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物証が揃う:公開摘発


昼の王城は、机の上から先に冷えていた。


人が冷たいのではない。

紙が冷たいのだ。

紙は感情を持たない。だから一度並ぶと、人の言い訳より先に結論の形を作る。


アルベルトの執務机には、紙が四列に並んでいた。


追跡ログ。

残滓検分。

素材流通。

購買記録。


一枚なら偶然で済む。

二枚なら疑念になる。

三枚で、人は「たぶんそうだ」と言い始める。

四枚並ぶと、もう逆に信じない方へ意思が要る。


ルーカスが最後の紙を置いた。


「南区の件、追補です」


短い一言だった。

だが、その一言で机の上の冷たさはまた少し増した。


アルベルトは視線を落とした。


追跡魔道具の反応地点。

学園外縁。

旧実験棟周辺。

川沿い倉庫。

セルダ商会の仕入れ線。

そして、貴族街で拾われた残り香の記録。


点は散っている。

散っているのに、散り方が同じだった。

無秩序ではなく、意図してばらけさせた線の散り方だ。


「……近いな」


小さく言う。


ルーカスは答えなかった。

答えなくても、答えは机の上に出ている。


そこで扉が叩かれた。


「入れ」


エルマー教授が入ってくる。


学園の外では、この男はいつも少しだけ異物に見える。

王城にいるのに、王城の論理で動いていない顔だからだ。


教授は礼を簡単に済ませると、机の上の紙を見た。

見るだけで、並び順まで一息で把握したのが分かる目だった。


「増えましたね」


アルベルトは頷く。


教授は追跡ログを見て、残滓へ目を移し、素材流通で止まり、最後に購買記録の端へ指先を置いた。

その順番が嫌だった。

嫌だが、正しい。


「かなり近い」


教授が言う。


「追跡ログが行動範囲を示している。残滓が製造の癖を示している。素材の流れが供給線を示している。購買記録が隠し方の限界を示している」


灰色の目が、最後に一枚の紙で止まった。


「そして、九十九・一」


部屋が静かになる。


ルーカスがわずかに視線を上げる。

彼はその数字の意味を、完全には分かっていない。

だが、それがこの話の核に近いことだけは知っている顔だった。


「署名ではありません」


教授は静かに言った。


「癖です。だから、隠しても残る」


その一言で、机の上の四列が急に人の形を帯びる。


名はない。

顔もない。

けれど、もう“誰か”ではない。

捕まえられる相手としての輪郭が、紙の上へ浮いている。


ルーカスが低く言う。


「法的には、もう十分です」


アルベルトは机に手をついた。


捕まえられる。

そこまで来た。


そこまで来たはずなのに、胸の奥では別のものが同じ重さで動いていた。


「殿下」


ルーカスが言う。


「これで、逮捕命令を出せます」


アルベルトはすぐには頷かなかった。


逮捕できる。

断罪できる。

摘発できる。


全部、正しい。

全部、前へ進める。

前へ進めるのに、胸のどこかだけが、そこで止まりたがる。


教授がそれを見ていた。


観察する目だ。

慰めるでもなく、急かすでもなく、人がどこで止まるかだけを見る目。


「ためらいますか」


その問いは失礼ではなかった。

だが優しくもなかった。


アルベルトは教授を見た。


「ためらうように見えるか」


教授は少しだけ首を傾けた。


「見えます」


正直な男だった。


「捕まえたいのでしょう」


教授は言う。


「同時に、捕まえたくない」


ルーカスが息を潜める。

部屋の空気が、そこで一段だけ薄く張った。


アルベルトは笑わなかった。

笑えなかった。


図星だったからだ。


《グレン》を捕まえたい。

違法薬を止めたい。

婚約者エリシアを切りたい。

学園の秩序を守りたい。


その正しさの束の中へ、もう一つ別の感情が混ざっている。

会いたい。

理解したい。

失いたくない。

そんなものは、王太子が持つにはあまりに醜い。


「口を慎め」


低く言うと、教授は肩をすくめた。


「失礼」


そう言った。

だが、本気で失礼だと思っていない顔だった。


この男は知っている。

正しさだけで動いている人間の目では、もうアルベルトが《グレン》を見ていないことを。


アルベルトは視線を落とした。


机の上の紙。

追跡ログ。

残滓。

素材。

購買記録。

九十九・一。


全部が揃っている。

揃っているのに、まだ足りない気がする。


何が足りないのかは、もう分かっていた。


紙ではなく、本人の声。

結果ではなく、理由。

なぜその順番で切るのか。

なぜ人を捨てても流れは捨てないのか。


そんなものを知ったところで、何も軽くならない。

軽くならないどころか、もっと壊れるだけだ。


分かっている。

分かっているのに、欲しい。


「殿下」


ルーカスが慎重に声を置く。


「卒業式の進行案は、もう学園側へ通っています。被害者証言も。婚約破棄の段取りも。公開摘発と重ねるなら、今日ここで確定させる必要があります」


今日ここで。

それが現実だ。


アルベルトは目を閉じた。


卒業式。

壇上。

群衆。

聖女。

婚約者。

被害者。

捜索隊。


全部がもう、止めない前提で並んでいる。


自分だけが揺れている。

揺れたまま、決定だけは下さなければならない。


その時、教授がもう一枚の紙を机へ置いた。


短い検分書だった。


**偽造品との差異一覧

本物残滓との一致項目:三

流通線の重複:二

署名値近似:一

総合判断:製造者同一圏内**


ルーカスが眉をひそめる。


「同一圏内」


教授は頷いた。


「“同一人物”と断定するには、もう一歩要ります。ですが、“逮捕し、押収し、学園周辺を洗う”には十分です」


それでよかった。


完全な確定ではない。

だが、正義が動くには十分な曖昧さだ。

曖昧だからこそ、政治は前へ進める。


アルベルトはその紙を見たまま、小さく言った。


「……十分だ」


ルーカスがすぐに応じる。


「では」


「いや」


アルベルトは顔を上げた。


「順番を変える」


ルーカスが黙る。

教授だけが、少しだけ目を細めた。


「摘発を先にすると、学園が騒ぐ。逃げ道が増える。証言も散る」


アルベルトは静かに言った。


「断罪を先に置く」


その一言で、部屋の温度が決まる。


「婚約破棄。公開糾弾。被害者証言。そこで空気を固定する」


机の上の式次第を引き寄せる。

卒業証書授与。

祝辞。

送辞。

答辞。

その余白に、もう一つ別の儀式を差し込む。


「直後に摘発だ」


ルーカスが頷いた。


「学園ごと閉じるのですね」


「ええ」


アルベルトは言う。


「出ていく道をなくしてから、探す」


残酷な順番だと思った。

だが今は、それが一番正しい。


正しいからこそ、胸の奥が少しだけ痛い。


教授が静かに言う。


「公にしますか」


アルベルトは少しだけ黙ってから、頷いた。


「する」


声は低かった。

低いが、もう揺れていない。


「公開摘発だ」


ルーカスがそれを聞き、初めて小さく息を吐いた。

待っていたのだろう。

王太子の中で“決定”が言葉になるのを。


「なら、学園側には壇上の順と証言の時刻だけを」


「任せる」


「捜索隊は」


「式の最中は外で待機。婚約破棄の宣告が終わった瞬間、動かせ」


ルーカスは一礼した。


「承知しました」


扉へ向かう。

だが、その前に一度だけ止まる。


「殿下」


アルベルトは答えない。


「……本当に、これで」


最後まで言わせなかった。


「これでいい」


静かに言った。


その返事は、ルーカスのためではない。

自分へ向けた確認だった。


これでいい。

婚約を切る。

悪役令嬢として断罪する。

公開摘発で《グレン》を追い込む。


そうしなければ、もう自分の中の線が保てない。


ルーカスは出ていく。

扉が閉まる。

部屋はまた静かになる。


教授だけが残った。


残って、机の上の紙を見る。

その視線には、同情も軽蔑もない。

ただ、危ういものがいよいよ形を取った時の、知性の冷えた関心だけがある。


「先生」


アルベルトが言う。


「何です」


「お前は、どう思う」


珍しい問いだった。

王太子が他人へ、判断ではなく感想を求めることは少ない。


教授は少しだけ考えた。


そして、乾いた声で言う。


「正しいと思います」


アルベルトは目を伏せた。


「ですが」


教授は続ける。


「正しいことと、壊れないことは別です」


その一言が、机の上のどの紙よりも重く落ちた。


アルベルトは小さく笑った。

笑いというより、息に近い音だった。


「そうだろうな」


窓の外は、もう夕方へ傾きかけている。

卒業式まで、もう時間がない。


王城。

学園。

商会。

闇の流通。

全部が、一つの日へ向かって縮んでいく。


アルベルトは式次第の余白へ、自分で一行だけ書いた。


**公開摘発、断罪当日。**


文字は乱れなかった。

乱れなかったことが、ひどく気持ち悪い。


それでも書く。

書いてしまえば、もう戻れない。


「卒業式で」


アルベルトは低く言う。


誰に向けた言葉でもない。

部屋に残る紙へ向けた言葉だった。


「終わらせる」


その声は、38話の朝よりさらに冷たかった。

冷たいのに、底だけは熱い。


正義はもう整った。

恋に似たものも、もう止まらない。


だから、同じ刃にするしかない。


---


夕方、学園から戻ると、部屋の空気が少しだけ違っていた。


窓が開いているわけではない。

香が焚かれているわけでもない。

それでも分かる。人の出入りが多かった日の部屋には、整えた手つきの残り香がある。


侍女のリナが、礼装箱を開けていた。


「何をしているの」


そう訊くと、リナの肩がほんの少しだけ揺れた。


「卒業式のお支度です」


声はいつも通りだった。

だが、箱の中はいつも通りではなかった。


手袋。

髪飾り。

靴。

予備のリボン。

全部が二組ずつ揃えてある。


「随分、丁寧ね」


リナは目を伏せた。


「……本日、学園から使いの方がいらして」


私は黙って続きを待った。


「式のあとも、そのまま残る可能性があるそうです。お召し替えのご準備を、と」


それだけで十分だった。


式のあとも残る。

ただの卒業式で、そんな言い方はしない。


私は箱の中を見た。


白い手袋の布が、妙に冷たく見える。

冷たいのは布ではない。

布の先にある段取りだ。


「そう」


それだけ言う。


リナは何も言わなかった。

言えないのだろう。

もう屋敷の侍女にまで、式当日がただの式ではないことは届いている。


私は窓の外を見た。


空はまだ明るい。

明るいが、もう夕方の終わり方をしている色だった。


卒業式。

壇上。

婚約破棄。

断罪。

摘発。


全部が、もう遠い予定ではない。

人の手の中で現実の段取りに変わっている。


私は机の端へ指を置いた。


冷たい。

それで、少しだけ安心した。


「始まるわね」


小さく言う。


誰に向けた言葉でもなかった。


リナは顔を上げなかった。

礼装箱の布だけを、静かに整えている。


部屋は静かだった。

静かだが、もう前夜の静けさをしていた。


---


メーター:資金 特大→国家級/疑念 臨界→逮捕可能/執着 破滅的/支配 極大→国家依存


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