罠:《グレン》を誘き出す
昼の王城は、紙の音で動いていた。
扉の開閉。
印章の打音。
書類を渡す手。
兵を動かす前に、まず紙が走る。国家というものは、だいたいそういう順番でしか人を追えない。
アルベルトは執務机の前に立っていた。
座っていない。
座ると、これはただの命令になる。
立ったまま書く命令は、自分でも少し危ないと分かっている時の姿勢だ。
机の上には白紙が三枚。
一枚目。
押収品移送の予定書。
二枚目。
没収薬物の再鑑定要請。
三枚目。
南区外れ倉庫での大型取引情報。
全部、嘘だった。
嘘だが、形だけは本物にする。
雑な嘘は、相手ではなく味方から崩れるからだ。
ルーカスが低く言う。
「本当に流しますか」
アルベルトは筆を止めなかった。
「流す」
「三本とも?」
「ええ」
ルーカスが一拍だけ黙る。
「押収品の移送。再鑑定。大型取引。どれが餌です?」
アルベルトはそこで初めて顔を上げた。
「全部だ」
静かな声だった。
「《グレン》が人なら、人を拾う。商人なら、金を拾う。職人なら、物証を拾う。……だが、あれは違う」
その一語だけ、少し低くなる。
「流れを拾う」
ルーカスは何も言わなかった。
言わないが、分かった顔はした。
アルベルトは続ける。
「一本だけなら切れる。二本でも読める。だが三本を同時に動かせば、どこかで必ず“守る順番”が出る」
それが知りたいのだ。
相手の名ではない。
相手の優先順位だ。
筆先が走る。
押収品は、明夜、南区外れ倉庫へ一時移送。
再鑑定立会いあり。
護衛は最小。
最小。
そんなことはない。
実際には倍だ。
見える人数だけを減らす。
「撒け」
アルベルトが言った。
「表へは半分。裏へは半分。辻褄の合う位置にだけ落とせ」
ルーカスが紙を受け取る。
「《グレン》が読んだら」
「来る」
アルベルトは言い切った。
「本人が来なくてもいい。あれが守るものが動く」
その声には、尋問の時よりも確信があった。
確信は理屈から来ている。
来ているのに、どこか熱を持っている。
ルーカスはそれを聞いた。
聞いたが、触れない。
触れない方が今は賢い。
「現場は」
「南区外れ倉庫。周辺三街区を薄く囲う」
「薄く?」
「厚い包囲は、来る前に気づかれる」
アルベルトは最後の紙へ目を落とした。
「見せるのは隙だ。閉じるのは後でいい」
ルーカスが頷く。
「承知しました」
アルベルトは窓の外を見た。
王都は昼だった。
人が動いている。
荷車も、商人も、兵も、学生も。
その全部が、流れになっている。
乱せ。
そう書いたのは自分だ。
なら次は、その乱れ方を見る。
「……今度こそ」
小さく漏れた声は、自分のためだけのものだった。
捕まえる。
確かめる。
会う。
その順番が、もう自分でも分からない。
---
夕方の商会は、まだ新しい匂いがしていた。
木の棚。
乾燥薬草。
硝子器。
封蝋。
紙。
新しい場所には、新しい場所だけの浅い匂いがある。浅い匂いは便利だ。古い罪をまだ染み込ませていない。
私は帳場の奥で紙を読んでいた。
短い報せが三本。
一枚目。
押収品移送。
二枚目。
再鑑定立会い。
三枚目。
南区外れ倉庫での大型取引。
どれも、別々に見せている。
別々に見せているくせに、最後には同じ場所へ寄せている。
カイルが机の端に寄りかかったまま、私の顔を見る。
「どう見る」
私は一枚目を閉じた。
「罠ね」
「即答かよ」
「即答できるくらい、よく出来てる」
それが一番嫌だった。
雑な罠ではない。
こっちが何を拾うか、順番まで見に来ている罠だ。
二枚目を読む。
再鑑定立会い。
押収品。
南区外れ。
現場を一つに寄せている。
寄せるのは回収のためではなく、“守りたいものが動く場所”を作るためだ。
「王太子ね」
そう言うと、カイルが顔をしかめた。
「まあ、だろうな」
「前より頭がいいわ」
「前から悪くはねぇだろ」
「ええ。悪くないから困るの」
私は三枚の紙を並べた。
押収品。
再鑑定。
大型取引。
どれも嘘だ。
だが、嘘の中に本物を混ぜてある。混ぜてあるから、全部は捨てられない。
「行くか」
カイルが訊く。
私は首を振った。
「私が行ったら負け」
「だよな」
「来るのは私じゃない」
紙の端を指で押さえる。
「“結果”を行かせる」
カイルが少しだけ目を細めた。
分かった時の顔だった。
この男はたまに遅い。
だが、一度分かると話が早い。
「痕跡だけ残す?」
「半分ね」
「半分?」
「来たように見せる。でも、来たと断定できない形」
私は立ち上がった。
商会の窓から見える空は、もう少しで暗くなる色をしている。
こういう時間は、人が一番“急がないといけない気”になって、判断を雑にする。
「押収品は拾わない」
「じゃあ何を拾う」
「流れ」
私は振り返って言った。
「護衛が薄いなら、護衛の薄さを見せるための報せがもう一段ある。大型取引が偽でも、そこへ集まる目は本物。……混ぜるのよ」
「何を」
「噂と、遅延と、見間違い」
カイルが低く笑う。
「好きだな、お嬢様。そのへん」
「正面から来る人間には、正面から勝てないもの」
私は机の上の紙を一枚だけ取った。
教授の表。
受渡し。確認。停止。
方法ではない。
順番だけが書かれている。
それで十分だった。
「南区外れの倉庫へ行くのは?」
「空の荷車一台。中身はない」
「偽装か」
「ええ。でも荷車そのものじゃない。見るべきは“荷車を見た人間が、あとでどう話すか”よ」
カイルが口の端だけで笑った。
「“黒い荷車が入った”とか、“誰か降りた”とか?」
「そう。誰か降りたように見える形を置く」
私は窓の外へ目をやった。
夕方の王都は、まだ半分だけ明るい。
半分明るい時間の目撃談は、だいたい役に立つ。見えた気がする人間が一番よく喋るからだ。
「匂いを一つ。印の近似を一つ。あとは、止めたはずの旧護衛線を一人だけ動かす」
カイルがそこで顔を上げた。
「旧護衛線?」
「王城が知っている線よ。知っている線が一人だけ動けば、“来た”ように見える」
「で、本命は」
私は紙を折った。
「別の街区」
「最初からそれ狙いか」
「王太子が賢いなら、三街区は薄く囲う」
「囲うな」
「ええ。だから、四つ目へ流す」
カイルが短く息を吐く。
「ほんと、嫌なことを平気で言うな」
「平気じゃないわ」
私は外套を手に取った。
「でも、そうしないと勝てないだけ」
勝つ。
その言葉を使うと、少しだけ気分が悪い。
勝つというより、崩されない順番を先に置くだけだからだ。
けれど今夜は、それで十分だった。
「カイル」
「何」
「空の荷車を出して。黒布を一枚。人は乗せない」
「影だけ作るのか」
「ええ」
私は頷いた。
「《グレン》は来た。そう見えればいい」
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夜の南区外れ倉庫は、広かった。
広い場所は包囲に向いている。
向いているが、それは包囲する側も広がるということだ。広がった目は、真ん中ばかりを見がちになる。
屋根の上。
横道。
倉庫の裏。
空の荷車。
薄い兵。
さらに薄い影。
アルベルトは、倉庫向かいの空き家二階から外を見ていた。
灯りは落としてある。
窓の隙間だけが少し白い。
「動きは」
「まだありません」
捜査官が小さく答える。
外では、荷車が一台だけ停まっていた。
黒布が掛かっている。
何も積んでいないように見える。
ように見えるだけで、それを確かめるために出る兵はもう配置済みだ。
アルベルトは息を潜めた。
静かすぎる。
静かすぎる時は、たいてい何かが来ている。
「殿下」
別の捜査官が走ってきた。
早い。
息が上がっている。
「東の路地で目撃あり! 旧護衛線の一人です!」
アルベルトの目が動く。
東。
視線を流す。
一瞬だけだった。
その一瞬に、倉庫前の荷車が少し揺れた。
黒布が風で浮く。
いや、風だけではない。
誰かが触れた揺れ方だった。
「――倉庫前!」
捜査官が叫ぶ。
兵が二人、三人と前へ出る。
前へ出た時点で、包囲は中央に寄る。
アルベルトは窓際へ一歩出た。
見えたのは、人ではなかった。
黒布。
荷台。
そして、荷車の後ろに落ちた小さな瓶。
瓶は割れない。
割れないが、栓だけが抜ける。
そこから、薄い鉄錆に似た匂いが夜へ開いた。
アルベルトの胸が一瞬だけ熱くなる。
来た。
そう思った。
同時に、どこかが冷えた。
これは“来たように見える形”だ、と頭の一部が遅れて言ったからだ。
「待て!」
叫んだ時には、もう兵が荷車へ走っている。
黒布を剥ぐ。
荷台は空だ。
空なのに、皆が空ではないものを見たあとみたいな顔をしている。
目撃。
揺れ。
匂い。
旧護衛線。
全部が揃えば、人は“いた”と自分で補う。
「殿下!」
東の路地の捜査官がまた叫ぶ。
「影が――」
その続きを聞く前に、アルベルトは分かった。
混ぜられたのだ。
中央と東を。
匂いと目撃を。
兵の視線と、自分の視線まで。
「……違う」
小さく言う。
捜査官は聞き取れない。
「何がです」
アルベルトは外を見たまま答えなかった。
違う。
《グレン》が来たのではない。
《グレン》が来たように、こちらが動かされたのだ。
それが分かった瞬間、ひどく腹が立った。
同じだけ、胸の奥が熱くなった。
見事だった。
その感想が、怒りより先に浮かんだ自分に、アルベルトは一番腹が立った。
「東は捨てろ」
低く命じる。
「倉庫裏から四区画先を洗え。……本線は別だ」
捜査官が息を呑む。
「ですが、匂いが」
「撒かれたんだ」
アルベルトは言った。
「そう見えるように」
外の空気は冷たい。
だが、そこへ混ざる匂いはたしかに近かった。近いのに、届かない。
《グレン》は来た。
いや、来ていない。
だが“来た”という結果だけを、現場へ置いていった。
アルベルトは窓枠に手を置いた。
冷たい木だった。
その冷たさが、今夜の敗北を少しだけはっきりさせる。
「……来たな」
低く呟く。
今度のそれは、確信ではなかった。
確信と敗北が、同じ重さで混ざった声だった。
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夜更け、商会の奥で私は荷車の報せを聞いた。
カイルが帰ってくる。
外套に夜気をまとっている。
息は乱れていない。
乱れていない時ほど、だいたい上手くいっている。
「どうだった」
「食った」
短い返事だった。
私は目を伏せた。
短い返事の方が、いらない快感が混ざらないから好きだ。
「中央に寄った?」
「寄った。東も見た。でも遅い」
カイルが机へ小さな紙片を置く。
誰がどこで何を見たか。
目撃談は、起きたことより“どう広がるか”の方が値がある。
「王太子は」
「いた」
その一言に、少しだけ喉の奥が乾いた。
「窓際。二階。灯り落としてた」
来ていた。
なら、こちらの勝ちは半分だ。兵を動かしただけなら足りない。王太子本人の目まで動かせたなら、今夜の意味はある。
私は紙片を指で揃えた。
「見せたのね」
「ええ」
カイルが肩をすくめる。
「《グレン》が来たっていう“結果”をな」
私は小さく息を吐いた。
教授の表。
受渡し。確認。停止。
それを、今夜は現場の視線へ使っただけだ。
止める位置は、供給だけではない。
兵の足も、王太子の目も、止める位置を間違えれば勝手に流れる。
「次は」
カイルが訊く。
私は答える前に、紙片を折った。
「罠を張る側が、罠を疑い始める」
「王太子か」
「ええ」
それが一番大きい。
一度疑い始めた人間は、次から全部の判断が半拍遅れる。半拍遅れれば、正義はだいたい鈍る。
「でも」
私は少しだけ目を上げた。
「会いたがる方は、もっと止まらないでしょうね」
カイルが顔をしかめる。
「気持ち悪ぃな」
「同感」
そう言ってから、私は火を見た。
火は小さい。
小さいが、消えていない。
卒業式は近い。
断罪の空気も、王太子の執着も、もう止まらないところまで来ている。
なら、こっちも次へ行くしかない。
私はノートを開き、短く一行だけ書いた。
罠は読める。
読めるなら、次は使う。
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メーター:資金 特大/疑念 臨界/執着 極大/支配 極大




