裏工房トリアージ
工房の裏は、もともと物を置くための場所だった。
空き箱。
麻袋。
予備の棚板。
乾燥前の薬草を一時的に置く木枠。
人を寝かせるためには、何一つ向いていない。
それでも、今はそこを空けるしかなかった。
私はダレスの脈を見ながら、耳だけを扉の向こうへ向けていた。
遠くで走る音が二つ。
一つは重い。カイルだ。
もう一つは軽く、でも乱れている。若い神官。
「教授」
「何だね」
「裏を見てきて。寝かせられる場所と、灯りを」
教授は少しだけ眉を動かした。
「私に運ばせるのか」
「見るだけでいいです」
私は言った。
「配置だけ決めてください」
教授は何も言わずに動いた。
ダレスの指先がまた震える。
さっきより大きい。
悪いわけではない。
沈んだ核が、まだ表へ戻る力を失っていない証拠だ。
「水」
ダレスがまた言った。
「少し待って」
私は答えた。
「今、一気に入れると気持ち悪くなる」
ダレスは舌打ちするほどの元気もないらしい。
唇だけが少し歪む。
それで十分だった。
扉の外で、急に重い音がした。
木枠か、誰かの踵か。
その直後、カイルの声。
「開けろ!」
私は立ち上がった。
工房の扉を開ける。
カイルが一人を背負っていた。
もう一人は若い神官が半ば引きずるように抱えている。
二人とも意識はある。
でも浅い。
眼球の動きが遅い。
膝が自分のものじゃないみたいに揺れている。
「裏、使える」
カイルが言う。
息は少し上がっているが、声は割れていない。
「教授が箱どけた。寝かせる板も出した」
振り返ると、教授がもう裏から戻ってきていた。
袖に木屑がついている。
それを払ってもいない。
「三人までなら置ける」
教授が言う。
「四人目からは床になる」
「三人で足りればいいんですけどね」
私は答えた。
足りない気がした。
---
裏工房へ運ぶ。
狭い。
天井が低い。
灯りも弱い。
でも、今ほしいのは清潔さより順番だった。
一人目はダレス。
市場の荷運び。
静穏水と睡眠補助の重ね。
いちばん先に沈み始めた。
二人目は果物売りの女。
三十代半ば。
喉の渇きが強い。
手の震えは細かく、でも視線はまだ速い。
軽い。
三人目は魚屋の見習い。
若い。二十を少し超えたくらい。
汗が多い。
息も速い。
でも、それ以上に言葉が多い。
「大丈夫なんで」
「俺、別に眠くないんで」
「ちょっと変なだけで――」
喋っているのに、目が合わない。
言葉だけが先に走って、身体の方が遅れている。
軽くはない。
でも、ダレスほど深く沈んではいない。
言葉がまだ前に出てくるぶん、中で止まりきっていない。
「順番つけるわ」
私は言った。
カイルがすぐに壁際へ下がる。
神官は、まだ何をしていいか分からない顔をしていた。
「名前」
私が言う。
「全員、名前と今朝飲んだもの」
果物売りの女が先に答える。
名前はサナ。
今朝、聖堂で静穏水だけ。
魚屋の見習いはレト。
静穏水に加えて、眠る粉も飲んでいる。
ダレスは、さっき聞いた通り両方だ。
「教授、紙」
私が手を出すと、教授はすぐに記録紙を差し出した。
もう罫線まで引いてある。
少しだけ腹が立つくらい、仕事が速い。
「軽・中・重の三列で」
私が言う。
教授は頷きもしない。
そのまま書く。
ダレス――重。
レト――中。
サナ――軽。
「何で俺が真ん中なんですか」
レトが言う。
声だけは元気だ。
「喋れるから大丈夫でしょ」
「喋ってる方が危ないの」
私は言った。
「沈みきる前は、妙に言葉が浮くことがあるから」
レトの口が止まる。
怖がらせたつもりはない。
でも、止まる方がいい。
自分の中の遅れに気づくには、そのくらいで十分だった。
「サナは水を少しずつ。
レトは覚醒液を半量。
ダレスはもう一度、でも間を空ける」
カイルが言う。
「俺は何すりゃいい」
「窓」
私は裏の小窓を指した。
「全開にはしない。半分だけ」
「風を通して、冷やしすぎない」
カイルはすぐに動いた。
木枠の固い窓を押し上げる。
昼の乾いた空気が、細く流れ込む。
「神官」
私は若い神官を見た。
「聖堂でまだ配ってる?」
神官の顔が引きつる。
「止めるよう言いました。でも、上が……」
「上じゃない」
私は遮る。
「今、現場で配ってる人間の名前」
神官は一瞬だけ固まった。
それから、自分の頭の中で順番を探す顔になる。
「……ヨアン、ミセル、あと南棟の補助三人」
「全員に伝えて。静穏水と睡眠補助は中止」
「代わりに、水を薄く。座らせる。眠らせない」
「でも、暴れる人が……」
「押さえつける前に呼びなさい」
私は言った。
「暴れるのは上がりかけてるからよ。沈んでるよりまし」
神官の目が揺れる。
「……はい」
小さかったが、今度はちゃんと届く返事だった。
「まだ行かないで」
私は続けた。
「ここ、見て覚えて」
神官は驚いた顔をした。
叱られると思っていたのだろう。
実際、半分は叱っている。
でも、怒鳴るだけでは間に合わない。
「目で覚えるの」
私はダレスの指先を示した。
「細かい震え」
「喉の渇き」
「静かすぎる倒れ方」
「眠そうなのに眠らない顔」
神官は息を止めるように見つめた。
その目の中で、ただの“具合の悪い人”だった像が、別の分類へ変わり始めていた。
遅いけれど、悪くない。
分類できるようになれば、次は少し早くなる。
---
ダレスの脈がまた少し上がってくる。
深い。
でも、さっきほどではない。
「レト」
私は魚屋の見習いに向かって言う。
「指、出して」
レトは素直に従った。
若い指だ。
でも、爪の根元だけが白い。
覚醒液を半量。
舌の上に落とす。
レトの肩が一瞬だけ跳ねた。
「苦っ」
「文句言えるなら大丈夫」
私が言うと、レトは顔をしかめたまま黙る。
サナは水を少しずつ飲んでいる。
飲み方は急いていない。
軽い人間ほど、自分でゆっくりできる。
それだけで分かることは多い。
「教授」
私は手を拭きながら言う。
「見える?」
教授はダレスではなく、レトを見ていた。
「若い方は、浮きが速い」
「ええ」
私は頷いた。
「沈む前に喋る量が多い」
教授が紙へ書く。
紙にペン先が触れる音が、小さく鳴る。
「前駆の過活動か」
「言い方は何でもいいです」
私は答えた。
「順番さえ合えば」
教授は少しだけ目を細めた。
反論しない。
それで十分だった。
「なら、軽症は市場で戻せる」
教授が言う。
「水と覚醒補助だけで?」
「今はね」
私はサナとレトを見た。
「でも、重ねた人は無理」
「一度深く沈んだら、工房か聖堂の奥で時間をかけて拾わないと落ちる」
教授はそこだけ、はっきり頷いた。
「線が見えた」
線が見えた。
市場で戻せる線。
裏工房まで運ぶ線。
もう遅い線。
分類は、救うために必要だ。
でも、分類した瞬間に切られる側も生まれる。
好きな作業ではない。でも、やる。
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表でまた音がした。
今度は倒れる音ではない。
揉めている声だ。
カイルが顔を上げる。
私も音を聞く。
「返せって言ってんだろ!」
「今、薬を止められたら困るんだよ!」
市場の声だ。
一人ではない。
二人、三人。
ざわめきも混じっている。
神官の顔が真っ白になる。
「……聖堂の列が崩れた」
小さく言った。
私は息を吐く。
やっぱり、と思った。
止めれば反発が出る。
出るのが早いだけ、まだ浅いとも言える。
「カイル」
「行く」
もう動いていた。
「待って」
私は短く言う。
カイルが振り返る。
その顔は、昔の方へ半歩だけ戻っていた。
押さえるより先に、殴って黙らせる方へ。
カイルは一瞬だけ自分の右手を見る。
拳になりかけていた指を、一本ずつ開いた。
「一人で前に出ないで」
私は言った。
「教授も行って」
教授が眉を上げる。
「私が?」
「理屈を言う人が要る」
私は答えた。
「カイルだけだと、今日は声が強すぎる」
カイルが露骨に嫌そうな顔をする。
「悪かったな」
「悪くないわ」
私は言う。
「強いのは正しい。でも、今は順番が先」
教授は少しだけ沈黙して、それから頷いた。
「理解した」
この人が素直に頷く時は、それはそれで少し怖い。
でも、今はそれを使う。
「私は裏を見る」
私は続ける。
「サナはあと一杯飲んだら休ませる」
「レトは喋らせる」
「ダレスはもう半刻見る」
神官が顔を上げる。
「私は」
「表へ」
私は言った。
「今やるべきことを、今のあなたの口で言いなさい」
「“善意で配った”じゃなくて、“今は止める”って」
神官の喉が鳴る。
怖いのだろう。
でも、ここで逃がすと次も逃げる。
「……はい」
今度は少しだけ強かった。
カイルと教授と神官が出ていく。
三人の足音が、表へ抜ける。
重い足。
乾いた足。
まだ迷いのある足。
残ったのは、私と三人の症例だった。
裏工房は狭い。
灯りも足りない。
棚板も軋む。
でも、今ここがいちばん静かに戻せる場所だった。
「ダレス」
私は名前を呼ぶ。
「まだ落ちる?」
ダレスはゆっくり目を開ける。
「……ちょっと」
「正直でよろしい」
そう言うと、口元が少しだけ動いた。
笑ったわけじゃない。
でも、沈んだままでは出ない動きだった。
表の声は、少しずつ遠のいていった。
怒鳴り声の角が削れ、ざわめきが低くなり、最後に人の波が散るような音だけが残った。
それでも、ここでは順番がある。
順番があるうちは、まだ戻せる。
私は新しい紙をもう一枚引き寄せた。
市場症例 二例目。
市場症例 三例目。
インクが紙に沈む。
一人では済まなかった。
そして、まだ終わっていなかった。
裏工房の蝋燭は、そのまま夜まで落とさなかった。
ダレスの脈を半刻ごとに確かめ、レトに魚の名前の続きを言わせ、サナに水を少しずつ飲ませた。
普通のことを、普通に繰り返した。
普通の繰り返しだけが、今は人を沈ませない手段だった。
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メーター:資金 市場対応で圧迫→通常販売の目減り開始/疑念 市場症例で実証→聖堂運用の破綻が表面化/執着 距離維持/支配 配分管理の運用化→臨時トリアージ体制の確立




