第1話 王国騎士リュカ
「あんた、本当に騎士に向いてないわね」
祝福式の列から戻った俺に、ラヴェリアはそう言った。
白い石畳の向こうでは、次の騎士が祭壇の前に膝をついている。香の煙が薄く流れ、神官たちの袖が揃って揺れた。
神殿のガレス大司教が、白い手袋を騎士の胸へ添える。
「神の加護が、君の道を照らしますように」
柔らかな声だった。
同じ言葉を、俺もさっき受けた。
鎧の隙間から差し込まれた白い手袋の指が、胸骨の下に触れた。次の息を吸う前に、そこが一瞬だけ焼けた。
剣で裂かれた痛みではない。
小さな火種を、鳩尾の奥に押し込まれたみたいだった。
神官も、並んだ騎士たちも、誰も振り向かなかった。
ラヴェリアだけが俺を見ていた。
「ひどい顔」
「少し、熱かっただけだ」
「祝福で熱がる馬鹿がいる?」
「俺が最初かもしれない」
「馬鹿」
ラヴェリアは短く吐いて、俺の胸当てを掴んだ。
「動くな」
返事をする前に、留め具を引かれた。肩紐を締め直され、剣帯を押し下げられる。手つきは乱暴なのに、ずれていた場所だけを正確に直していく。
親指が、ガレス大司教の手袋が触れたあたりで止まった。
押される。
まだ奥に火が残っていて、喉の奥で息が詰まった。
「痛む?」
「もう平気だ」
「嘘」
「戦える」
「そういう話じゃない」
ラヴェリアは胸当てを指で叩いた。乾いた音がひとつ鳴る。
「今日、危ないわよ」
「祝福は受けた」
「だから?」
彼女は剣帯の結び目を引いた。強すぎて、腰が少し沈む。
「前に出すぎない。誰かが倒れてても、まず周りを見なさい」
「倒れてたら助ける」
「ほら。そういうところよ」
ラヴェリアはずれた肩当てを押し込み、曲がった外套の留めを直した。最後にもう一度、胸当ての中央へ視線を落とす。
祭壇の鐘が鳴った。
祝福の終わりを告げる澄んだ音に、すぐ別の鐘が重なった。高く、短く、何度も。
警鐘だ。
外の回廊で兵が走る音がした。
「神殿外周、再襲撃! 護衛隊は正門へ!」
ラヴェリアの手が離れる。
俺は盾の革紐を握った。胸の奥に残った火種が、鐘が鳴るたびに小さく疼いた。
「リュカ」
ラヴェリアが先に歩き出す。
「遅れたら置いてくわよ」
「努力する」
「努力じゃ足りない」
彼女は剣の柄に手を置き、白い石畳を蹴った。
――あんた、本当に騎士に向いてないわね。
その小言を、俺はこの日もう一度だけ聞くことになる。
そのあと俺は死に、次に目を開けたとき、なぜか敵将の腕の中にいた。
*
正門を抜けると、焦げた煙が喉に絡んだ。
白い石壁の外側で、兵が走っていた。鐘はまだ鳴っている。外周の石畳には、前の戦いで割れた盾と、折れた槍の柄が寄せられたままになっていた。
門柱の脇では、神官が帳面を抱えていた。
足元には、布袋と細長い木箱、それに底の深い箱が並んでいた。
石畳には、切れた剣帯、片方だけの手袋、泥を吸った布切れが置かれている。
泥に汚れた二人の男が、遺品を仕分けていた。
若いほうの手が、手袋を掴んだまま止まる。
「黒札だ」
年嵩の男が肘で小突く。
若い男は瞬きをして、その手袋を底の深い箱へ落とした。
前の戦いの後始末が、まだ終わっていない。
「そこを空けろ! また来るぞ!」
誰かが叫んだ。
黒煙の向こうから黒い矢が降った。
「盾!」
俺は腕を上げた。矢が盾に刺さり、革紐が手首へ食い込む。
ラヴェリアが俺の横を抜ける。剣が弧を描き、石段へ飛び込んできた魔族の刃を弾く。
「遅い」
「助かった」
「礼なんか言ってる暇があるなら走りなさい」
白い正門の前で隊列が乱れた。角のある影が二つ、外郭の崩れた柵を越えてくる。王国兵が槍を揃え、神官たちは木箱を抱えて回廊の奥へ下がった。
神官のひとりが石畳で転んだ。
帳面が滑り、札の束が散る。神官は膝をついたまま、木箱に手を伸ばした。頭上へ黒い影が落ちる。
「リュカ!」
ラヴェリアの声が飛んだ。
俺はもう走っていた。
神官の前に盾を差し込む。刃が盾の縁を削り、腕が沈んだ。歯を食いしばって押し返す。
「立て!」
「は、はい」
「箱は置け」
神官は木箱を抱えたまま首を振った。俺はその腕を掴んで引く。箱の中で、欠けた徽章が乾いた音を立てた。
「馬鹿! まず周りを見なさいって言ったでしょ!」
ラヴェリアが踏み込み、俺と神官の前を塞いだ。
迫る魔族の進路を切り、剣の腹で斧を流す。肩当てに火花が散っても、下がらない。
俺は神官の脇に肩を入れた。
「この人を運ぶ」
「見ればわかる」
「怒るな」
「怒らせるな」
ラヴェリアは短く斬り返した。敵が石段に足を取られる。
俺は神官を門柱の陰へ押し込んだ。散った札を拾う余裕はない。
「右!」
ラヴェリアの声で盾を出す。
飛び込んできた槍先が盾に噛んだ。腕ごと持っていかれかける。ラヴェリアの剣が槍の柄を断つ。
槍を失った魔族は、よろめきながら俺の横を抜けていった。
負傷者も、神官の木箱も無視した。
後続の魔族たちも同じだった。斬り合いを避け、白い回廊の奥へ走っていく。
「追え! 奥へ通すな!」
神殿兵の命令が響いた。
ラヴェリアが剣を握り直す。
「リュカ、奥へ行くわよ」
ラヴェリアの後を追って、回廊へ踏み出しかけた。
そのとき、門柱の脇で、神官が声を上げた。
「また廃棄漁りか。触るな」
見ると、底の深い箱の前で、痩せた少女が腕を掴まれていた。
煤で汚れた外套の中に、穴の空いた帽子を抱えている。
隣の木箱には、銀貨の入った小袋と、欠けていない徽章があった。
だが、少女はそちらを見てもいなかった。
「売り物にもならない。何度言わせる」
少女の肩が小さく跳ねた。
「子供だぞ」
思わず口を出した。
神官がこちらを見る。帳面を抱えたまま、困ったように眉を寄せた。
「騎士様、今は襲撃中です。これは後始末の邪魔をする者で」
少女と視線が合った。
助けを求めてはいなかった。
泣いてもいない。
ただ、空いた腕で帽子を胸に押しつけていた。
「リュカ」
ラヴェリアが俺の腕を掴んだ。
「今は前」
「でも」
「あの子を見てる間に、奥を抜かれたら終わり」
彼女は神官と少女の間に体を入れ、飛んできた矢を剣で払った。
「その子を下げなさい」
ラヴェリアが神官へ言う。
神官はうなずき、少女の腕を乱暴に引いた。
足が戻りかけた。
その時、白い回廊の奥で悲鳴が上がった。
「名簿庫へ通すな!」
神殿兵の声が割れた。
少女はその隙に腕を抜き、木箱の脇をすり抜けていった。
ラヴェリアの指が俺の腕に食い込む。
「行くわよ」
俺は盾を前へ出し、回廊へ向かった。
*
白い回廊を駆け上がると、音が変わった。
外の怒号が石壁に削られ、かわりに足音だけが響く。神殿兵が扉の前で槍を構えていた。鉄で補強された重い扉の前で、神官たちが帳面を抱え込んでいる。
そのかたわらで、顔色の悪い若い司書が紙束を胸に抱え込んでいた。
「なぜ名簿を」
言いかけた声が、そこで止まる。
振り返ると、回廊の入口に、ひとり立っていた。
黒い外套。
銀髪。
こめかみから後ろへ反る二本の角。
剣はまだ抜いていない。それなのに、槍を構えた神殿兵の足が下がった。
女の視線だけが動く。扉、神官、左右の柱、ラヴェリアの剣先。最後に、俺の盾。
「名簿庫だ。燃やすな、持ち出せ」
短い命令だった。
魔族たちが一斉に動いた。松明を持っていた一人が火を床へ捨て、刃に持ち替える。
「ふざけるな!」
神殿兵が突っ込む。
女はまだ動かない。横の魔族が槍を受け、別の魔族が神殿兵の脇を抜ける。
「リュカ、右を止めて」
ラヴェリアが前へ出た。
俺は盾を上げ、柱の間を塞ぐ。飛び込んできた魔族が盾にぶつかり、肩がしびれる。押し返すと、ラヴェリアの剣が横から入り、相手の武器だけを弾いた。
「奥へ行かせないで」
「言われなくても」
彼女はもう次を見ていた。剣を低く構え、扉への進路を切る。
魔族の刃が二本重なっても、半身でかわし、柱の角へ追い込む。
女の視線が、そこへ向いた。
銀の髪が揺れた。
女が剣を抜く。
音は小さかった。
だが、それだけで、背中の汗が冷えた。
「下がれ、ラヴェリア!」
俺が叫ぶより早く、ラヴェリアは踏み込んでいた。剣が黒い外套をかすめる。
外套の裾が裂けた。
女は身を引いたのではない。
ラヴェリアの足元へ、魔族の兵が転がり込む。
「っ」
ラヴェリアの足場が消えた。
それでも彼女は倒れない。膝を沈め、無理に姿勢を戻す。俺と扉を背後に置いたまま、剣を上げる。
女は、その一瞬を見逃さなかった。
一歩で、ラヴェリアの死角に入る。
黒い刃が、彼女の首筋へ落ちた。
「ラヴェリア!」
ラヴェリアの前へ滑り込む。
黒い刃が盾の縁に落ちた。
間に合った。
しかし、次の瞬間、腕ごと横へ持っていかれた。革紐が手首に食い込み、盾板が嫌な音を立てて裂ける。肩が外れそうになる。
ラヴェリアの髪が、俺の背中に触れた。
「リュカ!」
「下がれ!」
「あんたが下がりなさい!」
言い返す余裕はない。
女の刃は盾を割ったあと、外へ流れていた。
ラヴェリアがすぐ横から剣を差し込み、追撃を止める。
柱の陰から、短剣を構えた魔族が飛び出す。
俺は割れた盾を押しつけ、魔族の足を止める。
ラヴェリアの剣が短剣を弾き、白い石床に火花が散った。
割れた盾の破片が跳ね、女の視界を一瞬塞いだ。
届く。
そう思った時、鳩尾の奥が焼けた。
朝、白い手袋が触れた場所だ。
息が少しだけ遅れる。
それでも踏み込んだ。
狙うのは首じゃない。女の剣を持つ腕。
ラヴェリアが叫ぶ。
「リュカ、無茶するな!」
女の視線が俺に戻る。
その目に驚きはなかった。
ただ、剣先がわずかに上がる。刃が戻される前に、俺は石床を蹴った。
俺の剣が、黒い外套へ届きかけた。
そこへ、若い魔族が飛び込んだ。
体に合っていない革鎧。額から伸びた、短い一本角。
両腕を広げ、女の前へ立つ。
「セレネ様」
小さな声だった。
止められなかった。
若い兵のほうから、俺の剣へ身を投げた。
手応えが軽い。
軽すぎた。
若い兵の膝が折れる。俺は剣を引こうとした。抜けない。革鎧の隙間から血が広がり、俺の手甲を濡らす。
「ルク!」
女の声が回廊を裂いた。
初めて、女の動きが乱れた。
倒れかけた若い兵を片腕で抱える。もう片方の手で、彼女は刃を返した。
速い。
ラヴェリアが俺の腕を掴む。
「下がれ、リュカ!」
下がれなかった。
剣はまだ、ルクと呼ばれた兵の体に捕まっている。指が柄から離れない。離せば、そのまま崩れ落ちる気がした。
セレネが踏み込む。
黒い刃が、今度は俺へ向かった。
避ける余裕はなかった。
刃が胸へ入った。
音はなかった。
鎧の内側で、何かが潰れる。
息を吸おうとして、喉の奥が血で塞がった。
朝、ガレス大司教の白い手袋が触れた場所。
熱いのか、冷たいのか。
もう分からない。
剣から指が離れた。
若い兵が、セレネの腕の中へ崩れる。
俺の胸から黒い刃が抜け、膝が落ちる。
「リュカ!」
ラヴェリアの声が近い。
金属を弾く音がした。片手で俺の肩を掴み、もう片方で迫る刃を払っている。
「リュカ、見なさい。こっち」
見ようとした。
白い回廊が傾く。ラヴェリアの手が、俺の胸当てを押さえた。隙間からあふれた血が、彼女の指を濡らす。
彼女の額が、俺の額にぶつかる。
乱暴で、いつものままだった。
「あんた、本当に騎士に向いてないわね」
いつもの小言だった。
怒っているのに、息が揺れている。
「私の前で、勝手に死ぬなって言ったでしょ」
俺は口を開いた。
ラヴェリア、と呼ぶつもりだった。
血だけが口から溢れた。
ラヴェリアの顔が滲む。白い石壁も、割れた盾も、彼女の手も、遠くなる。
最後に聞こえたのは、ラヴェリアが呼ぶ俺の名前だった。
*
次に息を吸うと、薬草と鉄の匂いがした。
布の天井が揺れている。
「ルク」
知らない名で呼ばれた。
見上げた先に、あの女がいた。
銀髪。
こめかみから後ろへ反る二本の角。
俺を殺した女は、見下ろしたまま告げた。
「命令だ。生きろ」




