表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

32/66

正義空気の固定


昼の学園は、よく晴れていた。


晴れている日の方が、人は残酷になる。

光があると、自分のしていることまで正しく見えるからだ。


聖堂横の小会議室には、長机が二つ並べられていた。

白い布。水差し。筆記具。署名用紙。

整えられた場所は、それだけで正しい顔をする。


ルミナは窓際に立っていた。


光の入る位置だった。

狙ったわけではない。だが彼女は、そういう場所に立つのが上手かった。光の中にいると、人は一度だけ言葉より先に頷く。


室内には取り巻きが六人。

そのうち三人は、もう“仲のいい友人”ではない。署名集めと証言整理のために近づいてきた、空気の実務担当だった。


机の上には紙が積まれている。


一枚目。

被害者一覧。


二枚目。

証言要約。


三枚目。

卒業式当日の進行案。


ルミナは一枚目を指先で揃えた。


「数を見せるのは大事です」


低い声で言う。

高くないから、皆が耳を寄せる。


「一人の不幸だと、人は“気の毒ね”で終わってしまう。三人、五人、十人と並ぶと、やっと“止めなければ”になる」


向かいにいた女子が小さく頷いた。

彼女は昨夜、貴族街の侍女の件をまとめてきた役だ。まだ十七なのに、もう人の不幸を紙に落とす手つきが速い。


「でも、断定はまだ危ないんじゃない?」


別の一人が言った。


「違法薬と、エリシア様を結ぶ証拠は……」


ルミナはそこで首を横に振った。


「今、全部を断定する必要はありません」


部屋が少しだけ静かになった。


その静けさを、ルミナは嫌わなかった。

言葉が刺さった時の静けさは、次の頷きに変わるからだ。


「それを明らかにするのは、王城の役目です」


ルミナは静かに続ける。


「私たちがやるべきなのは別です。今この学園で、“もう見過ごせないことなんだ”と分かってもらうこと」


机の上の三枚目を持ち上げる。

進行案。卒業式の壇上配置。発言順。証言の出し方。観衆の目線が一番集まる位置。


「正しいことも、見えなければ届きません」


誰かが小さく息を呑んだ。


大げさな言葉だった。

だが大げさな言葉ほど、綺麗な部屋ではよく響く。


「卒業式には、王太子殿下も、先生方も、保護者も来る。あの日は学園で一番、大勢が“同じものを見る”日です」


ルミナは紙を机へ置いた。


「そこで被害者の声を出す。署名の束を出す。噂ではなく、積み上がったものとして見せる。そうすればもう、“たまたま気の毒な事件”では済まなくなる」


取り巻きの一人が問いかける。


「被害者、壇上に立てるかしら」


「立てる人だけでいいの」


ルミナはすぐに答えた。


「言葉は長くなくていい。むしろ短い方が残る。“家が壊れました”“もう誰も信じられません”――そういう言葉の方が」


言ってから、彼女は少しだけ目を伏せた。


自分で冷たいことを言ったのは分かっている。

分かっていても、止まれなかった。


止まると、今まで集めてきた署名も、証言も、自分に向いていた拍手も、全部が宙に浮く気がした。


「……そこまでやるの?」


左奥の女子が、小さな声で言った。


責める声ではなかった。

怯える声に近い。


ルミナは顔を上げる。


「やります」


はっきり言う。


「ここで止めないと、次が増えるもの」


その言葉に、誰も反論しなかった。


正しいからではない。

正しく聞こえたからだ。


会議はそこで、一段だけ冷たくなる。


「証言は三本」


ルミナが指を折る。


「侍女。旧市街の使用人。それから、学園内で“前から危ないと思っていた”と話せる声」


「そんな人、いるの?」


「探せばいます」


ルミナは静かに言った。


「ずっと違和感があったのに、言えなかった。そういう人は、こういう時に初めて言葉にできるから」


今度は、皆が少しだけ黙った。


空気を作る。

その言葉を、ルミナは口にしなかった。

けれど部屋の中には、もうその作業の匂いが満ちていた。


正義の準備は、たいてい紙と椅子から始まる。


ルミナは最後の紙を手に取った。


卒業式進行案。

壇上中央。

王太子。

聖女。

学園長。

その少し外れた位置に、断罪される側の立つ場所。


「卒業式で、終わらせましょう」


その一言だけが、妙に部屋に残った。


---


夕方の廊下は、声が少なかった。


少ないのに、静かではない。

人が喋らない時ほど、視線が音になる。


私は窓際の廊下を歩いた。


床は磨かれている。

光が長く伸びている。

その中を通ると、自分だけが少し遅く見える。


誰も何も言わない。

だが、皆が知っている顔をする。


“あの人”。


その呼び方が、一番便利だ。

名前を呼ばずに悪者にできるから。


階段の踊り場で、二人組が道を譲った。

譲るだけならただの礼儀だ。

そのあと、すぐに小さく囁く。


「……やっぱり」


「でも証拠は」


「証拠なんて、そのうち出るでしょ」


私は足を止めなかった。


証拠なんて、そのうち出る。

便利な言葉だと思った。

まだ出ていないものを、もう出たことにできる。


空気は便利ね。

誰も考えなくなる。


そう思って、少しだけ可笑しくなった。

可笑しいが、笑わない。こういう時に笑うと、人は勝手に意味を増やす。


向こうから、一人の女子が歩いてきた。


見覚えがある。

ルミナの取り巻きの一人だった。名前はエミリア。いつもならもっと遠くからこちらを見ている側の子だ。


彼女は立ち止まった。


「エリシア様」


呼びかける声は柔らかい。

柔らかい声は、群衆の前で一番よく効く。


私は足を止めた。


止めた瞬間に、廊下の空気が一段だけ薄く張る。

聞いているのだ。

壁も、窓も、人も。


「何かしら」


「その……最近、色々と……大丈夫ですか」


優しい問いだった。


優しい問いは答えづらい。

はい、と言えば強がりに見える。

いいえ、と言えば可哀想な人間に落ちる。


「何のことかしら」


そう返すと、エミリアは少しだけ睫毛を伏せた。


「噂もありますし……おうちのことも……」


家のこと。


そこまで来ているのか、と私は思った。

監査はもう、学園の話題になっている。

違法薬と悪役令嬢と公爵家の封鎖。

何も証明されていないのに、並びだけは完成している。


「皆さん、心配しているんです」


エミリアが言う。


背後で誰かが小さく頷いた気配がする。


心配。

それはたぶん本心なのだろう。

本心だから厄介だ。


「そう」


私は頷いた。


「優しいのね。ルミナ様は」


それだけ言って、また歩き出した。


エミリアは追わなかった。

追わなくても、空気の方がもう追ってくる。


後ろで誰かが小さく言う。


「やっぱり反省してない」


聞こえる声量だった。

聞こえるように言う勇気だけはあるらしい。


私は階段を下りた。


石段は冷たい。

冷たいものは、感傷を薄めてくれる。


皆が黙る。

皆が見る。

皆が同じような顔をする。


空気は便利だ。

誰も手を汚さなくて済む。


だから強い。


---


夜の王城は、昼より広く見えた。


人が少ないからだ。

人が少ない場所ほど、決まったことだけが机の上に残る。


アルベルトの机には紙が三種類あった。


署名の写し。

被害者一覧。

卒業式当日の式次第。


その並びを見ていると、政治と私情の区別はひどく曖昧になる。


側近のルーカスが、紙を一枚差し出した。


「学園側です」


短い報告だった。

聖女派が被害者証言を集めている。卒業式での提出を検討。壇上進行案あり。観衆への訴求を重視。


アルベルトは最後の一行で指を止めた。


「訴求」


小さく繰り返す。


「ずいぶん上手い言葉を覚えたな」


ルーカスは答えなかった。

答えなくても、答えは同じだからだ。


世論が動いている。

署名が増えている。

被害者の声が集まっている。

公爵家は監査下。

違法薬の流れは、まだ学園周辺と重なっている。


全部が、断罪に向いている。


「殿下」


ルーカスが低く言った。


「世論が味方の今しかありません」


アルベルトはすぐには答えなかった。


窓の外は暗い。

暗いが、学園の塔だけは遠く白く見える。


世論。

味方。

今しかない。


全部、正しい。


正しいからこそ、胸の奥が少しだけ軋む。


《グレン》を捕まえたい。

エリシアを断罪したい。

学園の秩序を守りたい。

違法薬を止めたい。


そのどれもが、今は同じ日に乗せられる。


「卒業式か」


ようやくアルベルトが言う。


ルーカスが頷く。


「断罪と摘発を同日にすれば、空気は割れません。壇上で婚約破棄。直後に学園周辺の捜索。被害者証言もそこへ重ねれば、誰も逆らえない」


誰も逆らえない。


その言葉が嫌に綺麗だった。


綺麗すぎるものは、たいてい人の事情を潰して作られる。


アルベルトは机の上の式次第を引き寄せた。

卒業証書授与。

祝辞。

送辞。

答辞。

その上に、断罪の余白がある。


「……公にはしない」


ルーカスが顔を上げる。


「え?」


「まだ、だ」


アルベルトは言葉を選ぶように続けた。


「正式な捜索命令は式の直前に出す。事前に漏れれば、学園の中が騒ぐ」


ルーカスは一拍だけ黙ったあと、頷いた。


「承知しました」


承知した顔だった。

だが、その頷きの奥に、別の理解もある。


王太子はまだ揺れている。

揺れたまま、決断だけは前に出している。


ルーカスは紙を整理し直した。


「では、壇上の順だけ先に学園側へ」


「任せる」


「被害者証言も?」


アルベルトは少しだけ目を閉じた。


脳裏に浮かぶのは《グレン》だった。

ではなく、エリシアの顔でもなく、その二つが重なりかける瞬間の気配だった。


会いたい。

捕まえたい。

赦せない。

知りたい。


どれも、まだ消えていない。


「……やれ」


最後にそう言うと、ルーカスは一礼した。


扉が閉まる。

部屋はまた静かになる。


アルベルトは一人、式次第の上に手を置いた。


卒業式。

学園で一番、大勢が同じものを見る日。


そこへ断罪を重ねる。

そこへ摘発を重ねる。


正しい。

正しすぎる。

だから少しだけ、息が詰まる。


彼は低く呟いた。


「これで終わるのか」


問いかけだった。

返事はない。


返事がないまま、机の上の紙だけが整っていく。


---


深夜、聖堂横の小会議室にはまだ灯りが残っていた。


皆はもう帰った。

机の上には水差しと紙だけが残っている。

残っているものほど、その日の本当の仕事をよく覚えている。


ルミナは一人で座っていた。


昼に使った進行案を、もう一度見直している。

壇上の立ち位置。

証言の順番。

署名束を出す合図。

王太子の発言位置。

学園長の視線が一番逃げにくい角度。


全部、少しずつ整っていく。


整えば整うほど、胸の奥が少しだけ冷える。

冷えるが、止めない。

止めると、今度は何のためにここまで来たのか分からなくなるからだ。


ルミナは最後の紙を重ねた。


卒業式当日。

断罪。

被害者。

署名。

王太子。

観衆。


全部が一つの絵になる。


彼女は小さく息を吐いた。


「卒業式で、終わらせましょう」


今度は誰に向けた言葉でもなかった。


自分に言い聞かせるような、静かな声だった。


けれど、その静かさが一番危ない。

人は自分に言い聞かせた正義を、最後まで疑わなくなるからだ。


---


メーター:資金 特大/疑念 臨界/執着 特大/支配 特大


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ