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教授の接触:危険な契約


昼の研究棟は、晴れている日に限って冷たかった。


石が白く光るからだ。

白く光る場所では、汚れは小さくても目立つ。

小さな違和感ほど、こういう場所では長く残る。


呼び出しの紙は、昨日より短かった。


午後二時。研究室へ。


用件は書かれていない。

書かれていない時ほど、用件は一つしかない。


廊下の掲示板には、まだ署名用紙が増え続けていた。

昨日は三枚。今日は五枚。

数えない方が楽だと思った。

楽な方を選ぶと、そのまま人は空気に飲まれる。だから見た。見た上で、意味だけ捨てた。


研究室の扉を叩く。


返事はすぐだった。


「入りたまえ」


中へ入る。


前より机が片付いていた。

いや、片付いたのではない。

見せる紙だけ前に出してある。


机の中央に、三つのものが並んでいた。


白い陶皿。

薄い残滓。

そして、学園の購買記録の写し。


私はそれを見て、少しだけ目を細めた。


教授は窓際ではなく、机の向こうに座っていた。

座って待つ時、人はたいてい相手を客として扱う。

今日はそういう距離で来るつもりらしい。


「座りたまえ」


今度は座った。


前回は座らなかった。

今日は座る。

拒絶より、条件の方が値がつく日だった。


エルマー教授はその変化を見た。

見たが、何も言わなかった。

言わない方が、よく見ている。


「空気が固まってきた」


彼が最初に言ったのは、それだった。


私は答えない。


教授は陶皿の一つを指で示した。


「学園の署名。被害者証言。王城の捜査。公爵家への監査。全部が同じ方向へ向かっている」


灰色の目が、静かにこちらを見る。


「君にとって、あまり良い状況ではない」


「善意で呼んだのですか」


そう返すと、教授は小さく首を振った。


「善意ではない」


そこは早かった。


「善意なら、昨日の段階で見て見ぬふりをしている」


その言い方は正しかった。

善意は便利だ。

便利だから、たいてい遅い。


教授は購買記録の写しをめくった。


薬草。

アルコール。

硝子器。

触媒。

量は小さい。小さいが、並べると癖が出る。


「君は賢い」


彼は淡々と言った。


「だから量を散らす。場所を散らす。名義を散らす。派手な痕跡を残さない」


紙を一枚めくる。


「だが、完全ではない」


そこで陶皿の赤い痕へ指が戻る。


「完全でないから、私はここまで来た」


私は教授を見た。


「ほぼ、確信しているのですね」


教授は笑わなかった。

笑わないまま、静かに言った。


「九十九に近い」


百とは言わない。

その言い方が、この人らしかった。


「前にも言ったが、九十九・一というのは美しい癖だ」


彼の指先が、陶皿の縁を一度だけなぞる。


「署名ではない。見せびらかすための印ではない。消そうとしても残る、手順の滲みだ」


研究室が静かになる。


窓の外で、遠く誰かが階段を下りる音がした。

その音さえ、ここでは妙に薄い。


「王城は犯人を探している」


教授が言う。


「聖女は悪を探している。群衆は見世物を待っている」


そこで一拍だけ止まり、私を見る。


「私は、作り手を見ている」


「それで?」


私は訊いた。


「告発しますか」


教授は首を振った。


「しない」


「なぜ」


「壊したくないからだ」


その答えに、私は一度だけ黙った。


予想していた。

予想していたが、実際に言葉になると質が悪い。


この人は、私を守りたいのではない。

私の中にある“作り方”を、外野の正義や愚かな捜査で壊されたくないのだ。


好意ではない。

だが執着に近い。


教授は続ける。


「今、王城が動けば、いずれ君に届く。届いた時、学園は君を守らない。公爵家も守らない。聖女派はむしろ押し出す」


静かな声だった。

それでもよく通るのは、言葉の順番が正しいからだ。


「だが私は、少なくとも遅らせることができる」


私は少しだけ首を傾けた。


「どうやって」


「学問の顔で」


教授は即答した。


「購買記録は研究用途として上書きできる。残滓は実験室の事故として混ぜられる。匂いの癖も、私が“試作の失敗”として別の方向へ引けば、王城は遠回りする」


危ないと思った。

使えるとも思った。


危ないものほど、今の私には使える余地がある。


教授は机の端に置かれた紙束を軽く叩いた。


「学園に残る限り、君は裸ではいられない」


その言い方に、私は少しだけ笑いそうになった。

裸、という言葉が、こんなに乾いた意味で使われることは少ない。


「先生は、何が欲しいの」


ようやく、そこへ持っていく。


教授の目がわずかに細くなった。

この人はその問いを待っていた。


「三つある」


私は黙って続きを待つ。


「一つ。偽造対策に関して、私の助言を拒まないこと」


彼の視線が陶皿へ落ちる。


「今の市場は雑すぎる。雑な偽物は、人を殺すだけでなく、本物の理屈まで壊す」


そこは正しい。

正しいが、動機はやはり“理屈”の方に寄っている。


「二つ。危険な段階に入る前に、私へ知らせること」


「危険な段階、とは」


「国家が本気で摘発に寄る前。あるいは、君自身が止めるべき量を越える前」


言いながら、教授は私の顔を見ていた。


試しているのだ。

私がどこまで“止まれる人間”なのかを。


「三つ」


教授は少しだけ声を落とした。


「見せてくれ」


私は動かなかった。


教授は続ける。


「全部ではない。レシピでもない。そこはどうでもいい。私が見たいのは、君がどこで百を捨てて九十九・一に留まるのか、その判断だ」


ああ、と思った。


やはりこの人は危ない。


結果ではなく、判断を欲しがる。

判断を見せたら、次はもっと奥へ来る。

知性に敬意を抱く人間は、たいがい一線を越えるのが静かだ。


「先生は賢い」


私は言った。


教授の目が僅かに動く。


「だから、条件を言って」


その一言に、研究室の空気が少し変わった。


教授は私を見た。

値踏みではない。

理解に近い目だった。


「いい」


彼は頷いた。


「言ってみたまえ」


私は順番を決めてから話した。


「先生は私を告発しない」


「当然だ」


「私の名を、王城にも学園にも出さない」


「合理的な範囲で」


「合理的、では困るの」


私は首を横に振る。


「先生の理屈は、たまに国家より危ない」


それを聞いて、教授はまた少しだけ笑った。

否定しなかった。


「絶対」


私は言う。


「私の名を出さない。表の私に近づきすぎない。学園で余計な視線を作らない」


教授は黙った。


その返事は即答ではなかった。

欲しいものと飲める条件を、机の上で静かに秤にかけている沈黙だった。


「その代わり」


私は続ける。


「先生が欲しいものは、全部は渡さない」


「全部はいらない」


「でも、欲しがるでしょう」


教授は返事をしなかった。


返事をしないのは肯定だ。


「だから量は私が決める。見せる順番も、止める位置も、私が決める」


私は目を逸らさなかった。


「先生は助言をする。隠すための理屈を整える。偽造を見分ける。記録をずらす。けれど、決めるのは私」


教授はそこで、初めて長く黙った。


外で鐘が一度鳴った。

午後の終わりを告げる鐘だ。

研究棟の石壁が低く震える。


やがて教授は、ゆっくりと頷いた。


「いいだろう」


その返事は重かった。

軽い約束ではない。

重いからこそ、あとで刃にもなる。


「では」


彼は机の引き出しから、小さな封筒を一つ出した。


中には鍵が入っている。

古い真鍮の鍵だ。


「旧実験棟の裏手に、封鎖されていない保管棚が一つある」


私は鍵を見た。

触れない。


「学園の記録から半分外れている棚だ。学生は知らない。教員も、ほとんど知らない」


教授の声は静かだった。


「そこを一つ、君に貸す。期限付きで」


「鎖ね」


言うと、教授は頷いた。


「そうだ」


あっさり認める。


「私は君を自由にするつもりはない。自由な知性は、たいていすぐに消えるから」


正しいと思った。

正しいが、好きにはなれない。


私はそこでようやく鍵を取った。


冷たい。

軽い。

軽いのに、手に乗るとよく分かる。これは助けではない。位置を決めるための重さだ。


「もう一つ」


教授が言う。


「偽造品がまた出る」


「ええ」


「次は、印そのものではなく運用に寄せてくる」


私は教授を見た。


「分かっているのね」


「分かる」


彼は短く言った。


「私も同じ側の人間だからだ。形より、確認したつもりの手順を壊す方が早いと知っている」


その自己認識に、私は少しだけ安心した。

危ない人間が自分を危ないと知っている間は、まだ扱える。


教授はそこで、最後の言葉を置いた。


「守る代わりに、見せてくれ」


研究室が静かになる。


それは懇願ではなかった。

命令でもない。

契約の形をした執着だった。


私は鍵を握ったまま、立ち上がる。


「見せるかどうかは、私が決める」


そう返すと、教授は目を細めた。


「結構」


その返事には、なぜか満足が混じっていた。


私は一礼だけして扉へ向かった。


「アルヴェイン」


背中に最後の声が来る。


止まる。振り向かない。


「卒業式の日、君は忙しいだろう」


「でしょうね」


「私もだ」


その言い方で分かった。

この人は、もう当日の自分の役まで考えている。


味方でもない。

敵でもない。

危険な協力者。


扉を開ける。


廊下の空気は冷たかった。

だが掌の中の鍵だけが、妙に熱く感じた。


---


夜の工房で、カイルは鍵を見るなり顔をしかめた。


「何それ」


「鎖」


私は短く答えた。


カイルが舌打ちする。


「教授か」


「ええ」


机の上へ鍵を置く。

小さな金属音が鳴った。


「協力するって?」


「条件付きで」


「信用できるのかよ」


私は少しだけ考えた。


信用。

便利な言葉だ。

便利だから、たいてい現実には使えない。


「信用はしない」


そう言うと、カイルが小さく頷く。


「でも、使う」


「そっちの方がいつものお嬢様だな」


私は机の上のノートを開いた。


新しい頁。

短い言葉だけを書く。


教授。協力。

条件付き。

爆弾。


カイルがそれを見て、低く息を吐く。


「爆弾って、自分で書くのかよ」


「こういうのは、先に名前をつけた方がいいの」


名前がつくと、人は距離を測れる。

距離が測れれば、少なくとも飲み込まれ方は選べる。


「何に使う」


カイルが訊く。


「偽造対策。保管。隠し場所。あと、捜査を半歩ずらす」


「ずらせるか?」


「知性は時々、権力より長く残るもの」


私はノートを閉じた。


「先生は、正義ではなく理解で動く。だから使える」


「理解したあとで、裏切るかもしれねぇぞ」


「ええ」


私は頷いた。


「その時はその時。でも、今はこっちの方が必要」


カイルは何も言わなかった。

言わなかったが、鍵を見る目だけは鋭かった。


彼は分かっている。

これは助けではない。

首輪の形をした橋だ。


「お嬢様」


少しだけ低い声だった。


「橋ってのは、渡るためのもんだけどよ。燃やされる時もある」


「ええ」


私は火を見た。


火は小さい。

小さいが、まだ生きている。


「だから渡る前に、燃やす順番まで決めておくの」


それが今の私にできる、いちばん現実的な敬意だった。


扉の外で風が鳴る。

礼拝堂の石壁に当たって、低く返ってくる。


卒業式は近い。

断罪の空気は固まった。

王城は動く。

教授は近づいた。


増えたものは多い。

だが、増えた中でいちばん危険なのは、味方でも敵でもない刃だった。


私は鍵をもう一度だけ見た。


真鍮。

古い。

軽い。

軽いくせに、落とすと深い音がする。


「危険な協力ね」


小さく言う。


カイルが肩をすくめた。


「一番面倒なやつだな」


「そういうものほど、役に立つのよ」


返してから、私は最後にノートへもう一行だけ足した。


敬意は受け取らない。

契約だけ残す。


ペンを置く。


まだ勝っていない。

まだ逃げてもいない。

けれど、駒は増えた。


危ない駒ほど、終盤ではよく効く。


---


メーター:資金 特大/疑念 臨界/執着 特大/支配 特大


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