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共同解析


朝の工房は、昨日の残滓をまだ机の中央に置いたままだった。


包みは小さい。

乾いている。

夜のあいだ、火を落とした工房の空気を吸って、昨日より少しだけ軽く見えた。


見えるだけだ。

軽くなったわけではない。


私は窓を少しだけ開け、朝の冷たい空気を入れた。

工房は新しい。

薬草の匂いはもう馴染み始めているが、まだ壁の方が勝っている。

だから、教授の言った通り、場を選ばないと負ける。


蒸留水。

銀針。

薄い硝子皿。

吸着布。

通常の解熱薬の希釈液。

聖堂で使われる浄化光の記録式を模した測定板。


順番に並べる。


「朝から嫌なもんばっかだな」


背後でカイルが言った。


振り返ると、扉の横に立っている。

今日は帳場ではなく、最初から工房にいる。

腕は組んでいない。

机に手をついてもいない。

ただ、立って見ている。

昨日より少しだけ、構え方が素直だった。


「普通の薬だけ見てると、普通の方が見えなくなるもの」


私は答えた。


「今日は嫌な方から片づけるわ」


カイルが鼻を鳴らす。


「教授、来るんだよな」


「来るでしょうね」


「来なかったら?」


「その時はその時よ。包みだけ開ける」


それで会話は切れた。

切れたまま、工房の中に朝の静けさが戻る。


外では誰かが荷車を止める音がした。

庭の芽は、きっともう光を受けている。

商会は開き始めている。

なのに、ここだけはまだ、昨日から少しも進んでいない場所みたいだった。


---


教授は、昨日言った通り日が高くなってから来た。


時間の幅がない。

遅れも早まりもない。

約束を守るというより、予測の範囲を崩さないために来る人間の足音だった。


扉が鳴る。

一度。

それだけ。


「入って」


私が言うと、扉が開く。


エルマー教授は昨日と同じ外套で立っていた。

違うのは手元だ。

革鞄を一つ持っている。

大きくはない。

だが、薬を入れる鞄ではなく、器具を入れる鞄の持ち方だった。


「準備がいい」


入って最初に言ったのがそれだった。


私は答えない。

褒め言葉ではない。

確認だ。

こちらがどこまで先を読んでいるか、その採点みたいなものだ。


教授は鞄を机の上へ置いた。

カイルが視線を落とす。

私も同じ場所を見る。


留め具が二つ。

擦れは少ない。

古いが、手入れはされている。

この人は道具の寿命を使い潰さない。

だから余計に厄介だ。


「開けても?」


私が訊く。


「どうぞ」


教授が言う。


私は自分では開けない。

カイルを見る。

カイルは少しだけ嫌そうな顔をしたが、何も言わず留め具を外した。


中には、布で巻かれた器具がきれいに収まっていた。


薄い鑷子。

細い管。

研磨された小匙。

反応板。

小型の光量計。

そして、学園で何度も見た、古い型の魔力偏差計。


私はその偏差計を見て、少しだけ喉の奥が冷えた。

知っている道具ほど、時々、新しい敵より面倒だ。


「懐かしいでしょう」


教授が言う。


「ええ」


私は短く答えた。


「嫌な意味で」


教授は何も言わなかった。

肯定もしない。

否定もしない。

その沈黙が、むしろ肯定より正確だった。


---


包みを中央へ置く。


「開けるわ」


私が言うと、教授は頷いた。


「こちらで」


教授が手を出しかける。

私は首を振る。


「私の工房です」


短く言う。


「私が開ける」


教授は手を引いた。

その引き方に、不満はない。

計測だけがある。

どこまで譲れば、こちらがどこまで譲るかを見ている。


包みを解く。


厚紙。

その下に薄布。

そのまた下に、小さな硝子片が二枚。

硝子の内側に、乾いたものが挟まっていた。


灰でもない。

粉でもない。

色は薄く濁った赤褐色。

だが赤と呼ぶには乾きすぎている。

血に似ているようで、血が一度光で焼かれた後の残りみたいだった。


カイルが息を潜める。

教授はもう偏差計を手に取っている。


「触れるな」


私が言うと、教授は目だけを上げた。


「まだ触れない」


「測るだけだよ」


「その測るが先なのよ」


私は硝子片を白布の上に置いた。

蒸留水を一滴落とす。

反応はない。

広がりもしない。

乾いたものは乾いたままだ。


銀針で、ごく端だけを削る。


削れた。

だが、粉にはならない。

薄い膜が、層になって剥がれる。


「……殻ね」


思わずそう言っていた。


教授の目が動く。


「そう見えるか」


「見えるわ」


私は剥がれた小片を硝子皿へ移した。


「残りじゃない。残滓でもない。削られた跡の方が近い」


カイルが眉を寄せる。


「どう違う」


「残ったんじゃないの」


私は皿を光に透かした。


「何かが剥がされて、その剥がされた面だけが乾いてる」


教授が偏差計を置いた。

声が少しだけ低くなる。


「続けて」


命令ではない。

でも、完全に依頼でもない。

見たいから先へ進めろという声だった。


私は普通の解熱薬を一滴だけ落とした。

何も起きない。

次に、浄化光の記録式を模した反応板の上へ小片を乗せる。

光を弱く流す。


小片の表面が、ほんの少しだけ白くなる。


それだけだ。


熱は出ない。

燃えない。

散らない。

白くなって、表面だけが静かに曇る。


「これよ」


私は言った。


「公開祈祷で起きていたのは」


教授が静かに問う。


「何が」


私は小片を針先で押した。

白くなった表面が、薄く剥がれる。

でも、その下にはまた同じ色がある。


「届いてないんじゃない」


針先を止める。


「届いてる。届いた分だけ、表面を削ってる」


工房が静まる。


カイルが一歩だけ近づいた。

教授は動かない。

動かないが、視線だけが鋭くなる。


「……熱と震えだけが落ちた」


教授が言う。


「ええ」


私は頷いた。


「表面だけ削れたからよ。だから苦痛は少し落ちる。でも、核は残る」


言ってから、浄化光をもう少しだけ強く流した。


今度は反応が変わる。

白く曇った表面が、ぱき、と細く割れた。

だが、その割れ目の中は空ではない。

鈍い赤褐色が、まだ詰まっている。


「中身がある」


カイルが低く言う。


「あるわ」


私は答えた。


「しかも、光が通ると外側だけ先に固まる」


教授の指が机の端を叩いた。

小さい音が二度。


「つまり」


教授が言う。


「聖堂の光は治療に失敗したのではなく、症状の殻を作った」


「そう」


私は短く返した。


「だから熱は引く。震えも落ちる。でも、そのせいで核はもっと奥に沈む」


カイルの顔が変わる。


「じゃあ、待ってた連中は」


「悪化するわけじゃない」


私は先に言った。


「そこまで単純じゃない。でも、治る方へも進まない」


そこは大事だった。

煽るための言葉は要らない。

正確さだけで十分ひどい。


教授が硝子片のもう一枚へ手を伸ばす。

今度は私も止めなかった。

鑷子で持ち上げ、反応板へ置く。

教授の手つきは正確だ。

正確すぎて腹が立つくらいに。


教授は今度、偏差計を近づけた。

針がわずかに振れる。

揺れは小さい。

だがゼロではない。


「古い依存の反応に似ている」


教授が言う。


「だが、完全には一致しない」


「当たり前よ」


私は答えた。


「これは薬そのものじゃないもの」


教授は偏差計を離さないまま、私を見る。


「では何だ」


私は少しだけ黙った。

言葉を選ぶ必要があった。


「空白よ」


やがて言う。


「身体の中に作られた空白。その縁だけが、光で削れて固まってる」


カイルが顔をしかめる。


「分かりづれぇ」


「喉が渇くでしょう」


私は彼を見る。


「何かを入れたくなる。でも、入れても埋まらない。埋まらない場所だけが残る」


そこで、カイルの表情が少しだけ止まった。

分かったのだろう。

言葉ではなく、顔で。


教授はその反応を見ていた。

見て、それを覚えた顔をした。

だから私はすぐに言う。


「今のは記録しないでください」


教授がわずかに眉を上げる。


「していないよ」


「嘘ね」


私は言った。


「頭の中ではした」


教授は否定しない。

否定しないことが、答えだった。


「条件は守っていただきます」


「守っている」


教授の声は乾いている。


「照合はしていない。今のは理解の補助だ」


「同じことです」


「違う」


教授が珍しく即答した。


「君はそこを混ぜる」


私は少しだけ笑った。


「教授はそこを分けすぎる」


工房に、ほんの短い沈黙が落ちた。


先に崩したのは教授の方だった。

口元が、ほんのわずかに動く。

笑いではない。

何かに近づいた時の顔だった。


今は必要だった。

それだけで十分だ。


---


午後の光が傾き始める頃、三つ目の試験で結論が一つ増えた。


普通の解熱薬では反応しない。

浄化光では表面だけが白く固まる。

睡眠補助の薄い粉では、わずかに内部の揺れが増す。


「沈むのね」


私は小さく言った。


「静かにすると、奥へ沈む」


教授が頷く。


「だから市場で爆ぜる」


カイルが嫌そうな顔をする。


「またそれかよ」


「現象の話だよ」


教授が言う。


「表面を静めるものが流通すればするほど、核は見えなくなる。見えなくなったまま、数だけ増える」


私は反応板の上の小片を見た。

白い。

乾いている。

もう、苦痛の形には見えない。

でも、中にある。


「聖堂の公開祈祷が失敗したのは、失敗としては正しかったのね」


私はそう言った。


カイルが眉を寄せる。


「何だそれ」


「成功していたら、もっと見えなくなっていた」


私は反応板から小片を外した。


「苦しんでいる人間だけ増えて、原因は沈む。そうなったら、今よりもっと遅かった」


教授は何も言わなかった。

反論しない。

それで十分だった。


「じゃあ、どうすんだ」


カイルが言う。


今度は教授ではなく、私に向けて。


「治す薬なんてあるのか」


工房が静かになる。


ない、とは言わなかった。

ある、とも言えなかった。


今ここで分かったのは、浄化光が駄目な理由だ。

まだ、治す方の式は見えていない。


「作るしかないわね」


私は答えた。


「少なくとも、今までの延長にはない」


教授がそこで初めて、明確に私を見た。


「それを君はここで作るつもりか」


「ええ」


私は頷いた。


「私の工房ですもの」


教授の目が細くなる。

評価だ。

またあの目だ。


「なら」


教授が言う。


「私は残滓を持ってくる。君は配分の現場を持っている。聖堂は失敗例を持っている」


カイルが低く割り込む。


「聖堂は入れねぇぞ」


「今はね」


教授が答える。


今は。

その二文字が嫌だった。

でも、未来の話をしている人間の言い方としては正確すぎた。


私は紙を一枚引き寄せた。

新しい記録紙。

試験の結果を書く。


表面白化。

内部残存。

静穏剤で沈降傾向。

浄化光、治療ではなく殻化。


最後の一行だけ、少し迷ってから書いた。


核は空白として保持される。


そこまで書いて、ペンを置く。


「今日はここまで」


私が言うと、教授は反対しなかった。


反対しないということは、十分だと判断したのだろう。

この人は、足りない時だけ長引かせる。

今日は足りたのだ。


教授は立ち上がる。

来た時と同じように無駄がない。


「明後日、また来る」


教授が言う。


「明日は」


「聖堂を見る」


短い。


私は少しだけ目を細めた。


「勝手ですね」


「役割分担だよ」


その言い方に、私は答えなかった。


教授は扉の前で一度だけ止まる。


「君の工房は、思ったよりも静かだ」


それだけ言って、出て行った。


褒めているのではない。

観測結果として言っている。


でも、その言葉が少しだけ嫌ではなかったのが、いちばん面倒だった。


扉が閉まる。


工房が静かになる。


カイルが長く息を吐いた。


「……最悪のじじいだな」


「ええ」


私は答えた。


「でも、使えるわ」


「それが一番最悪だよ」


私は少しだけ笑った。


机の上には、白く固まった小片がまだ残っていた。

昼の光はもう薄い。

庭は見えない。

でも、向こうで芽が生きていることは分かっている。


私は反応板を片づけ、残滓を小瓶へ移し替えた。

栓をする。

封を打つ。

棚の奥へ置く。


「今日はもう終わり」


私が言うと、カイルは頷いた。


「普通の薬、まだ残ってるぞ」


「ええ」


「そっちの方が先だな」


「そうね」


そう答えてから、私は小さく息を吐いた。


治す薬はまだない。

でも、普通の薬はある。

熱を少し下げる薬。

喉を少し楽にする薬。

眠れるようにする薬。


今はそれでいい。


それを作る手が、まだここにある。


工房の火を落とす。

薬草の匂いが戻る。

残滓の鈍い気配は、棚の奥に沈む。


今日は、まだ私の工房の方が勝っていた。


---


メーター:資金 運用継続→通常業務維持/疑念 知性脅威顕在化→原因構造の輪郭化/執着 観測対象化の気配→共同観測開始/支配 解析主導権争い→工房主導確保


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