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新生活の小さな幸福


朝の庭は、商会の中より少しだけ時間が遅かった。


土はまだ浅い。

掘り返したばかりの色をしている。

先週植えたばかりの鉢は、大きさも形もばらばらで、並べ方だけが妙にきれいだった。


しゃがんで、芽の先を見た。


薬草は、育つ時に音を立てない。

それがいい。

王都では、何かが育つ時には必ず別の音がした。

ここでは土の音しかしない。


指先で葉の端を確かめる。

まだ柔らかい。

売り物になるには早い。

でも、ちゃんと生きている。


「また見てるのか」


後ろからカイルの声がした。


振り返ると、片手に木箱、もう片手に朝の帳面を持っている。

髪が少しだけ跳ねていた。

起きてすぐ来た顔だ。


「見るわよ」


私は答えた。


「昨日と今日で、枯れてないかもしれないもの」


カイルが鼻を鳴らす。


「縁起でもねぇ言い方すんな」


「事実でしょう」


立ち上がった。

膝に土が少しついていた。


カイルは木箱を縁側へ置いた。

中には乾燥薬草と、包み紙と、まだ封の切られていない小瓶が並んでいる。


「今日の荷、午前のうちに見とくか」


「ええ」


そう答えてから、もう一度だけ庭を見た。


朝の光が、芽の先だけを薄く照らしていた。


……静かね。


胸の奥で、そう思った。

口には出さない。

出すには、まだ少し早かった。


---


工房は昼になると、庭より少しだけ現実に近づく。


火の音。

瓶を置く音。

秤の皿が傾く、金属の薄い音。

乾いた棚板に指が触れる音。

薬草を刻む刃が、まな板に落ちる音。


どの音にも用途がある。

用途のある音だけで満ちた場所は、考える必要がない。

手が先に動く。

手が動いている間は、頭が静かになる。


私は小さな鍋の前に立っていた。

煮ているのは禁忌の薬ではない。

発熱に効く、ごく普通の煎じ薬だ。

材料の名前は誰でも知っている。

分量も、煮る時間も、止めるべき温度も、教本の最初の方に載っている。

地味な薬だった。


そういうものを煮ている時の方が、手は穏やかだった。


鍋の中で液が緩やかに回っている。

色が少しずつ変わる。

薄い琥珀から、わずかに赤みを帯びた琥珀へ。


「それ、売れんの?」


帳場から戻ってきたカイルが訊いた。


「売れるわ」


私は鍋を見たまま答えた。


「生きる方の薬だもの」


カイルは少しだけ黙った。

それから棚にもたれて腕を組む。


「前は、そういうの作ってる顔じゃなかったな」


「前は、そういうの作る時間がなかったの」


私は火を少しだけ弱めた。


薬は派手じゃない。

でも、派手じゃないものの方が長く残る。

熱を少し下げる。

喉を少し楽にする。

眠れるようにする。

それだけのことのために、人はちゃんと金を払う。


そういう当たり前が、今はまだ少しだけ慣れなかった。


鍋の縁に細かい泡が立った。

香りが変わる。

ここで止める。


火を引いた。


「カイル」


「何だ」


「そっちの乾燥棚、左が湿ってる」


カイルが振り返って舌打ちした。


「またかよ」


「またよ」


「何でお前、見なくても分かんだよ」


「匂いで分かるもの」


「便利すぎんだろ」


そう言いながら、ちゃんと左の棚だけ開けた。


私はそれを見て、少しだけ口の端を緩めた。


カイルはすぐ気づいたらしい。


「だから笑うなって」


「笑ってないわ」


「笑ってる」


「前より、ずっと商会の人に見えると思っただけ」


「褒めてんのか、それ」


「ええ」


「やめろ、気持ち悪ぃ」


でも、声の角は丸かった。


---


昼過ぎ、郵便束が届いた。


商会宛。

アストラ商会宛。

商会長エリシア宛。

名前のない封。

王都の紋入り。

王家の紋なし。

聖堂の薄い封蝋。

貴族家の厚い紙。


束にすると、見た目だけは立派だった。


私は応接机の上へそれを置いた。

一本ずつ、封蝋と差出を見ていく。


カイルが横から覗き込む。


「また来たな」


「来るでしょうね」


「返すか?」


「返さない」


私は一本、また一本と分けていく。


今返しても、向こうは勝手に意味をつける。

受け取るだけ受け取って、必要なものだけ残し、いらないものは積む。

それで十分だ。


「殿下からは?」


「今日はないわ」


「聖堂は」


「ある」


薄い封を指で弾く。

中身はだいたい予想がつく。

供給の相談か、配分の確認か、そのどちらかだ。


「貴族家が多いな」


カイルが嫌そうに言う。


「今さら頭下げてくんのか」


「下げてないでしょうね」


私は束の上から三通を脇へ分けた。


「たぶん“相談”か“打診”よ」


「言い換え上手ぇな、連中」


「上手いのよ。昔から」


その言葉のあと、少しだけ手が止まる。


昔から。


そうだ。

私はその上手さを知っている。

頭を下げずに欲しいものを取ろうとする文面。

謝罪に見せかけて責任をぼかす言葉。

敬意に見せかけて支配へ戻す書き方。


知っている。

知っているから、もう引っかからない。


私は一番上の封を開けた。

案の定だった。


婉曲。丁寧。傲慢。三つ揃っている。


「どうだ」


カイルが訊く。


「いつも通りね」


私は紙を畳んだ。


「困った時だけ、言葉がきれいになる」


カイルが鼻で笑う。


「捨てろよ」


「あとで読むわ」


「何でだよ」


「敵が困ってる時の文章は、だいたい情報になるもの」


封を横へ置く。

読まないわけじゃない。

信じないだけだ。


束の一番下に、小さくて硬い封が混じっていた。


私の手が、そこでほんの少しだけ止まる。


「どうした」


カイルが言う。


私は答えず、その封を持ち上げた。

重さがほとんどない。

中の紙も一枚だろう。


封蝋を見る。

飾りはない。

紋もない。

ただ、押し方だけが無駄に正確だった。


見覚えがあった。


指先の温度が一瞬だけ変わる。

思い出した時の反応だった。


「……来るのね」


小さく言う。


カイルが顔をしかめる。


「誰だ」


私は封を裏返した。

差出はない。

でも、そんなものがなくても分かる。


「エルマーよ」


部屋の空気が少しだけ変わる。


カイルの顔から、さっきまでの丸さが消えた。

腕を組む。

目が細くなる。

嫌な予感に向く顔だった。


「エルマーか」


「ええ」


私は封を机に置いた。

まだ開けない。


開ければ、来る。

開けなくても、たぶん来る。

そういう人間だ。


「何の用だ」


「知性でしょうね」


私が言うと、カイルは露骨に嫌そうな顔をした。


「一番ろくでもねぇやつじゃねぇか」


「ええ」


私は頷いた。


「だから来るのよ」


外では、商会の前を荷車が一台通っていく音がした。

庭の芽は、きっとまだ静かに土の上にいる。

工房の鍋も、今日はちゃんと普通の薬を煮ている。


なのに、その小さな封だけが、もう別の部屋の空気を持っていた。


私は指先で封の端をなぞる。


まだ切らない。


「今日はやめとけ」


カイルが言う。


私は少しだけ考えて、それから頷いた。


「そうね」


今切っても、今日の静けさが減るだけだ。


封を一番奥へ置く。

王都からの相談の束より、聖堂の配分紙より、もっと奥へ。


でも、見えない場所には置かない。

見える場所の奥だ。

そういう置き方しかできない相手だった。


夕方の光が机の上で少しずつ薄くなる。

商会の中は静かだった。

でも、その静けさは朝のものとは違っていた。


影が届く前の静けさだった。


---


夜、封はまだ奥に置かれたままだった。


帳簿を閉じた。

蝋燭を一本だけ残した。

今日作った煎じ薬の瓶が、棚の上で静かに冷めている。

明日の朝に確認すればいい。


それだけで十分だった。


蝋燭が小さく弾けた。


私は灯りを消した。


---


メーター:資金 実務安定→基盤固め/疑念 運用信頼→外圧再接近/執着 距離維持/支配 配分管理の運用化


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