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死ぬたび別の名で呼ばれる俺を、彼女たちは忘れなかった  作者: 乃登イエト


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第4話 名簿庫司書レヴ

 神殿の回廊を、少女は裸足で歩かされていた。


 細い両腕は、背中で布縄に縛られている。泥の乾いた足が白い石床へ跡を残し、つまずくたび、神殿兵が握る縄が短く張った。


 神殿兵に混じり、ラヴェリアは列の後ろを歩いていた。


 イーラは声を上げない。

 見ているのは、擦れた膝でも裸足でもなく、先を歩く神官が抱えた灰色の袋だった。


 縛りきれなかった袋の口から、片方だけの革手袋が覗いている。

 小さな鈴。泥を吸った小袋。色の抜けた編み紐。


 神官が歩くたび、布の中で鈴が小さく鳴った。


「歩け」


 兵が縄を引いた。


 イーラの足がもつれ、石床へ膝をつく。先へ運ばれていく灰色の袋を追って、縛られた手のまま身を起こそうとした。


「燃やさないで」


 神官は振り返らなかった。


「口を出すな。大人しくしていれば、お前の沙汰も軽くなる」


「私は、いいの」


 イーラは膝をついたまま、袋だけを見た。


「でも、それはだめ」


「廃棄品は定め通りに処分する。例外はない」


 兵がもう一度、縄を強く引いた。


 横から、鞘が兵の手首と縄の間へ入った。


「やめなさい」


 ラヴェリアの声に、兵の動きが止まった。


 神官が足を止め、袖の奥から命令札を出した。


「騎士殿。この娘は廃棄遺品に手を出しました。捕らえる際、回収人も逆らっています」


「見れば子どもでしょう」


「ガレス大司教の命です」


 ラヴェリアは鞘を退けた。


 それ以上は言わず、縄を握る兵を見た。


「歩ける。引きずるな」


「ですが」


「手を離せとは言っていない」


 兵は縄を握ったまま、腕を下ろした。


 ラヴェリアはイーラを立たせた。軽すぎる体が一度よろける。それでも少女は支えにすがらず、灰色の袋を追って足を出した。


 白い石畳の上で、革手袋を抱えていた小さな影が、一瞬だけ重なった。


 リュカは、あのときも足を止めた。


 ラヴェリアは唇を噛み、手を離した。


「進みます」


 神官が告げる。


 イーラの裸足が、また白い石床を踏んだ。ラヴェリアはその半歩後ろにつく。


 回廊の奥に、鉄の扉が見えた。壁の銘板に、文字が刻まれている。


 聖環名簿庫。


 受付の下働きが、神官から移送札と灰色の袋を受け取る。


 イーラは背中で、指を強く握った。


「押収物は記録室へ。娘は奥の房へ入れろ」


 下働きが移送控えに筆先を下ろしかけた。


 扉の奥で、陶器の割れる音がした。


「レヴ司書?」


 誰かが駆ける。水差しを抱えた下働きが、名簿庫の奥へ消えた。


 すぐに、裏返った声が響いた。


「呼吸が戻った! レヴ司書が、息をしています!」


 ラヴェリアはイーラのすぐ後ろで、開いた扉の奥を見た。


 *


 息が入った。


 喉がひきつり、冷えきった胸へ空気が流れ込んだ。うまく吸えず、咳だけが噴き出す。


「レヴ司書!」


 体が崩れ、椅子ごと横へ傾くところを、誰かの腕が受け止めた。


 口元へ布きれが押し当てられる。咳をするたび、薄い赤が広がった。


「誰か、新しい薬湯を持ってこい」


「ですが、先ほどまで息が止まって――」


「起こすな。息が浅い」


 頬を机につけたまま、視界の端に書架が映る。背表紙の白札。赤い封蝋。筒に巻かれた申請書。


 目は霞んでいるのに、棚の並びだけはわかった。


 白い机の上には、倒れた杯の欠片と、血の染みた布が散っていた。


 薬草の匂いに、乾いた血の匂いが混じった。


 こぼれた薬湯が、机上の聖環名簿へ細く流れている。


 名簿は、机の中央。

 濡らすな。折るな。重ねるな。


 起き上がる力はなかった。


 指先が動いた。


 震える爪際には、墨が染みている。泥も、ひび割れもない。


 指が名簿へ届いた。紙の角を、ほんの少しだけ引いた。


 薬湯の染みが、聖環名簿の手前で止まる。


「触らないでください。まだ動いては――」


 受付の方で、小さな鈴が一度鳴った。


 その音を、俺は知っていた。


 泥の上の革手袋。


 転がった鈴。


 色の抜けた編み紐。


 ――これがないと、帰れないの


 小さな声が、耳の奥に残っている。


 息を吸おうとして、また咳が出た。口元の布きれに、新しい赤が滲む。


「薬湯です。もう名簿は放してください」


 若い司書が、新しい杯を机に置いた。その脇に、一枚の紙片が滑り込む。


「それは、今届いた移送控えです。後でこちらで処理します」


 指先を紙片にかける。弱い力で、机の上を擦らせながら引き寄せた。


 廃棄遺品、押収。


 記録室へ移送。


 同伴対象、娘一名。


 そこで、指が止まった。


 その文字だけが鮮明に残った。


「レヴ司書、返してください。今は休んでいただかないと」


 若い司書が移送控えへ手を伸ばす。押さえ返す力はない。紙に指を残したまま、息を吐いた。


「次を」


「ですが」


「……次」


 机の隅へ、処理札が置かれた。


 信仰確認、薄。

 名簿更新、見送り。


 考えるより先に、指が札を下段の箱へ落とした。


 特別寄進、受領。

 名簿復帰、可。


 聖環名簿の脇へ置いた。


 咳が上がった。口元の布きれに、赤が増える。


 移送控えが、濡れた机の上でめくれた。


 若い司書がすぐ手を重ねた。文字が途切れ途切れに見える。


 廃棄遺品の押収分。

 革手袋、片。鈴、小。編み紐、色抜け。


 金目の物は、一つもない。

 それでも、通常廃棄ではなく押収物として二重に封じられていた。


「返す先は」


「……記載は、あります」


 若い司書の指の隙間から、処分欄が見えた。


 夕刻焼却。


「返さないのか」


 若い司書は、控えを伏せた。


 兵を出してまで、子どもから奪うような物には見えなかった。


 それでも神殿は追い、封じ、夕刻には燃やす。

 あの子は、離さなかった。


 胸が潰れるように咳き込み、額を机につけた。


「それは、奥へ上げる記録です」


 名簿庫の入口の方から、若い司書の声がした。


「名簿の写しは後でいい。照合控えを先に上げろ」


 受付にいた神官が、横から割り込む。


「除外控えもですか」


「敵性種どもに持っていかれた」


 神官の声が低くなった。


「写しより悪い。除外の理由まで載っている」


 その言葉に、黒い外套が一瞬だけ重なった。


 ――燃やすな。持ち出せ。


 探していたのは、名簿だけではなかった。


 受付の方で、下働きが押収袋へ手を伸ばした。


 抱え上げられる。


「押収袋、記録室へ運びます。娘は奥の房へ」


 記録室。奥の房。


 その順だけは、身体が覚えていた。


 立てない。息を吸うだけで胸が軋む。


 机の縁に爪を立てた。


 立ち上がった、とは言えない。椅子から滑り落ち、床に片膝をついた。


「レヴ司書、いけません」


 若い司書が腕を伸ばした。俺は首を振るだけで精一杯だった。


 壁に体を預け、書架を掴みながら、裏の細い扉へ向かう。足は進まない。それでも、道順だけは迷わなかった。


 細い扉の先で、灰色の袋が搬送棚に載せられていた。


 封蝋が二つ。札には、廃棄遺品押収分。


 俺が指をかけると、袋の中で小さな鈴が鳴った。


 胸へ抱え、搬送棚の陰へ身をずらした。


 二歩も進まないうちに、咳がこみ上げた。膝が折れかける。袋を抱えたまま棚板に額を押しつけ、息を待つ。


「押収袋は」


 入口側で棚扉が開く。


「ないぞ」


 奥の房は、記録室のさらに先だった。細い格子戸には鍵がかかっているが、床近くに小戸がある。


 留め具を外すと、小戸が指一本ぶん浮いた。


 その隙間から、灰褐色の瞳がこちらを見た。


 イーラの唇が、ロア、と動きかけた。


 けれど、声にはならなかった。


「……違う」


 かすれた声で、首を振る。


「ロアじゃない」


 両手は前で縛られている。頬の泥が乾き、唇の端が切れていた。それでも視線は、俺の顔ではなく、目の奥を探るように動く。


「でも」


 イーラが眉を寄せる。


「奥の色が、同じ」


 返そうとしたが、咳しか出なかった。俺は小戸を押し上げ、奥を覗いた。


「左の壁」


 息を継ぎながら、顎で示す。


「釘がある。縄をかけろ」


 イーラは壁際へにじり寄った。縛られた手を背けるようにして、布縄を古い釘へ引っかける。


 縄が裂けるまで、二人で息を殺した。


 縄が落ちる。


「こっちへ来い」


 小戸は、人を通すためのものではない。それでも、小柄なイーラの肩なら通る。


 細い腕が出る。次に頭。泥のついた肩。

 俺はその腕を掴み、引いた。


 イーラが床へ転がり出る。


 灰色の袋を差し出した。


「持て」


 イーラは両腕で袋を抱えた。


 その重みを確かめてから、イーラは俺を見上げた。


「まだ、あったの」


 記録室の方から、追手の足音が近づいていた。正面には戻れない。


 俺の足は、廃棄遺品搬送路へ向かっていた。司書が入れるのは、そこまでだ。


 搬送路は、灰色の袋で埋まっていた。返されない物。名も呼ばれない物。


 荷札が擦り切れ、床に紙屑が積もっている。

 袋の口から、欠けた木札や子ども用の小さな留め具が覗いていた。


 どれも、長く誰かの手にあったものに見えた。


 イーラが俺の袖を掴んだ。支えているつもりなのか、引かれているのか分からない。どちらにせよ、俺の足はもう自分だけでは進まなかった。


 奥に、古い銘板が見えた。


 還り水の間。


 こっちじゃない。


 引き返そうとした時、イーラの抱えた袋の中で鈴が鳴った。さっきよりも澄んだ音だった。色の抜けた編み紐の先が、袋の口からこぼれ、薄く光を帯びる。


「待って」


 イーラが袋を抱きしめる。


「沈んじゃう」


 何が、と聞く前に、搬送路の床が水を張ったように光った。


 石の床はそこにある。壁も、鉄の棚も、天井から下がる鎖もある。ただ、足元だけが水面のように薄く光を返していた。


 一歩、足を置く。


 波紋が広がった。


 水面に、名が浮かぶ。


 一つ。二つ。三つ。


 白く残った名は、奥へ流れる。黒く濁った名は、途中で沈む。浮かんでは消え、消えては浮かぶ。そのたびに、遠くで薄い紙がめくれる音がした。


 白い名が、水面の奥の薄い輪に触れる。

 輪は水の下でかすかに開き、その先に小さな泡が一つ生まれた。


 泡は、奥へ流れて見えなくなった。


 黒い名は、その輪の手前でほどける。文字の線がばらけ、水底へ落ちる。そこからは、泡が上がらなかった。


 ――生まれる前に、押し返された。


 その言葉が、耳の奥に残っていた。


 袋の口から、小さな鈴がこぼれた。


 イーラが拾おうとして、水面へ手を伸ばす。指は濡れない。ただ、触れた場所から細い波紋だけが広がった。


 冷たさも、水音もなかった。ただ、光だけが揺れた。


 名は浮かばない。白く残る文字も、奥へ向かう波紋もなかった。


 それでも、鈴のそばの小さな光だけは沈まなかった。泥を吸った小袋の縫い目にも、片方だけの革手袋の指先にも、消えかけの灯が残る。


 その弱い光のそばで、黒く沈みかけた名が揺れていた。


「ほら」


 イーラは膝をつき、編み紐を両手で包んだ。


「ここにあると、少しだけ残る」


 白くはならない。奥へ流れもしない。


 けれど。


「沈んでない」


 イーラは編み紐を握ったまま、水面を見ていた。


 光のそばで、小さな泡が一つだけ揺れた。消えそうで、消えなかった。


「燃やしたら、灯がなくなる」


 これがないと、帰れない。


 あの言葉の意味が、ようやく形を持った。


 イーラは守っていた。


 沈みそうな名を留める灯を、燃やされる前に拾っていた。


 喉が鳴り、血の味が戻る。膝から力が抜けた。イーラが俺の袖を掴む。


 搬送路の向こうで、追手の足音が止まる。


 水面に、白い手袋の影が映った。


 命じられる前に、搬送路の奥で人の気配が止まっていた。


「そこは、司書が入る場所ではありません」


 柔らかな声だった。


 ガレス大司教は、水面を踏んでこちらへ来た。沈みかけた名を留める灯の前で、白い手袋の指先が止まる。


「名簿にない灯。やはり、まだ残りますか」


 イーラが袋を抱えて後ずさる。俺はその前へ出ようとして、膝から崩れた。息が浅い。


 ガレスは俺を見た。


 人を見る目ではなかった。


「多くは、同じ場所へ戻ります。家へ、村へ、同じ種へ」


 白い手袋が、俺の胸元へ伸びる。


「けれど、あなたは違う」


 指先が触れた。


 胸の奥が焼けた。


 ないはずの痣が、熱を持つ。白い手袋。柔らかな声。


 ――神の加護が、君の道を照らしますように。


「すばらしい。魔族にも転生したのですね」


 ガレスの声が、ほんの少しだけ明るくなった。


「人にも、魔族にも。信徒にも、名簿外にも。君は、線を引かない」


 水面の名が震える。


「だから、門の奥まで届く」


 焼ける痛みに、別の景色が重なった。


 白い布。冷たい石。胸に残る痣。


 俺だ。


 言葉になる前に、分かった。


 神殿の奥に、いる。


「袋を離すな」


 声が掠れた。


 イーラは小さくうなずいた。袋を抱える腕に力が入る。


「逃げろ」


 イーラは、すぐには動かなかった。


「奥だ」


 白い手袋が、もう一度胸を押さえた。焼ける。息が止まる。


「神殿の奥、俺がもう一人」


 声が途切れた。


「白い布の下。探せ」


 イーラの目が揺れた。


「顔、知らない」


「顔じゃ、ない」


 咳が込み上げ、血の味が口に広がった。


「奥の色で、分かるだろ」


 イーラは袋を抱え直した。


「名前は」


 その問いに、喉が詰まる。


「リュカ」


 イーラは、唇だけでその名をなぞった。


 ガレスの背後で、止まっていた神殿兵の鎧が小さく鳴った。


 俺は残った力で、足元の水面へ手を落とした。波紋が広がり、白い手袋の影が一瞬だけ歪む。


 その一瞬でよかった。


 イーラは袋を抱え、細い搬送路へよろけながら駆け込んだ。色の抜けた編み紐が、袋の口からこぼれて光った。


 ガレスは追わなかった。


 胸の奥に、白い手袋の熱だけが残っていた。


「やはり、君だった」


 声が遠くなる。


 白い布。


 冷たい石。


 閉じたまぶた。


 胸の痣。


 俺はそこへ、引かれていった。

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