第3話 遺品回収人ロア
「……ア、死んでんのか」
泥に沈んだ指が、声に引かれて動いた。
冷たい。重い。
口元に泥が張りつき、腰の小袋が濁った水を吸っている。
革と古い鉄の臭いがした。
起き上がろうとして立てた肘が、泥の上で崩れた。
こめかみが脈を打つたび、目の裏が痛んだ。
「おい。冗談じゃねえぞ」
太い手が襟首を掴み、俺を泥から引き剥がした。
白い回廊。黒い刃。泥の中の小さな角。
リュカ。
ルク。
どちらを口にすればいいのか、舌が動かない。
「ロア。三晩ろくに寝てねえんだ。倒れるのも無理はねぇが、もちっと踏ん張れ」
ロア。
呼ばれた途端、ひび割れた両手が勝手に膝の帳面を拾った。
折れた槍と割れた盾が散った戦場跡。
泥の上にむしろが敷かれ、袋と木箱が並んでいる。
年嵩の男が、足元の木箱を顎で示した。
「手ぇ動かせ。神官様が睨んでる」
バル。
その男を、ロアはそう呼んでいた。
手元には、泥を拭った帳面と、濡れた札の束があった。
遺品は帳面の名前と合えば返却。値のある物は保管。
どちらにも引っかからない物には、黒札を結ぶ。
銀の指輪をつまみ、帳面の名前に指を当てる。
白札を結び、返却と書かれた袋へ入れた。
割れていない徽章は木箱へ。
蓋には、保管の札。
片方だけの革手袋を掴んだとき、手が止まった。
黒札。
廃棄。
少し遅れて、底の深い箱へ落とした。
軽い音だった。
「次」
神官の声に、バルが焦げた布を差し出す。
箱の向こうで、小さな影が動いた。
泥染みだらけの外套。
細い腕。
少女は、保管箱のそばにある銀貨袋を見なかった。
廃棄箱へ、細い手を伸ばした。
片方だけの革手袋。
焦げた紐。
小さな鈴。
泥だらけの小袋。
どれも、売れる物には見えなかった。
それでも少女は、一つずつ外套の内へしまった。
その手つきを、ロアは知っていた。
イーラ。
金になる物は取らない。
黒札を結ばれた物だけ抱えて、足音が来る前に消える。
ロアの指は、次の札をつまんだ。
箱の向こうを見なければ、それで終わる。
見なかったことにしておけばいい。
これまでも、そうしてきた。
「おい」
少女の手首が掴まれる。抱えた鈴が、外套の中で小さく鳴った。
「またか。廃棄品に触るなと言っただろう」
少女は口を開かない。
革手袋を、外套の内へ押し込む。
「隠すな」
神官が手首をひねる。
少女は泥に膝をついた。それでも、抱えた遺品は離さなかった。
見るな。
次の札を取って、作業に戻ればいい。
「その子を離してやってください」
声が勝手に出ていた。
バルの肩が跳ねる。
神官は少女の手首を掴んだまま、俺を見た。
「ロア。お前は仕分けを続けろ。廃棄品は神殿の管理物だ」
「戻します。だから、その子を離してやってください」
「戻せば済む話ではない。持ち出した時点で盗みだ」
指がもう一度ひねられる。
「子どもの腕を折るほどの物か、それ」
「ロア、やめとけ」
バルが俺の濡れた袖を掴んだ。声を押し殺している。
「おまえ、そんなこと言う奴じゃなかったろ」
握っていた黒札が、指の間で折れた。
俺はバルの手から袖を抜き、神官の腕を押さえた。
少女をひねっていた手が止まる。
神官の眉が上がる。
「倒れて頭でも打ったか。汚れた手で触れるな、回収人」
「腕を折るほどの物じゃない」
バルがもう一度、俺の袖を引いた。
肘が廃棄箱に当たった。濡れた黒札が束ごと泥にばらける。
神官の目が、落ちた札へ逸れた。
その隙に、少女は手首を引いた。赤くなった手を外套の下へ隠し、遺品を抱え直す。
逃げるのかと思った。
だが、少女は俺を見た。
神官の腕を押さえた、泥まみれの手を。
いつも伏せていた目が、初めて俺をまっすぐ見た。
「……来て」
小さな指が、俺の袖を掴んだ。
「待て!」
背後で神官が叫ぶ。バルの声もしたが、泥を蹴る足音に消えた。
少女は遺品を抱え込んだまま、崩れた外壁の向こうへ駆ける。
俺は折れた黒札を握ったまま、その小さな背を追った。
何度もぬかるみに足を取られた。
ようやく抜け出したところで、イーラの外套が瓦礫の間へ滑り込む。
戦場跡の外れに、子ども一人がやっと抜けられる暗がりがあった。
俺は、引かれるままそこへ潜り込んだ。
中はさらに狭い。
身を横にしなければ通れなかった。
「待て」
イーラは振り返らない。崩れた石材の裏を、さらに奥へ這っていく。
肘で進むたび、石の角が袖を擦った。
やがて頭上が少しだけ高くなり、俺は身を縮めて座り込んだ。
外壁が崩れたときに残った空洞のようだ。
天井代わりの石板から土がこぼれ、奥には割れた木箱と欠けた水差しが寄せてある。
盗品を隠す穴に見えた。
壁際には古い布が三枚敷かれていた。
古布の上には、似たような小物が並んでいる。
片方しかないもの。焦げたもの。欠けたもの。泥を吸って元の色を失ったもの。
銀貨はない。指輪も、徽章もない。
それでも、雑には置かれていない。
木札は脇に寄せられ、紐は絡まないよう伸ばされている。
イーラは抱えてきた革手袋を、空いた場所に置いた。
焦げた紐の泥を外套の裾で拭く。
小さな鈴は一度両手で包み、木札のくぼみにそっと預けた。
最後に、泥だらけの小袋を膝の上へ置いた。
「ここに、隠していたのか」
イーラは答えなかった。
「売る気なら、もっと別の物を取るよな」
イーラは小袋の泥を指で落としながら、首を振る。
「売らない」
それだけ言った。
むしろを敷いた仕分け場では、神官が散った黒札を拾い集めているはずだ。
俺が戻らなければ、バルまで巻き込まれる。
戻らなければならない。
手をついた。けれど、視線がイーラへ戻った。
彼女は奥の石に手をかけていた。
下から、小さな布包みが出てくる。
布は擦り切れ、結び目だけが黒ずんでいた。
包みを開くと、中には色の抜けた編み紐が一本だけ入っていた。
イーラは編み紐のほつれを、指先でそっと撫でた。
「兄さんの」
小さな声だった。
「もう、いない」
編み紐を抱くことはしなかった。
古布の真ん中へ、乱れないように置いた。
紐の先には、拭い切れなかった泥が黒く残っていた。
「捨てられるところだった」
小さな指が、編み紐の端で止まる。
「ここに、灯があるの」
「灯?」
「小さいの。消えそうな」
俺は編み紐を見た。
泥の染みた、古い紐だ。俺には、灯は見えない。
けれど、イーラはそこから目を離さなかった。
それから、膝に残していた小袋を胸元へ寄せた。
「前にも、見たの」
「生まれる前。暗いところにいた」
「前に行こうとしても、戻されて、ずっと寒かった」
「でも、小さい灯があった。そっちに行ったら、兄さんがいた」
イーラの指が、編み紐を撫でる。
「兄さんは、嘘だって言わなかった」
古布の上には、俺が廃棄するはずだった物ばかりが並んでいた。
何度も廃棄箱に落としてきたものだ。
けれど、古布の上に並んだものを、もう同じ箱には落とせない。
――戻れない子たちがいる。
火のそばで聞いた言葉が、記憶の奥からふいに戻った。
イーラは小袋を、兄の紐とは別の古布へ置いた。
「これにも、同じ灯があるの」
革手袋へ手を伸ばす。焦げた紐、小さな鈴へ、順に指を寄せる。
「消しちゃだめなの」
胸の奥が、かすかに熱を持った。
そのとき、外で泥を踏む音がした。
一人分ではない。
イーラは外の足音に目を向けなかった。古布の上の遺品から指を離さず、俺を見上げる。
「これがないと、帰れないの」
帰れない。
聞き返す余裕はなかった。
外で金具が擦れた。
イーラの指が、古布の上で固まる。
泥を踏む音が二つ、三つ。すぐ近くで石を蹴る音がした。
崩れた外壁の隙間から、古布の上へ土が細くこぼれた。
俺は口元に指を立てた。
イーラは息を殺し、編み紐へ伸ばしかけた手を膝に戻した。
「足跡はこの辺りで切れています」
男の声だった。
「回収人も一人、姿が見えないそうです」
「娘だけではなかったか」
声が近い。
俺は背を石壁へ寄せた。濡れた外套が土を擦り、イーラが息を止める。
「騎士殿」
少し離れた場所から、別の男が呼んだ。
「先日の戦闘では、敵性種の子を庇ったと聞いています」
金具が、小さく鳴った。
「背信と取られてもおかしくない。ここで務めを果たしていただきたい」
「……任務は果たします」
女の返答は短かった。
泥を踏む音が、石の隙間の前で止まった。
「ここだ。足跡が石の隙間の前で消えている」
イーラが編み紐を見た。
俺は入口側へ膝をずらし、イーラと並べられた遺品を背に隠した。
「廃棄遺品の横流しなら、中に溜め込んでいるはずです」
「処分前の遺品だ。見つけ次第、押収しろ。盗品として記録してから処分に回す」
編み紐も、潰れた鈴も、神殿には同じ扱いだった。
古布の上で、小さな鈴が土粒に打たれて揺れた。
イーラは、古布の上の遺品をかばった。
誰かが崩れた壁を靴裏で叩いた。
小さな土塊が落ち、すぐそばで砕ける。
イーラは肩をこわばらせたが、退かなかった。
俺はその指先に、そっと手を重ねた。
外から槍の柄が差し込まれた。
入口脇の石を押す。がり、と石が擦れ、土が落ちる。
石のひとつが外れ、細い光が差し込んだ。
欠けた木札の縁が、白く照らされた。
槍の柄が、もう一度入ってくる。
イーラが小さく首を振った。声は出さない。
それでも、指は編み紐へ伸びていた。
「崩すぞ。下がれ」
重い音がして、頭上の石板が震えた。
古布がずれた。端に置かれていた小さな鈴が転がった。
ちり、と鳴る。
それだけで、外の動きが止まった。
石がもう一つ外され、光が広がった。片方だけの革手袋、焦げた紐、色の抜けた編み紐まで、泥の上にさらされる。
槍の柄が古布を引っかけた。
木札が裏返る。整えられていた紐が、土の上へ散った。
イーラの指が、膝の上で握られた。
「廃棄遺品です。布ごと押収を」
沈黙のあと、女の声がした。
「これを?」
「持ち出された時点で盗品です。押収します」
イーラが編み紐へ手を伸ばす。
止めるより先に、外で誰かが叫んだ。
「中にいるぞ」
石の隙間が広げられた。
白い光が、俺の膝とイーラの外套へ落ちる。
「子どもを押さえろ。回収人も一緒だ」
イーラは逃げなかった。
土の上に落ちた編み紐から、目を離さなかった。
兄の編み紐。
その横に、口の開いた小袋。
外から白い袖が入ってきた。
その手がイーラの肩を掴むより先に、俺は身を投げ出した。
「っ、ロア!」
崩れた石材に脇腹を打ちつける。息が潰れた。
それでも、イーラを掴みかけた手を肘で押し返す。
「抵抗するな。盗人と同じ扱いになるぞ」
「もう、なってる」
言った途端、喉が詰まった。
肘に、もう力が残っていない。
「布ごと出せ。押収物を落とすな」
槍の柄が古布を引いた。
革手袋が土へ落ちる。焦げた紐が石の下へ滑る。
イーラの指が、編み紐を掴む。
もう片方の手で、小袋を胸へ押し込んだ。
全部は持てない。
木札も、革手袋も、古布の上に残る。
イーラの視線が、欠けた水差しの方へ向いた。
その奥に、細い暗がりがある。
「奥へ行け」
イーラが首を振った。
「ロア」
それ以上は、外の怒声に消された。
「騎士殿、裏へ回れ!」
返事は、すぐにはなかった。
俺は割れた木箱を蹴った。
腐った板が入口へ倒れ、差し込まれた白い袖に当たる。
「行け」
イーラは編み紐を握ったまま、欠けた水差しの裏へ身を翻した。
泥染みの外套が、細い暗がりへ滑り込む。
子どもの肩なら抜けられる裂け目だった。
神殿兵の一人が、外から石の隙間へ肩を入れた。
伸びた手が、消えかけた外套の裾へ届く。
俺は横から体をねじ込み、その腕の前へ肩を入れた。
「それ、落とすな」
外套の裾が止まった。
イーラの手が、胸元の小袋を押さえ直す。
泥染みの裾が、裂け目の奥へ消えた。
「どけ!」
槍の柄が肩に振り下ろされた。
骨の奥まで響く。身体が崩れかける。
どくつもりはなかった。
今までなら、黒札を結んで廃棄箱へ落とした。
箱の向こうを見ないまま、次の札へ手を伸ばした。
古布の上には、まだ鈴がある。
欠けた木札がある。
誰かが捨てられなかった物が、泥にまみれている。
今度は、槍の刃が隙間から真っ直ぐ伸びてきた。
濡れた外套を裂き、脇腹の奥へ突き抜ける。
背中が石材へ叩きつけられた。
呻き声さえ出ない。
「追え! 子どもを逃がすな!」
外で追手が左右へ散った。
細く軽い足音が、遠ざかる。
編み紐は、落ちなかった。
俺は槍の柄を掴んだ。血と泥で手が滑る。それでも、もう一度握り直す。
引き抜こうとする力を、ほんの一息だけ止めた。
鈴が、倒れた指のすぐ横にあった。
触れてもいないのに、小さく鳴った。
泥と古い鉄の臭いが、遠のいた。
*
指先が、乾いた紙を擦っていた。
白い机。
揃えられた帳面。
倒れた薬湯の椀。
細い指に、泥もひび割れもない。
けれど、その指先は冷えきっていた。
羽ペンの先から、黒い墨が一滴、紙へ落ちる。
机には、未処理の聖環名簿が積まれていた。
「レヴ司書?」
声が、遠くで聞こえた。
白い布が、視界の端で揺れる。
「……待て」
机のそばで、誰かが息を呑んだ。
「今、指が動いた」




