「……戻りましたか」
その声を聞きながら、俺は息を吸った。
リュカ。
ルク。
ロア。
レヴ。
どの名も、胸の奥でほどけずに残っている。
還り水が、部屋の壁際まで届く。
床に沈んでいた名が、一つ浮いた。
浮いた名は、俺のものではなかった。
知らない名だった。
ただ、袋の裂け目からこぼれた遺品が、そのそばで揺れた。水面に触れた革手袋に、小さな灯が残る。
沈みかけていた文字が、そこで止まった。
「許可していません」
ガレス大司教の白い手袋が、俺の胸から離れた。
俺は台の上で息をした。喉がひりつく。指はまだ震えている。
台の縁を掴んだ。けれど、起き上がるだけの力はない。
それでも、水は広がった。
白い床の上を、薄い還り水が満たしていく。壁際まで届き、神殿兵の靴先を囲み、槍の影を揺らした。
「押収物を回収しなさい」
ガレス大司教が命じた。
神殿兵の槍が、わずかに鳴った。だが、誰も踏み出さなかった。
足元の水面に、名が浮いていたからだ。
一つ。二つ。三つ。
白く残る名もある。途中で黒く沈みかける名もある。
その横で、こぼれた遺品の灯が揺れていた。
沈む名が、そこで留まる。
「名簿にない者まで通す。冒涜です」
ガレス大司教は、初めて俺を見た。
胸の痣を見て、裂けた袋を見る。水面に残った知らない名を見て、もう一度、俺の胸へ視線を戻した。
「最初に、この流れを塞いだ者たちは、悪人ではありませんでした。死んだ魔族が次の命として戻るなら、戦は終わらない。門を置くほかなかった」
水面が揺れた。
部屋の外から、聖環名簿の紙がめくれる音がした。見えない書架から、文字だけが剥がれる。信仰確認、薄。寄進不足。出生記録、減。黒い墨の線が、水へ落ちてほどけた。
セレネの刃が、小さく鳴った。
ラヴェリアは何も言わない。
イーラは、こぼれた遺品を腕の中へ寄せていた。
「人は守られたことを忘れます。祈る理由も、寄進の意味も。名簿は罰ではありません。秩序です」
また文字が剥がれた。
名簿更新、見送り。
特別寄進、復帰可。
水面に落ちた文字が、床を流れる。神殿兵の一人が、槍を握り直した。だが、穂先は上がらない。流れていく文字から、目を離せずにいた。
「選別しているつもりか」
声を絞り出した。
ガレス大司教の視線が、俺へ向いた。
「そんなのは、ただの間引きだ」
胸の痣が焼けた。
その奥で、何かがひび割れた。痛みで、台の縁を掴んだ指が震える。
それでも、俺は胸の熱を押し流した。
ガレスの手には渡さない。
還り水の底へ。
奪うためではなく、照らすために落とした。
胸から落ちた熱が、水の底へ伸びる。
熱が離れるたび、指先の感覚が薄くなった。
最初に灯ったのは、こぼれた遺品のそばだった。
けれど、その灯だけでは届かない名があった。
名簿から外されて。
黒く沈められて。
覚えている者の手も、もう届かない名。
熱は、そこまで届いた。
水の底で、灯がひとつ揺れた。
離れた場所で、もうひとつ灯る。
灯から灯へ、細い光が渡った。
遺品を失った名の横にも、同じ灯が残る。
沈みかけた名が、そこで留まった。
「器が要るのです」
ガレス大司教の声が低くなった。
「人として死に、魔として戻り、遺品を運び、名簿を記した。君は、門の周りをすべて通った」
白い手袋をはめた手が、こぼれた遺品へ伸びる。
「名簿にない名を、押し返すためか」
「ええ。灯を頼りに、勝手に生まれ直されては困るのです」
穏やかな声のまま、その指先が、片方だけの革手袋を脇へ払った。
還り水が、白い手袋に跳ねた。
「それは秩序を乱します」
胸の奥が、強く軋んだ。
「名を変えても、立場を変えても、君は流れに呑まれなかった。だから楔になる。世界を保つための」
白い手袋の指先が、黒く濡れていた。
ガレス大司教の手が止まる。
「……汚れが」
水面に、名が浮いた。
ガレス大司教。
ガレスはそれを見下ろした。すぐに手袋で払おうとする。黒く濡れた指先が水を掻いた。
大司教という文字が、水にほどけた。
残ったのは、ガレス。
「違う」
ガレスの声が、そこで詰まった。
ガレスが一歩下がる。下がった足元の水面にも、ただ一つの名が浮いている。
「戻しなさい。名簿に従え」
水面の名は、戻らなかった。
沈んでいた名が、また一つ浮いた。
「私は、選ぶ側です」
ガレスの声が乱れた。
「世界は秩序なしに保てない。私が必要だ」
神殿兵へ向けて、黒く濡れた手を上げる。
「止めなさい」
誰も動かなかった。
命令は届いている。
それでも、槍は上がらない。
兵の足元を、名前が流れていた。村名。人名。途中で削られた文字。水の下で、それらが沈まずに揺れている。
俺は息を吸った。
「帰るだけだ」
俺は、その流れを止めなかった。
名簿で押し返し、遺品を燃やし、灯を消してきたものが、今度はガレスの足元へ戻っていた。
還り水が渦を巻いた。
白い靴底が、足場を失って沈む。
ガレスが台へ手を伸ばす。黒く濡れた手が、俺の腕を掴みかける。
ラヴェリアが踏み込み、剣でその手を弾いた。
セレネの刃が、横から白い袖を裂いた。
イーラが、俺の腕にしがみついた。
「押し返すための楔にはならない」
三人の手が、俺を離さなかった。
「帰る者が迷わないように、灯を残す」
ガレスの足元で、ガレス、の文字が揺れる。
「私から、名を奪うな」
ガレスは水面に手を突っ込んだ。
黒く濡れた指が、大司教の文字を探す。
何度も掻いた。何度も掴もうとした。
水だけがすり抜けた。
奥に、門が見えた。
白い部屋の壁ではない。
水の向こうで、門が開いていた。
真っ暗ではなかった。
向こう側に、灯の残る道が続いている。
ガレスは、その灯を見た。
名が、門の方へ流れた。
ガレス。
肩書きのない文字が、還り水に引かれていく。
「やめろ」
沈んだ体が、そのまま門の方へ流された。
黒く濡れた手だけが、最後まで白い床を掻いた。
俺の胸の痣が、もう一度焼けた。
息が浅くなる。指先の感覚が薄れる。台の上の体が、急に重くなった。
水の音が、少しずつ遠のいた。
白い床を満たしていた還り水は、足首の高さから薄くなり、石の継ぎ目へ戻っていく。流れに乗った名は沈まなかった。白く残るものも、削れたまま薄く浮くものも、門の方へ細く流れていく。
神殿兵は動かなかった。
槍を構えたまま、誰も命令を待っていない。
白い床に、ガレスが指で掻いた黒い線だけが伸びていた。
一人の兵が、槍を下ろした。
それを見て、ほかの兵も槍を下げた。
部屋の外で、紙がめくれる音がした。
聖環名簿から剥がれた文字が、いくつか戻っていく。削られた名は、水面に薄く浮いたまま、沈まずに流れていく。
すべてが戻ったわけじゃない。
胸の痣が痛んだ。
焼ける痛みではない。押さえつける熱でもない。胸の奥に残った熱が、床へ細く落ちている。息をするたび、それが水の底へ触れた。
俺は起き上がれなかった。
台の縁を掴んだ指に、力が入らない。手の甲から熱が抜けていた。
息を吸っても、胸が浅くしか上がらない。
体も重い。
もともと死んでいた体だ。今さら文句を言うには、少し遅い。
「リュカ」
ラヴェリアの声がした。
肩の下に腕が入る。乱暴ではない。けれど、崩れかけた体を逃がさない支え方だった。剣はまだ、もう片方の手に握られている。
「起きてるなら、返事くらいしなさい」
「……努力する」
「努力じゃ足りない」
ラヴェリアは俺の肩を抱え直した。胸元の痣を見て、唇を噛む。
「今度は、勝手に行かせない」
それ以上は言わなかった。ただ、俺の肩を支えたまま、入口に残る神殿兵から目を離さなかった。
「ルク」
セレネは命じかけて、口を閉じた。
黒い刃を下ろさないまま、台のそばへ来る。袖は裂け、腕には槍の跡が残っている。
セレネの指が、俺の顎に触れた。
息を確かめるように、セレネが顔を近づける。黒い角の影が、視界の端に落ちた。
「息をしろ」
短い命令だった。
「命令は、まだ終わっていない」
「……厳しいな」
「当然だ」
指が離れる。
セレネは顔を背けた。床を流れる名を見ていた。
イーラは、裂けた袋を抱えていた。
こぼれた遺品は、まだ彼女の腕の中にある。腕から落ちたものも、空いた手でかき寄せていた。破れた口からこぼれそうになっても、ひとつも置いていこうとしない。
その小さな手が、俺の腕に触れた。
「おにぃちゃん」
イーラは、目を伏せなかった。唇を噛んだまま、俺を見ている。
「いやだった?」
胸の奥に、四つの名が残っている。
どれもほどけていない。
その呼び方も、胸の奥に残った。
「いやじゃない」
イーラの指が、俺の袖を握った。
「もっと早く、呼べばよかった」
「少し遅い」
そう言うと、イーラの肩が小さく揺れた。
笑ったのか、泣いたのかは分からない。袋を抱く腕だけは、緩まなかった。
床の水が、さらに薄くなる。
白い床が、透けて見えた。
継ぎ目に、小さな灯が残っている。遺品のそばにも、名簿から剥がれた文字の横にも。
俺の胸の痣から落ちる熱は、そこへ細く触れていた。
体は重い。
指先は、もうあまり動かない。袖を握るイーラの手の重さだけが、遅れて伝わってきた。
それでも、門の向こうへ流れていく名が見えた。暗い穴ではない。水の先に、道がある。
その灯だけは、消さない。
帰る者が迷わないように。
俺は息を吐いた。
ラヴェリアの手が肩を支え、セレネの命令が耳に残り、イーラの指が袖を握っていた。
その感触が、遠のいていく。
俺だったものが、薄い水にほどけていった。
胸の奥の熱だけが、消えずに残った。
還り水の向こうへ、灯は続いていた。
まだ見ぬ命の先まで。
ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
全6話完結です。
楽しんでいただけましたら、評価・ブックマークで応援していただけると嬉しいです。
更新告知や制作メモはXでも投稿しています。
@noto_yeto




