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前夜:追放を受ける準備


夜の工房は、もう隠れ場所の匂いがしなかった。


火。

紙。

硝子。

乾いた薬草。

それは今までと同じだ。

同じなのに、今夜だけは全部が“ここを畳むため”の匂いをしている。


終わる場所の匂いではない。

移す場所の匂いだ。


机の上には地図が二枚、重ねずに広げられていた。


王都周辺。

南東街道。

国境。

隣国側の川沿い。

小都市。

旧染色工房。

倉庫。

水場。

護衛交代地点。


線は細い。

細いが、迷いはなかった。

迷いがある線は途中で膨らむ。膨らまない線だけが、人を遠くへ運ぶ。


私は帳簿の最後の頁を閉じた。


カイルが机の端に寄りかかっている。

寄りかかっているが、力は抜けていない。

こういう夜のあの男は、だいたい半分しか座らない。いつでも動けるようにしているのではない。動かなくて済むように、先に全部見ておきたいだけだ。


「資金は」


私が言うと、カイルは短く答えた。


「表の分は三口。外貨二、銀一。隠し分は別。倉の仮契約は向こうで通る」


「通行証は」


「明日朝、二つ届く。名義は別。片方は商会。片方は護送」


私は頷いた。


護送。

綺麗な言葉だ。

追放と逃亡の中間みたいな顔をしている。国家はたいてい、汚いことほど中間の言葉で包む。


机の端へ指を置く。

冷たい。

冷たいものは、順番を間違えにくい。


「向こうの家は」


「寝台二つ。工房道具は最低限。水回りは生きてる。門は古いが、閉まる」


「閉まるなら十分」


そう言うと、カイルが少しだけ眉を寄せた。


「ほんと、そういうとこだよな」


「何が」


「普通、もうちょっと何かあるだろ。感傷とか」


私は地図の南東端へ目を落とした。


感傷。

便利なものだ。

便利だから、だいたい足を遅くする。


「追放は終わりじゃない」


私は静かに言った。


「移動よ」


カイルは何も言わなかった。

言わなかったが、その言葉を聞いた顔はした。


分かっているのだ。

今ここでやっているのは、国から捨てられる準備ではない。

国を置いていく準備だと。


---


帳簿の下には、もう一枚別の紙があった。


地図ではない。

資金でもない。

供給停止に関する確認だけが、短い項目で並んでいる紙だ。


切る場所。

止まる場所。

戻さない位置。

例外を作らない順番。


方法は書いていない。

方法まで書くと、紙が裏切る。

だから残すのは、順番だけだ。


私はその紙を指先で揃えた。


「最終確認するわ」


カイルが姿勢を起こす。


「今さら変えるなよ」


「変えないわ。確認するだけ」


私は項目を一つずつ目で追った。


上流向け。

停止。

中継ぎ。

再開条件なし。

旧印。

無効継続。

国外移行後、例外なし。


「明日、私は国の外に出る」


小さく言う。


「……それだけで十分」


カイルがそこで、ほんの少しだけ顔をしかめた。


「その“だけ”が重すぎんだよ」


「重いものほど、動いた時の音が大きいの」


「笑えねぇ」


「笑わせるつもりもないわ」


私は紙を折った。

二つに折って、さらに折る。

折る回数が増えるほど、内容は短くなる。短いものほど、人はたいてい忘れない。


「止まるのは、最初にどこだと思う」


そう訊くと、カイルはすぐに答えなかった。


考えているのではない。

考えなくても分かっていることを、口に出す順番だけ選んでいる顔だった。


「上だろ」


やがて言う。


「一番深く浸かってるとこから落ちる」


「ええ」


私は頷いた。


「上流から崩れる。上が倒れると、護衛が止まる。護衛が止まると、物流が止まる。物流が止まると、正義は急に遅くなる」


言いながら、自分でも少しだけ可笑しかった。


正義は速いように見える。

でも本当は、物流よりずっと遅い。

物が止まった国で、正義だけが走り続けた例を私は知らない。


「ルミナの光は」


カイルが低く言った。


「効かねぇと思うか」


「依存は構造よ」


私は答えた。


「奇跡は、人の都合より先に回ってる仕組みには届かない」


その言葉に、カイルは短く息を吐く。


「ひどいことしてるって自覚、あるか」


「あるわ」


私はすぐに言った。


「だから、順番だけは間違えないの」


そう言い切ったあとで、喉の奥だけが少し遅れて痛んだ。


それ以上は何も言わなかった。

言えば、今夜の空気が重くなりすぎる。

重くなりすぎた空気は、人を感傷へ押す。感傷へ押された人間は、明日の朝に余計なことをする。


余計が一番高い夜だった。


---


火を落としてからも、カイルはすぐには動かなかった。


工房の奥は暗い。

暗いが、棚の位置も、机の角も、歩数ももう全部覚えている。覚えている場所だけが、人を長く使う。


「お嬢様」


低い声だった。


「何」


「ほんとに……国、壊れるのか?」


私は振り向かなかった。


振り向くと、たぶん少しだけ情が混ざる。

情の混ざった返事は、この男にだけは効きすぎる。


「壊れるわ」


静かに言う。


「でも、私が壊すんじゃない」


暗い部屋の中で、カイルが息を止めたのが分かった。


「止まるだけよ」


私は続ける。


「止まって、そこで初めて壊れるものだけが壊れるの」


それが一番正しい言い方だった。


私が国を燃やすわけじゃない。

切るだけだ。

切られただけで壊れるなら、最初からその国は、ないと困るものを、ない前提でしか運営していないというだけだ。


「……やっぱり、お嬢様のそういうとこ、たまに怖ぇな」


カイルが言う。


私は小さく笑った。


「たまに?」


「今夜は特にだよ」


その言い方だけで少しだけ空気が緩む。

緩んだが、それで十分だった。


私は最後に、机の上の帳簿を布で覆った。

もう使わない帳簿ではない。

次の場所でも使う帳簿だ。

だからこそ、今夜は一度だけ隠しておく。


「明日は早いわ」


「知ってる」


「遅れないで」


「お嬢様に言われると腹立つな」


「そう」


「でも遅れねぇよ」


その返事は短い。

短い返事の方が、だいたい本気だ。


---


同じ頃、聖堂横の小会議室には、まだ灯りが残っていた。


皆はもう帰っている。

机の上には紙だけが並んでいる。

残っている紙ほど、その日の本当の仕事をよく覚えている。


ルミナは進行案を見下ろしていた。


卒業証書授与。

祝辞。

送辞。

答辞。

そのあとに差し込まれた、別の順番。


婚約破棄。

被害者証言。

署名の提示。

断罪。

学園内封鎖。


封鎖。

その言葉だけが、紙の上で妙に冷たく見えた。


ルミナは指先でその一行をなぞった。


「ここまで、やるのね……」


誰に向けた言葉でもない。

でも、自分の声で一度だけ聞いておかないと、明日うまく立てない気がした。


扉の外で小さな足音が止まる。


「ルミナ様」


取り巻きの一人だ。エミリアの声だった。


「まだ、お帰りにならないのですか」


「もう少しだけ」


ルミナは答えた。


「明日の順番を、もう一度だけ」


エミリアは中へ入ってこない。

その代わり、扉越しに小さく言う。


「皆、ルミナ様がいてくださるから安心しています」


安心。


その言葉に、ルミナは少しだけ目を伏せた。


安心しているのは、皆だけではない。

自分も、順番が決まっていると少しだけ安心する。

順番が決まっていれば、途中で立ち止まらずに済むからだ。


「明日で終わるわ」


そう言うと、エミリアはほっとしたような声を漏らした。


「はい」


その返事が、妙に幼く聞こえた。


終わる。

何が。

誰が。

そこまで言葉にしないから、人は自分の正義へ酔える。


ルミナは最後の紙を重ねた。


断罪の順番。

視線の流れ。

沈黙の置き場所。

群衆が最初に頷く瞬間。


全部、整っている。


「……さあ」


小さく言う。


「時間通りに終わらせましょう」


その言葉だけが、夜の会議室に長く残った。


---


部屋へ戻ると、礼装箱がもう開いていた。


手袋。

髪飾り。

靴。

予備のリボン。

明日のためのものが、綺麗に二組ずつ並んでいる。


リナが箱の蓋を支えていた。

顔を上げる。

何かを言いたい顔だ。

けれど侍女というものは、言いたいことほど布の下へ隠して覚える。


「確認だけです」


先にそう言った。


私は箱の前に立った。


白い手袋。

薄い絹。

淡い飾り。

いかにも、断罪される側の令嬢が最後に着るための綺麗さだった。


「丁寧ね」


そう言うと、リナの指先がほんの少しだけ揺れた。


「……学園の使いの方が、式のあとも残る可能性があると」


「ええ」


「お召し替えも必要かもしれないと」


私は一組の手袋を持ち上げた。


軽い。

軽いものは、時々ひどく重く見える。


婚約者という名前を脱がされる。

悪役令嬢という名前を着せられる。

着せられたまま、門の外へ出る。


「そう」


それだけ言う。


リナは目を伏せた。


「お嬢様」


珍しく、次の言葉が続いた。


「明日……」


明日。

その先を言わせるのは、少しだけ酷だと思った。


「泣かないわ」


私は言った。


リナの肩が揺れる。


泣きたいのは、この子の方かもしれない。

でも、そういう夜に侍女が主人より先に泣くのは、たいていあとで自分を責める。


「大丈夫」


そう続けると、リナは何も言えなくなった。


大丈夫。

便利な言葉だ。

本当に大丈夫な時は、あまり使わない。

でも今夜は、その便利さで十分だった。


私は手袋を箱へ戻した。


窓の外は、もう完全に夜だ。

夜なのに、静けさの底だけが前夜の形をしている。


明日、婚約は切られる。

断罪も来る。

追放も来る。

その先に国境がある。


全部、もう予定ではない。

全部、人の手の中で現実の段取りになった。


私は机の端へ指を置いた。


冷たい。

それで少しだけ安心した。


「始まるわね」


小さく言う。


誰に向けた言葉でもなかった。


けれど部屋の空気は、少しだけ張った。

夜に落ちた言葉は、たいていすぐには消えない。


---


メーター:資金 国家級/疑念 逮捕可能/執着 破滅的/支配 国家依存


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