第2話 魔族兵ルク
魔族が退いたあと、白い回廊にはまだ血の匂いが残っていた。
名簿庫の扉は半分だけ開いている。
扉には黒い刃の傷が走り、柱の根元には折れた槍が転がっていた。
外から踏み込んだ靴跡が、白い石床に泥を擦りつけている。
その上に、血が広がっていた。
ラヴェリアは剣を抜いたまま、そこまで歩み寄った。
「リュカ」
返事はない。
血はそこにある。
倒れた重みで擦れた跡もある。
割れた盾が、柱の陰に残っていた。
縁は裂け、切れた革紐が床の血を吸っている。
けれど、リュカだけが見つからない。
「ラヴェリア様」
王国兵が駆け寄ってきた。
肩を押さえ、息を切らしている。
「負傷者は」
「中庭へ運んでいます」
「倒れている者をもう一度見て。息がある者を残さないで」
「リュカ殿は」
「探す」
短く返した。
兵は一度、血の広がった床を見た。
何も言わずに走る。
名簿庫の前で、神官が落ちた札を拾っていた。
帳面を胸に抱え、血の縁を踏まないよう足を置いている。
「名簿庫の確認を先にしても」
ラヴェリアの剣先が、白い石床を掻いた。
「人が先」
「ですが、庫内が」
「二度言わせない」
神官は口を閉じた。
拾いかけた札が、指の間から床へ落ちる。
ラヴェリアは血だまりのそばへ戻った。
剣帯の切れ端が、そこに残っていた。
朝、彼女が乱暴に締め直したものだった。
緩い、と叱った金具が、ひとつだけ石床を引っかいている。
ラヴェリアは指を伸ばしかけ、止めた。
剣を握り直す。
血で濡れた柄革が、手甲の内側で滑った。
「まだ終わってない」
ラヴェリアは剣で折れた槍を横へ払った。
「動ける者、前へ」
回廊のあちこちで、鎧の音が鳴る。
壁際の兵が身を起こし、落ちた槍を拾う。
血濡れた剣先を、別の兵が外套で拭った。
「扉に二人。残りは私について来なさい」
「追撃、ですか」
「足跡が消える前に出る」
神殿兵が名簿庫の扉へ手を伸ばす。
半分だけ開いていた扉が、軋みながら閉じた。
ラヴェリアは一度だけ、柱の陰を見た。
割れた盾は、そこに残っている。
白い石床の血は、まだ乾いていない。
「行くわよ」
ラヴェリアは白い回廊を出た。
*
息を吸った瞬間、脇腹が焼けた。
薬草の匂いが鼻を突く。
まぶたを開けると、天幕の布が低く揺れていた。
回廊じゃない。
体を起こそうとして、巻かれた包帯に血が滲んだ。
「っ」
漏れた声が低い。
俺のものじゃない。
持ち上げた手は細く、爪が少し尖っていた。手の甲には薄い紋様が走っている。
額の汗を拭うと、指先が短い角に当たった。
どれひとつ、俺の知っている俺ではなかった。
「動くな」
考えるより先に、背筋が寝台へ縫いつけられる。
止まったのは、俺の意思じゃない。
肩も喉も、叱責を待つ兵のように固まっていた。
違う。
俺は、王国騎士だ。
ラヴェリアの声が、まだ耳の奥に残っている。
リュカ、と。
あいつが、あんなふうに俺の名を呼んだことはなかった。
動かない首の代わりに、目だけを横へ向ける。
セレネがいた。
片側だけ乱れた銀髪と、こめかみから後ろへ反る二本の角が、薄い灯りの中に浮いていた。
俺を殺した女。
黒い刃で、俺の胸を貫いた女。
喉の奥が詰まる。
逃げようとしたのに、足は寝台の上で布を掻いただけだった。
「暴れるな」
セレネの手が、俺の肩を押さえた。
強い力だった。
知らない光景が、まぶたの裏で弾けた。
黒い外套の背。
迫る剣先。
前へ出た体。
――セレネ様。
舌が、その名をなぞりかけた。
奥歯を噛む。
「違う」
なのに、セレネの指が包帯を押さえると、体の力が抜けた。
命令を待つみたいに、呼吸が浅くなる。
「傷を見る。騒ぐな」
セレネは俺の返事を待たず、布をめくった。
「私を庇うことを、お前に許した覚えはない」
冷えた空気が傷に触れる。
息が詰まった。
「っ、あ」
「息をしろ」
短い声。
命じられると、喉が勝手に開いた。
俺は――。
「リュカだ」
セレネの手が一瞬だけ止まった。
「熱がある。喋るな、ルク」
その名に、体がびくりと跳ねた。
「ルク。こちらを見ろ」
見たくなかった。
でも首が動いた。
セレネは小さな椀を取った。
濁った水に薬草が沈んでいる。
「飲め」
椀の縁が唇に当たった。
顔を背けようとした。
けれど、セレネの指が顎にかかる。
「逃げるな」
逃げ場を探して、寝台の布を掴む。
「俺は、ルクじゃ」
「今は黙れ」
セレネは顎に指をかけたまま、椀を傾けた。
苦い液体が舌に落ちた。
喉が拒む。
押し返そうとした瞬間、セレネの指先に力が入った。
「吐けば、もう一度だ」
半分ほど流し込まれたところで、咳が出る。
椀の縁が唇から外れかける。
セレネは椀を戻した。
「こぼすな」
「……敵に、薬を」
「敵ではない」
セレネは椀を置かない。
「お前はルクだ。私の兵だ」
違う、と言いかけた。
その口を塞ぐように、椀の残りが流し込まれた。
セレネは空になった椀を置いて、布で俺の口元を拭った。
乱暴ではない。けれど、逃がす気もない手つきだった。
俺の指が、寝台の脇へ伸びる。
そこに短剣があった。
掴む前に、セレネが刃ごと遠ざける。
「まだ持つな」
「返せ」
「その手で何をする」
答えられなかった。
握ったところで、震えは止まらない。包帯の下では、脈に合わせて痛みが跳ねていた。
セレネは俺の手首を寝台へ戻した。
「立つな。腕を上げるな。大人しくしていろ」
そう言い置いて、セレネは天幕の外へ命じた。
布にくるまれた椀が運ばれてくる。
薄い粥だった。
匂いは弱いのに、腹が勝手に鳴った。
「食え」
「いらない」
「発熱。出血。空腹。三つ揃えば死ぬ」
セレネは俺の背へ腕を入れた。
起こされる。
逃げる場所がなくなる。
匙が口元で止まった。
押し込まれない。
だが、下げられもしない。
「息を整えろ」
従うつもりはなかった。
けれど、浅い息がひとつ、喉を通った。
「命令だ。生きろ」
閉じていたはずの口が開いた。
匙が入る。
粥は薄く、塩気もほとんどなかった。
空っぽだった腹に、温かさだけが残った。
セレネは一口ごとに間を置いた。
だが、残すことは許さない。
「私の兵を、私の許可なく死なせると思うな」
低い声だった。
俺は匙を睨んだ。
睨んだまま、次を待つしかなかった。
天幕の外で、木の器が触れ合う音がした。
布を裂く音と、傷を押さえろという低い声が続く。
その奥で、子どもの高い声が一度だけ上がった。
俺は寝台の上で、首だけを動かそうとした。
セレネは俺の胸元を押さえ、天幕の布を指で少し開けた。
「見るだけにしろ」
外は夜だった。
黒い天幕がいくつも並び、その中央に小さな火がある。
火のそばに、子どもが三人座っていた。膝を抱えた子。木の椀を両手で持つ子。角の短い子が、粥を少しずつすすっている。
その外側には、負傷兵がいた。
肩を縫われている者。
腿に布を巻かれている者。
片腕を吊ったまま、水桶を運ぶ者。
傷の浅い兵が、重い傷の兵へ椀を渡していた。
自分の口には運ばない。
「先に飲め」
「お前も血を流してる」
「見た目ほどじゃない」
短いやりとりで、椀は重傷者の手に押し込まれた。
「子どもを火のそばから離すな」
セレネが天幕の布を開けたまま言った。
「歩ける者は外の警戒にあたれ」
兵が短く返事をし、椀を持った子どもを火のそばへ戻した。
王国の陣と同じ、見慣れた光景だった。
水。
包帯。
呻き声。
粥の匂い。
違うのは、火のそばの子どもへ、兵たちが何度も目を向けることだった。
「西の谷で、子が生まれたそうだ」
外の兵が低く言った。
「何年ぶりだ」
「七年」
別の声が答える。
「覚えていたか」
「少し。生まれる前に、押し返されたと」
木の器が止まる音がした。
「またか」
「戻れない子たちがいる、とも言ったそうだ」
誰も笑わなかった。
俺は天幕の向こうを見たまま、息を止めていた。
神殿を襲った連中だ。
俺を殺した女の兵だ。
そう言い聞かせても、火のそばの子どもから目が離れなかった。
「生まれるはずの命が、押し返されている」
セレネが言った。
「誰が」
聞くつもりはなかった。
問いだけが、口をついて出た。
セレネはこちらを見ない。
火のそばの子どもたちを見たまま、短く言った。
「神殿だ」
神殿。
その言葉に、胸の奥が小さく焼けた。
白い手袋が触れた場所だった。
違う、と言いたかった。
息が乱れたのを見て、セレネの指が俺の襟元を引いた。
包帯の端がずれ、胸元が灯りにさらされた。
「その痣は」
セレネの指が、襟元を掴んだまま止まった。
「神殿のものか」
「……わからない」
本当に、わからなかった。
リュカの胸にあったはずの痣が、この体にもある。
セレネの視線が、痣から俺の目へ移った。
一瞬、息が止まった。
セレネはそれ以上聞かなかった。
ずれた包帯を押さえ直し、襟を元の位置へ戻す。
「目を閉じろ。熱が上がる」
天幕の外で、短い角笛が鳴った。
火のそばの兵が、いっせいに顔を上げる。
セレネの手が、俺の肩を寝台へ押し戻した。
「王国旗、南の丘です」
火のそばのざわめきが、ひとつずつ消え、椀を置く音だけが残った。
セレネが俺の肩を押さえたまま命じる。
「子どもを奥へ。負傷者は木立に入れろ」
椀が脇へ寄せられ、鍋が火から下ろされた。
負傷兵を担いだ兵がよろけ、近くの兵を怒鳴って呼んだ。
子どもが泣き出しそうな口を結んだ。
外で、短い角笛がまた鳴った。
さっきより近かった。
俺は寝台の縁を掴んだ。
「ルク、伏せていろ」
呼ばれて、体が止まった。
俺より先に、ルクの体が従った。
外で、鉄と槍がぶつかった。
土が跳ねる音。馬のいななき。王国兵の号令。
開いた天幕の向こうに、王国の盾が並んでいた。
その列の前へ、女が泥を蹴って出る。
銀の肩当てと、裂けた赤い外套。
高く結んだ髪が、踏み込みに遅れて揺れる。
左手が鞘を押さえていた。
俺の剣帯を乱暴に直していた、あの手だった。
ラヴェリア。
名を呼ぼうとした。
喉が擦れて、息だけが漏れた。
ラヴェリアは魔族の槍を弾き、間合いを潰した。王国兵がその横を抜けようとする。
低く構えた槍先が、倒れたままの負傷兵へ向いた。
「止まれ」
王国兵の踏み出した足が、止まりきれずに泥を削った。
ラヴェリアの剣が泥を裂いた。
兵の爪先の前に、細い溝が走る。
「しかし」
「負傷者を巻き込むな」
短い命令だった。
ラヴェリアは視線を外さない。
逃げ遅れた小さな角の子が、粥の椀を抱えたまま固まっていた。
別の王国兵が横から回り込む。
「戦えない者を追うな」
兵が歯噛みして下がる。
その背へ、魔族の若い兵が刃を振り下ろした。
ラヴェリアは振り向かず、剣の腹で刃を受けた。火花が散る。
「敵将だ!」
王国兵の誰かが叫んだ。
ラヴェリアの目が、こちらへ向いた。
一瞬だけ、俺を見た。
額の角。
手の甲の薄い紋様。
血の滲んだ包帯。
彼女の剣先が、わずかに下がる。
だが、すぐに剣を戻し、セレネへ切っ先を据えた。
「リュカはどこだ」
その名が、心の奥を引っかいた。
息が浅くなる。
なのに、肩を押さえるセレネの手は、俺をルクとして留めていた。
「ここにはいない」
セレネが言った。
低く、短く。
「返らない者なら、こちらにもいる」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいない。返さないのは、神殿だ」
ラヴェリアの眉が動いた。
「戯言を!」
剣の柄革が、彼女の手の中で鳴る。
王国兵が叫んだ。
「左へ回れ! 火のそばを抜ける!」
踏み込む兵の先に、小さな角の子が取り残されていた。
子どもの震えた指から椀が落ち、泥の中で白い粥がこぼれる。
ラヴェリアは子どもの前に出ようとした。
だが、魔族の槍が二本、彼女の前を塞ぐ。
王国兵の槍先が、火の横を抜ける勢いのまま子どもの方へ流れた。
セレネが呼んだ。
「ルク!」
その名に、引き戻されかけた。
寝台の縁を握った指が止まる。
伏せていろ。
動くな。
生きろ。
ルクの体が知っている命令だった。
けれど、泥の中で小さな角が震えている。
同時に、耳の奥で別の名が重なった。
リュカ。
考えるより先に、体が寝台から落ちた。
足が泥を踏んだ瞬間、脇腹が裂けた。
包帯の下で熱いものが広がる。
子どもの前へ、肩から突っ込んでいた。
盾はない。
剣もない。
それでも左肩が前へ出た。
ラヴェリアに何度も叱られた、悪い癖だ。
槍先が俺の肩布を裂く。
それでも、手は子どもの腕を引き寄せていた。
「っ」
声が潰れる。
子どもを抱えたまま、泥へ転がった。
小さな角が顎に当たる。
槍がさっきまで子どもがいた場所を通った。
泥を抉り、椀の欠片を弾く。
「下がれ!」
ラヴェリアの剣が走った。
王国兵の槍先が、泥の上へ落ちる。
俺は泥の上で、子どもを腕の下に押し込んでいた。
立てない。
息を吸うたびに、脇腹から血が滲む。
ラヴェリアの剣先が俺に向き、一瞬だけ止まった。
彼女の唇が、少しだけ動いた。
「……リュカ」
俺は返事をしなかった。
できなかった。
腕の下で、子どもが小さく震えている。
「奥へ」
それだけ言ったつもりだった。
息が漏れただけかもしれない。
子どもは泥を掻き、俺の腕から這い出した。
すぐに魔族兵が抱き上げる。
「セレネ様! ルクが!」
「叫ぶな。動ける者は火のそばを塞げ」
セレネが片膝をつき、包帯を避けて俺の襟元を掴んだ。
「勝手に死ぬ許可を出した覚えはない」
上体を起こされる。
傷が引きつり、目の前が白く霞んだ。
「息をしろ、ルク」
詰まっていた息が、少しだけ通った。
霞んだ視界の向こうで、赤い髪が揺れている。
ラヴェリアは、火のそばから兵を通さなかった。
王国兵が回り込もうとするたび、剣先がその前へ入る。
その視線が、一度だけこちらへ向いた。
ラヴェリアの唇が動いた。
何を言ったのか、聞こえなかった。
泥についた手が、わずかに動いた。
俺は片膝をつき、もう一度立とうとした。
セレネの手が、俺の傷口を押さえた。
指の間から、血が泥へ落ちていく。
もう片方の手が、襟ごと俺を地面へ押さえ込んだ。
「次に動けば、縛る」
もう、腕に力が入らなかった。
まぶたが落ちてくる。
「命令だ」
その先は、続かなかった。
傷を押さえる指に、力が入りすぎている。
「……目を開けてくれ」
返事はできなかった。
セレネが傷口を押さえ直す。
彼女は俺から手を離さないまま、兵に命じた。
「後退する。負傷者を運べ。子どもを下げろ」
兵が動く音がした。
セレネの声は、指揮官のものに戻っていた。
「ルク」
セレネがもう一度呼ぶ。
血の臭いが強くなる。
子どもの角。
セレネの血に濡れた指。
ラヴェリアの赤い髪。
ひとつずつ、暗くなった。
*
冷たい泥に、指が沈んでいた。
すぐそばで、濡れた布が擦れた。
革紐。
土に汚れた小袋。
血と泥と、古い鉄の臭い。
指を動かそうとした。
荒れた手が、泥を掻いた。
「ロア、死んでんのか」




