尋問:口を割らない恐怖
昼の牢は、夜より白い。
暗くないから気が楽になる、ということはない。白い石壁は、血も汗も、嘘をつく顔もよく見せる。見える場所ほど、人は隠すものを増やす。
アルベルトは、地下牢の前で足を止めた。
扉の向こうにガルムがいる。昨夜まで闇ギルドの頭目だった男。今は王城の鉄格子の向こう側に座っている。
落ちた人間の匂いは、たいてい似ている。酒気と疲労。眠れなかった皮膚。それでも今日のガルムには、もう一つ別の匂いがあった。
諦めではない。まだもっと深い場所に何かを残している人間の、口を閉じた匂いだった。
「開けろ」
扉が鳴る。
中は広くない。石の寝台。水差し。鎖。その全部より、中央にいる男の沈黙だけが重かった。
ガルムは立たなかった。立てないのではない。立っても意味がないと知っている人間の座り方だった。
アルベルトは牢の前まで歩いた。護衛とルーカスが一歩下がる。
「《グレン》は誰だ」
最初から、それだけを言った。
前置きは要らない。この男が持っている価値は、今はただ一つだ。
「言え」
ガルムは顔を上げた。
殴られた痕はない。拷問もまだだ。それでも目だけが古かった。昨夜までとは別の夜を越えた人間の目だった。
「……知らねぇな」
かすれた声だった。
アルベルトは少しも驚かなかった。
「お前の名で切られていた枠は閉じた。護衛も外れた。お前は捨てられたんだ」
言葉を短く置く。
「庇う理由はもうない」
ガルムは一度だけ、乾いた笑いに似た息を漏らした。
「庇ってるように見えるかよ」
「なら話せ」
アルベルトの声が少しだけ低くなる。
「《グレン》は男か、女か。どこにいる。学園か。王都か。商会か」
そこで、ガルムの目が初めて揺れた。
名前にではない。場所でもない。《グレン》という音そのものに、身体の奥が反応したような揺れ方だった。
アルベルトはそれを見逃さなかった。
「知っているな」
「……知ってるさ」
ガルムは低く言った。
「知ってるとも」
声は低い。低いが、開く方向には動かない。
「なら言え」
アルベルトが一歩だけ近づく。
鉄格子の影が床に伸びる。その影が、ガルムの膝の上まで届いていた。
「《グレン》は誰だ」
ガルムは、そこで黙った。
黙ったまま、喉だけが一度動く。言うか、ではない。言えない何かを飲み込む動きだった。
やがて、絞るように出た声は小さかった。
「……あれの名は、口にできない」
牢の空気が一段だけ冷えた。
護衛が顔を上げる。ルーカスも、黙ったまま視線だけを細くした。
アルベルトはしばらく何も言わなかった。
あれ。
忠誠ではない。恐怖だ。
名を避けている。昨夜まで同じ机を囲んでいた相手を、もう名指しできなくなっている。名を言うだけで、自分の中の何かが確定してしまうと知っている時の避け方だ。
「脅されたのか」
アルベルトが問う。
ガルムは首を振らない。頷きもしない。その代わり、視線だけが少し落ちた。
「違う」
「なら何だ」
「……見たんだよ」
アルベルトの眉が僅かに動く。
「何を」
ガルムはすぐには答えなかった。
答えないというより、次の一語を出すと、自分の中の何かが確定してしまうと知っている顔だった。
「人じゃねぇ」
それだけ言って、ガルムは口を閉じた。
閉じ方が深かった。言葉が足りないのではない。その先を語れば、語った自分がもう元の場所へ戻れなくなると分かっている閉じ方だった。
アルベルトは鉄格子に手を置いた。
冷たい。冷たいが、その冷たさで頭は冴えない。
「そんなものは恐れる理由にならない」
そう言い切ると、ガルムがゆっくり顔を上げた。
その目にあったのは、反抗ではなかった。理解されないことへの、疲れに近いものだった。
「殿下」
かすれた声で言う。
「人は殴れば折れる。金でも折れる。女でも、薬でも、家族でも折れる」
そこで、ガルムの声が少しだけ変わった。
「……でも、あれはそういう折れ方じゃねぇんだ」
最後の一語だけが、妙に静かだった。
それ以上は出なかった。ガルムは目を閉じた。閉じたまま、もう開ける気配がなかった。
アルベルトは黙った。
短い言葉だった。断片にすぎない。だが、その断片の形が、嫌にまっすぐ刺さった。
折れない。殴っても、金でも、薬でも。——では、何で動く。
頭の中で、別の問いが静かに組み替わる。
恐怖で口を閉じた男が、最後に漏らしたのは「人じゃねぇ」という一語だった。
人ではない何か。仕組み。流れ。止まる位置を知っている何か。
「……それだけか」
アルベルトが低く言った。
ガルムは目を閉じたまま、答えなかった。
尋問は、そこで終わった。
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夕方の執務室に戻ると、机の上が狭くなっていた。書類が増えたのではない。答えが減ったのだ。
ルーカスが報告書を置く。短い。短いのに、どこにも進展がない。
「口は割れませんでしたか」
アルベルトは返事をしなかった。
返事の代わりに、ガルムの言葉だけが頭の中に残る。
人じゃねぇ。
あれはそういう折れ方じゃねぇ。
断片だ。断片しか手に入らなかった。だがその断片の輪郭が、頭の中にある別の輪郭と重なりかけている。
「殿下」
ルーカスが慎重に言う。
「世論は十分です。卒業式で断罪を行い、同時に捜索をかければ――」
「足りない」
アルベルトが遮った。
ルーカスが黙る。
「断罪だけでは足りない。摘発だけでも足りない」
アルベルトは机に手をついた。
《グレン》を捕まえたい。違法薬を止めたい。学園を守りたい。それは正しい。
だがその正しさの下に、別のものがもう混ざっているのを、彼は認めざるを得なかった。
会いたいのではない。もうそういう言葉では足りなくなっている。
考えの筋道を、真正面から聞きたい。なぜそう動くのかを、本人の声で知りたい。
それが腹立たしかった。もう目を逸らせなかった。
「殿下?」
ルーカスが顔を上げる。
アルベルトは窓の外を見た。
学園の塔が遠く白い。卒業式まで、もう日がない。壇上。署名。証言。婚約破棄。摘発。全部が整っている。
整っているのに、まだ足りない。
「正面から出てこないなら」
ルーカスが息を潜める。
「出てこざるを得ない位置を作る」
その声は低かった。低いが、昼より冷えている。
「殿下。それは――」
「罠だ」
アルベルトは言った。
「偽の大型取引でも、押収品の移送でもいい。……《グレン》が流れを守るなら、流れに手を入れれば出てくる」
ルーカスは数秒だけ黙った。
「食いつきますか」
アルベルトはゆっくりと頷く。
「食いつく」
理屈から出た言葉のはずだが、声は確信の色をしていた。
「人を捨てることはあっても、流れは捨てない」
その理解が、なぜか少しだけ彼を熱くした。
嫌悪しているはずなのに。捕まえたいはずなのに。それでも、相手のやり方を誰より深く分かってきている自分がいる。
それが腹立たしかった。同じだけ、もう止められなかった。
アルベルトは机の端の紙を引き寄せた。
白紙だった。口で言えば済む。だが、口にした言葉は消える。紙に残した命令は、あとで自分を縛る。
それでいい。
短く一行だけ書いた。
――流れを乱せ。
ルーカスが低く言う。
「いつ動きますか」
アルベルトは紙を折った。
「卒業式の前だ」
そこで初めて、彼は少しだけ笑った。喜びではない。追い詰める順番が見えた人間の笑いだった。
「なら、誘い出す」
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メーター:資金 特大/疑念 臨界/執着 極大/支配 極大




