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市場症例


朝の商会は、昨日までより少しだけ客の顔をしていた。


帳場の前に二人。

外の荷受けに一人。

工房の棚には、昨日瓶へ移した煎じ薬が並んでいる。

庭の芽は窓からは見えない。

でも、朝の光が窓を通る角度で、そこにまだ静かなものが生きていることだけは分かった。


私は帳場の奥で、小さな包み紙を折っていた。

解熱薬。

喉の痛みを和らげる液。

軽い胃の重さを取る粉末。


どれも普通だ。

普通の薬は、普通に数が出る。

それが今はありがたかった。


「おい、数合ってるか」


表でカイルの声がした。

前みたいに怒鳴っていない。

でも、甘くもない。

返事をしないともう一度聞かれる声だった。


「合ってます!」


若い使いの声が裏返る。


「裏返ってんじゃねぇよ。……まあいい、次」


私は包みを折る手を止めずに、少しだけ耳を澄ました。

カイルはもう、客を追い払う声ではなくなっている。

通す声だ。

通すために低い。

そういう低さは、前よりずっとまともだった。


工房の机の端には、昨日の記録紙がまだ置いてある。


表面白化。

内部残存。

静穏剤で沈降傾向。

浄化光、治療ではなく殻化。

核は空白として保持される。


インクはもう乾いている。

乾いているのに、読むたびに少しだけ嫌な感じがした。

知ったから終わる種類の話ではない。

知ったことで、これから始まる話だった。


「エルマー、今日だよな」


帳場から戻ってきたカイルが言う。


「明日よ」


私は答えた。


「今日は聖堂を見に行く日」


カイルは露骨に嫌そうな顔をした。


「あいつが聖堂とか、ろくなことになんねぇな」


「ええ」


私は包みを一つ揃えた。


「でも、見てもらわないと困るの」


「困るのがもう嫌なんだけどな」


それで会話は終わった。


外では市場の音がしている。

荷車。

値切る声。

子どもの笑い声。

魚を捌く刃の音。

人がちゃんと生きている時の音だ。


だから、最初の異変に気づいたのは、音が途切れたからだった。


---


商会の前で、何かが落ちる音がした。


木箱ではない。

重さのある人間が、支えを失って石畳へ膝から落ちた音だ。


カイルが先に動く。

帳場の前を一歩で抜けて、表へ出る。

私はその後ろに続いた。


通りに、男が一人うずくまっていた。


年は四十前後。

市場の荷運びだろう。

肩が張っている。

腕も太い。

だが今は、その体が妙に静かだった。


静かすぎた。


苦しんでいる人間は、もっと散らかる。

息が荒れる。

肩が跳ねる。

喉が鳴る。

この男は違う。

膝をついたまま、両手だけが小さく震えている。

震えは小さい。

でも細かい。

細かすぎて、逆に目立った。


「おい」


カイルが声をかける。


男は顔を上げた。


目の焦点が遅い。

こちらを見るまでに、一拍ある。

でも、見えないわけじゃない。

見えている。届いている。ただ、奥から戻ってくるまでが遅い。


「立てるか」


カイルが腕を取ろうとする。


「触らないで」


私は先に言った。


カイルの手が止まる。


男の唇が少し開く。


「……水」


その一語だけが落ちた。


喉の渇き。

昨日の残滓と同じ場所を、声がなぞっていた。


私はしゃがみこんだ。

頬の色を見る。

汗は少ない。

熱も高くない。

でも、首筋の筋肉だけが妙に硬い。


「いつから」


私が訊く。


男は答えない。

答えようとして、少し遅れる。

その間に、周囲に人が集まり始める。


市場はこういう時だけ早い。

助けるためではない。

何が起きたかを確かめに来るために、人は足を止める。


「下がって」


私は言った。


「商会の前を空けて」


何人かはすぐに下がった。

何人かは下がらない。

カイルが一歩前に出る。

それだけで、残りも下がった。


「お前、聖堂行ったか」


カイルが低く訊く。


男の喉が鳴る。


「……昨日」


「何をもらった」


「白い……水と……眠る粉……」


私は息を吐いた。


やっぱり、と思った。


「工房に運ぶわ」


私が言った。


「カイル、肩を持って。頭は揺らさないで」


「触るなって言っただろ」


「今はいい」


短く返す。


「崩れる前に動かす」


その一言で、カイルの顔が変わった。

意味は分からなくても、時間がないことだけは分かった顔だ。


男を立たせる。

立てない。

脚に力が入らないのではない。

力を入れる順番が遅い。


「……眠い」


男が言う。


その声がまずかった。

眠い、ではない。

沈んでいる。


「寝かせないで」


私は言った。


「目を開けさせて」


カイルが男の頬を軽く叩く。

強くはない。

前のカイルならもっと乱暴だった。

今はちゃんと、起こすための力で叩いている。


「起きろ」


男の焦点が少しだけ戻る。


そのまま工房へ入れた。


---


工房の机を片づける。

反応板を脇へ。

普通の煎じ薬も脇へ。

男を椅子ではなく、床へ座らせる。

背を壁に預けさせる。


「水は?」


カイルが訊く。


「少しだけ」


私は答えた。


「一気に飲ませないで」


男の唇へ、水を少しだけつける。

飲み込む。

喉は動く。

でも、その動きが妙に遅い。


「名前」


私が訊く。


「……ダレス」


「仕事は」


「北市場の……荷運び」


そこで、男の指先が強く震えた。


来る。


私は硝子瓶を一つ取った。

普通の解熱薬じゃない。

強い苦味のある覚醒用の薄い液だ。

眠気を飛ばすためのものではない。

意識を上へ引くためのものだ。


「これ飲んで」


男は顔をしかめる。

それでも、飲ませる。


苦味は分かるらしい。

眉が寄る。

いい。

反応がある。


その瞬間、震えが一段だけ強くなる。


カイルが低く言う。


「悪くなってるぞ」


「違う」


私は男の瞼を指で見た。


「戻ってる」


瞳の揺れ方が変わる。

奥で沈んでいたものが、少しだけ上へ戻る時の揺れだ。


「ダレス」


もう一度名前を呼ぶ。


「今日、何を飲んだ」


男の喉が上下する。


「朝……聖堂でもう一杯……静かになるやつ……」


静穏剤を重ねた。

表面だけを静かにして、核をもっと奥へ押した。

そのまま市場へ返した。


「そりゃ倒れる」


カイルが吐き捨てる。


私は答えなかった。

怒るのはあとでいい。

今は手を動かす。


男の胸が少しだけ速くなる。

速くなったのは悪いことじゃない。

沈み切るよりはましだ。


「工房、少し開ける」


カイルが言う。


返事を待たずに窓を開ける。

乾いた風が入る。

薬草の匂いが少し薄くなる。


「ありがと」


私が言うと、カイルは嫌そうな顔だけした。


「後でな」


その言い方が、少しだけ良かった。


私は男の手首を取った。

脈は飛んでいない。

でも深い。

浅いところへ上がってこない。


「寝るな」


私は言う。


「返事して」


男は少しだけ首を動かした。


「……寝て、ない」


「嘘ね」


「うるせぇ……」


その返しが出るなら、まだ大丈夫だ。

少なくとも、完全には沈んでいない。


外で誰かが走る音がした。

次いで、慌てた声。


「聖堂からです!」


カイルが扉の方を見る。

私は男の脈を握ったまま言う。


「入れて」


若い神官が飛び込んできた。

顔色が悪い。

肩で息をしている。


「市場で、同じような人が二人……」


そこで、床のダレスを見て言葉が止まる。


「……こちらにも」


「来たわ」


私は答えた。


「昨日と今朝、何を配ったの」


神官の唇が白くなる。


「静穏水と、睡眠補助を……列が詰まっていたので、少しでも落ち着かせようと……」


その声には、言い訳より先に善意が残っていた。

だから余計に、まずかった。


「やめなさい」


その声は、自分でも思ったより冷たかった。


神官の肩が縮む。


「今すぐやめて。全部」


「でも、それを止めたら、列が――」


「列はいい」


私は遮った。


「沈める方がまずい」


神官は言い返せない。

言い返せないが、完全には分かっていない顔だった。


そこへ、また扉が鳴る。


一度。

乾いた、嫌に正確な音。


私は顔を上げた。


「早いわね」


扉の向こうへ向けて言う。


「明日じゃなかったんですか、教授」


扉が開く。


エルマー教授は、まったく息も乱さず立っていた。


「聖堂で記録を見た。その足で来た」


それだけ言う。


視線が最初に向かったのは床のダレス。

次に、神官の顔色。

そのあとで、私の手元。


「実症例が出たか」


その言い方が、やはり嫌だった。


でも正確だった。


「出たわ」


私は答えた。


「市場で一人。たぶん向こうで二人」


教授はすぐに神官を見る。


「静穏水を重ねたね」


神官が息を呑む。


「な、なぜ」


「君は“落ち着かせようと”と言った」


教授が言う。


「列が詰まっている時、それを選ぶなら重ねるしかない」


神官の顔から色が引く。


私は教授を見る。


「聖堂は?」


「記録は粗い」


教授は短く言う。


「だが、今朝から“静かすぎる患者”が増えている」


その言い方に、カイルが低く吐いた。


「最悪だな」


教授は頷かない。

代わりに、ダレスの指先を見る。


「外はまだ軽い」


「ええ」


私は答えた。


「だから今なら戻せる」


教授の目が少しだけ動く。


「戻す、か」


「表面を割らない範囲でね」


私は苦味の瓶をもう一度手に取った。


「眠らせない。静めすぎない。痛みは少し残す」


神官が顔をしかめる。


「そんな――」


「そうしないと沈む」


私は言った。


「治療じゃない。とりあえず沈ませない処置よ」


教授がそこで初めて、はっきり頷いた。


「応急としては正しい」


その肯定が、少しだけ面倒だった。

でも今は要る。


「カイル」


私が言う。


「市場へ行ける?」


カイルは即答した。


「行ける」


「神官と一緒に、向こうの二人を聖堂へ戻さず工房の裏へ」


「裏で足りるか」


「足りなくても詰める」


私が言うと、カイルの口元が少しだけ上がる。


「そういうの、嫌いじゃねぇ」


「知ってる」


カイルは神官の腕を軽く引いた。


「走れ」


神官は一瞬だけ教授を見て、それから私を見て、最後に頷いた。

ようやく、順番が分かった顔だった。


二人が出ていく。

扉が閉まる。

足音が遠ざかる。


工房には、私と教授とダレスだけが残った。


「普通の一日じゃなくなった」


教授が言う。


「ええ」


私は答えた。


「昨日までの理屈が、今日から症例になった」


教授は何も言わない。

何も言わないが、その沈黙は十分だった。


私はダレスの脈をもう一度見た。

さっきより少しだけ浅くなっている。

戻ってきている。


「教授」


「何だね」


「今日は手を貸してください」


教授の目が少しだけ細くなる。


「主導は君だろう」


「ええ」


私は頷いた。


「だから、使います」


その言い方に、教授の口元がわずかに動いた。

笑いではない。

でも、悪い顔ではなかった。


「了解した」


短い。


工房の火はもう落ちている。

普通の煎じ薬の瓶は棚に並んでいる。

庭の芽は見えない。

でも、そこにある。


その普通のものの真ん中へ、症例が来た。


もう戻れないのではない。

もう、隠しておけないのだ。


私は苦味の瓶を置き、次の紙を引き寄せた。

新しい記録紙だ。

見出しを書く。


市場症例 一例目。


インクが紙に沈む。


ダレスの脈は、少しずつ浅い方へ戻り始めていた。


ここから先は、もう理屈だけじゃ進まない。


---


メーター:資金 通常業務維持→市場対応で圧迫/疑念 原因構造の輪郭化→市場症例で実証/執着 共同観測開始→共同実地対応/支配 工房主導確保→現場主導へ拡張


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