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救われたと勘違い


夜の南区外れは、火が見える前から危ない匂いがした。


焦げではない。

焦げる前の匂いだ。

油。乾いた木。漏れたアルコール。人が慌てている時ほど、燃えるものは先に匂う。


アルベルトは倉庫向かいの空き家二階で、まだ窓際に立っていた。


兵は中央へ寄った。

東も洗っている。

荷車は空だった。

匂いは撒かれた。

旧護衛線の目撃も、半歩ずれていた。


罠を張った側が、罠の外へ押し出される。

最悪の形だった。


「殿下」


捜査官が息を切らして戻る。


「倉庫裏手で火の手が――」


その一言で、外の空気が変わった。


変わると分かる。

兵の足音の向きが、一斉に中央から裏へ流れるからだ。流れる時、人は自分が何を追っていたかをすぐ忘れる。


アルベルトは窓から身を乗り出した。


見えたのは、倉庫の奥側だった。

黒い壁の継ぎ目から、細い橙が覗いている。まだ大きくはない。小さいが、小さい火の方が危ない。気づいた時にはもう、燃える順番が決まっているからだ。


「どこだ」


「裏手三番庫です。人影が走ったと――」


捜査官の声に、別の叫びが重なった。


「火が回る! 桶を!」


路地が一気に騒がしくなる。


兵が走る。

桶が鳴る。

誰かが転ぶ。

誰かが怒鳴る。


そして、広い場所はこういう時に一番、人を殺しやすい。

視線が一つへ集まるからだ。集まった視線の外側で、二つ目の火種が勝手に育つ。


「殿下、危険です!」


ルーカスが鋭く言った。


「ここを下がってください。この家ごと火が回る可能性があります!」


アルベルトは動かなかった。


火がどこへ回るかを見る。

それが先だった。


倉庫裏手三番庫。

その位置であの色なら、ただの木箱ではない。

酒か、薬液か、染料原液か。いずれにしても火が移れば、燃えるだけでは済まない。


「誰が使っていた」


アルベルトが問う。


「未確認です!」


その答えを聞いた瞬間、腹の底が冷えた。


未確認。

つまり罠の外に、本物の流れがまだあったということだ。

自分は見せられた荷車へ寄り、見えていない火薬庫を見落としていた。


「兵を引け!」


そう命じた時には、もう遅かった。


倉庫裏手で二度目の揺れが起きる。

爆発ではない。

だが、爆発の手前で物が崩れる音だった。棚か、梁か、積み上げた箱か。崩れたものはたいてい、次の火の道になる。


空き家の一階からも、誰かが叫ぶ。


「火がこっちへ!」


ルーカスがアルベルトの腕を取ろうとする。

アルベルトはそれを払い、階段の方へ向かった。


「殿下!」


「下だ。路地へ出る」


「危険です!」


危険なのは分かっていた。

分かっているのに、身体は前へ出る。

前へ出る理由が正義なのか、焦りなのか、もう自分でも分からない。


階段を下りる。

一階の戸口まで来た時、外の空気が一段だけ熱くなった。


路地が、火と人で詰まっていた。


桶を持った兵。

逃げる人足。

横倒しになりかけた荷車。

そして、その荷車の向こうで、もう一つ別の流れが動いている。


水だ。


細い水ではない。

樽を積んだ水売りの車が二台、路地へ無理やりねじ込まれてくる。夜のこの時間に、水売りがこんな場所へ来るはずがない。


「誰の指図だ!」


捜査官が怒鳴る。


水売りは答えない。

答えないまま、一台が倉庫裏へ、もう一台が空き家の横へ回る。迷いがない。道をよく知っている動きだった。


「どけ!」


兵が怒鳴る。

だが、水売りの一人が先に叫んだ。


「三番庫を捨てろ! 西壁だけ冷やせ!」


その一声で、アルベルトの足が止まる。


命令の内容ではない。

命令の組み立て方だ。


三番庫は捨てる。

全部を救うな。

西壁だけ冷やせ。

空き家側へ回る火だけ止めろ。


犠牲を前提に、燃える順番だけを切る。

その発想をする人間を、アルベルトは一人しか知らなかった。


「……誰だ」


小さく漏れた声は、自分にも聞こえないくらいだった。


水はすぐには火を消さない。

だが、止める位置だけは変える。


兵たちは一瞬だけ迷った。

迷ったが、その迷いのあいだに、火はもう西へ這い始めている。ルーカスが先に叫ぶ。


「西壁だ! そっちを落とすな!」


命令が上書きされる。


桶が走る。

水が飛ぶ。

蒸気が上がる。

火は死なない。

だが、進む向きだけが少しずつ鈍る。


そのあいだに、水売りの片方が空き家横の路地へ入った。

荷車の車輪が石を削る。

狭い路地に無理やり車体を差し込み、そこへ残っていた木箱を押し倒す。


「何をしている!」


捜査官が怒鳴る。

水売りは振り返りもしない。


倒れた木箱が路地を塞ぐ。

塞いだところへ、二台目の水車がそのまま横づけされる。


アルベルトはそこで分かった。


逃げ道を作っているのではない。

火の道を切っているのだ。

この空き家まで火が走れば、ここにいる自分ごと包囲線が崩れる。その一歩手前で、進む向きだけを折っている。


誰が命じた。

考えるより先に、答えはもう胸の中へ来ていた。


水売りの背は見えない。

顔も分からない。

《グレン》本人であるはずもない。


それでも、その一手はあまりにもよく似ていた。


死なせない。

全部ではなく、必要なところだけを。

しかも、それを“救うため”ではなく、“崩さないため”にやる。


アルベルトの喉が、ひどく乾いた。


火はなお鳴っている。

兵はなお走っている。

危険はまだ去っていない。


それなのに、胸の奥のどこかだけが先に理解してしまった。


救われた。


そう思った瞬間、自分で自分を殴りたくなった。


敵だ。

敵のはずだ。

今夜、自分の包囲を笑いながらずらした側だ。


それなのに。


「殿下、こちらへ!」


ルーカスが腕を引く。


アルベルトはようやく一歩下がった。

火は西壁で止まりきらない。

だが、ここまで来れば倉庫全体は落ちない。空き家も崩れない。最悪の広がり方だけが、もう切られている。


「……殿下?」


捜査官が息を乱したまま訊く。


「どうします」


アルベルトは水売りの消えた路地を見た。


そこにはもう誰もいない。

水車だけが置かれ、桶だけが残り、命令だけが現場へ落ちている。


本人は来ていない。

だが、手だけが来ていた。


敵なのに。

敵であるはずなのに。


「消火を優先しろ」


アルベルトが低く言う。


「包囲は縮めるな。……死者を出すな」


その最後の一言が、自分の声とは思えなかった。


死者を出すな。

たった今、自分の頭の中へ落ちてきた順番そのままだったからだ。


ルーカスが一瞬だけアルベルトを見る。

見たが、何も言わない。


賢かった。


---


夜更け、商会の奥で私は水売りの報せを聞いた。


カイルは椅子へ深くは座らなかった。

座る余裕はある。

だが、今夜の空気はまだ立ったままの方が早いと知っている顔だった。


「どうだった」


私が問うと、カイルは短く言った。


「生きた」


それだけで十分だった。


「倉庫は?」


「半分焼けた。三番庫は捨てた。西は止まった」


私は小さく頷いた。


三番庫は最初から切る場所だった。

全部を守ろうとすると、全部が燃える。

一つ捨てて、二つ残す。その順番を知らない人間は、正義でも消火でもすぐ足を踏み外す。


「王太子は」


「いた」


カイルが言う。


「窓際じゃなく、下まで出た」


少しだけ喉の奥が乾いた。


「危なかった?」


「一歩違えば、な」


それで十分だと思った。

十分で、少しだけ嫌だった。


「死んだら困るもの」


私が言うと、カイルは顔をしかめる。


「お嬢様、その言い方、たぶん本人が聞いたら勘違いするぞ」


「聞こえないところで言ってるわ」


「でも、結果は聞こえる」


そこは正しかった。


私は机の上の紙を一枚引いた。

教授の表。

受渡し。確認。停止。

今夜使ったのは、その一番冷たい部分だけだ。


「火が回れば、南区の流れが二日止まる」


私は紙を折りながら言った。


「兵が死ねば、摘発は強権化する。王太子が死ねば、それこそ全部が雑になる」


カイルが壁に肩を預ける。


「だから助けた」


「助けてないわ」


私は顔を上げた。


「損を避けただけ」


それが本当だった。


王太子を救いたかったわけじゃない。

正義を守りたかったわけでもない。

国家のためでもない。


流れが雑に壊れるのが、今は一番困る。

だから止めた。

止めた結果、あの場にいた人間が生きた。それだけだ。


「でも向こうは、そう思わねぇぞ」


カイルが低く言う。


私は返事をしなかった。


返事をしなくても分かる。

あの王太子は、もう罠の勝ち負けだけで相手を見ていない。そこへ“救われた形”が重なれば、面倒な方へ転ぶ。


「……厄介ね」


ようやくそう言うと、カイルが鼻で笑った。


「今さらだな」


今さらだった。


私は火を見た。

火は小さい。

小さいが、消えていない。


止めただけ。

切っただけ。

損を避けただけ。


そのはずなのに、今夜の結果は、向こうの中で別の意味に化ける。そういう予感だけは、妙にはっきりしていた。


---


明け方の王城は、夜より静かだった。


静かなのに、眠ってはいない。

灯りは残っている。

紙も残っている。

眠れなかった人間だけが、その間に座っている。


アルベルトは執務机の前にいた。


上着は脱いでいる。

襟元も少しだけ乱れている。

だが顔だけは、妙に静かだった。


ルーカスが入ってくる。


「南区の火は収まりました」


「死者は」


「なし」


アルベルトはそこで、ほんの僅かに目を閉じた。


死者なし。

その四文字が、今夜ずっと胸の奥で鳴っていた音に、名前を与えた。


もしあの水車が入らなければ。

もし西壁が切られなければ。

もし自分が一歩遅れていれば。


考えたくもない。

考えたくないのに、今はそこしか考えられない。


ルーカスが慎重に言う。


「……何者かが、こちらの消火線へ手を入れています」


何者か。

その言い方に、アルベルトは小さく笑いそうになった。


何者か、ではない。

自分はもう、誰の手だったかを知っている。証拠はない。名もない。だが、順番だけがあまりにもよく似ていた。


「《グレン》だ」


そう言うと、ルーカスは顔を上げた。


「断定を?」


「する」


アルベルトは静かに言った。


「本人がいたかどうかはどうでもいい」


窓の外はもう少しで朝だ。

空の色だけが薄くなっている。


「私を……いや」


そこまで言って、アルベルトは口を閉じた。


私を救った。

そう言いかけた。

その言葉の形が、自分でも理解できないほど甘く見えたから、途中で止めた。


ルーカスは何も言わない。

その沈黙が、今はありがたかった。


アルベルトは机に手をついた。


敵だ。

敵のはずだ。

捕まえるべき相手だ。

婚約者を切ることも、違法薬を追うことも、学園を守ることも変わらない。


それでも、今夜ひとつだけ、もう誤魔化せないことがあった。


《グレン》を追っている時だけ、世界の輪郭が妙に鮮明になる。

怒りも、正義も、執着も、全部が同じ方向へ立ち上がる。


そして、その相手に結果として救われた。

そんなものは、心を壊すに決まっている。


「殿下」


ルーカスが低く言う。


「卒業式の件ですが」


アルベルトは顔を上げた。


卒業式。

壇上。

婚約破棄。

被害者証言。

断罪。

摘発。


全部がもう整っている。

整っているから、今さら止める理由はない。

むしろ逆だ。


表の婚約を切る。

悪役令嬢として処理する。

断罪と摘発を同日に重ねる。


そうしなければ、この混ざり始めた感情に、自分の方が呑まれると分かってしまった。


「やる」


アルベルトが言う。


声は静かだった。

静かだが、前より深いところで決まっている。


「婚約破棄も、断罪も、摘発も」


ルーカスが一礼する。


「承知しました」


アルベルトは机の端の紙を引き寄せた。


卒業式当日の進行。

その余白に、自分で短く一行だけ足す。


婚約破棄、確定。


文字は乱れなかった。

乱れなかったことが、少しだけ気持ち悪い。


《グレン》を追う。

《グレン》に会いたい。

《グレン》に救われたと、どこかで思ってしまった。


だから、表の婚約者は切る。

切って、断罪する。

そうしないと、もう自分の立ち位置が保てない。


その発想が、自分で嫌になるほど綺麗だった。


「卒業式で」


アルベルトは低く言う。


「終わらせる」


その言葉は、36話の決意よりも冷たかった。

冷たいのに、底だけは熱い。


正義と、まだ名前のつかないものが、ようやく同じ刃の形を取り始めていた。


---


メーター:資金 特大/疑念 臨界/執着 極大→破滅的/支配 極大


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