第99話「喧嘩上等」
「我を退屈させるなよ……雑兵ども」
兵舎の中で、もう誰もすぐには動けなかった。
倒れた騎士。
割れた皿。
ひっくり返った机。
床に転がる木剣。
その真ん中で、漆黒の装いを纏ったユウヤだけが静かに立っている。
誰もが息を呑んでいた。
「な、なんだよこいつ……」
「新入り、だよな……?」
「化け物じゃねえか……」
ざわめきが広がる。
その空気を割るように、兵舎の入口から呆れた声が落ちた。
「……なんだ、こりゃ?」
皆が一斉に振り向く。
入口に立っていたのは二人だった。
一人は、細身の男。
無駄のない体つきに、鋭い目。
第五の騎士服をきっちり着込み、面倒事を前にしたような嫌そうな顔をしている。
もう一人は、大男。
肩幅も腕も脚も太く、片頬には大きな傷。
その目は壊れた兵舎よりも、真ん中に立つユウヤを見て楽しそうに細められていた。
周囲の騎士たちの顔色が変わる。
「ザック副団長……!」
「ベルグ団長……!」
第五騎士団副団長ザック。
そして、第五騎士団長ベルグ。
ザックは部屋全体を見回し、それからユウヤへ目を向けた。
「ひでえ有様だな……お前がやったのか?」
ユウヤは答えない。
ただ、じっと二人を見つめている。
その横で、ベルグが口元を吊り上げる。
「おおう、活きのいいのがいるじゃねえか!」
ごきり、と首を鳴らす。
「俺も混ぜろよ」
「勘弁してくれ……」
即座に止めたのはザックだった。
「あんたが暴れたら兵舎が無くなっちまうだろうが。これ以上、兵舎を壊されたんじゃあたまったもんじゃねえからよ」
ザックは深く息を吐き、ユウヤを指差す。
「そこの見習い。表に出ろ。やるなら訓練場だ」
ベルグは豪快に笑った。
「いいねぇ! そうこなくちゃな! 第五は喧嘩上等! 強ぇやつが偉い! シンプルだろ?」
ユウヤは、ゆっくりと口元を吊り上げた。
「くく……よかろう。貴様らがどうしても我に跪きたいと言うのなら、望み通りにしてやる」
「がははっ、最高じゃねえか!」
ベルグは楽しそうに笑い、先に外へ歩き出した。
ザックは倒れた騎士たちを一瞥し、頭を押さえるように言う。
「動けるやつは片付けろ。動けねえやつは転がしとけ」
訓練場には、あっという間に野次馬が集まった。
第五の騎士たちだけじゃない。
何の騒ぎかと、近くの兵舎から顔を出す者までいる。
その真ん中に、ベルグとユウヤが向かい合って立つ。
ザックが面倒くさそうに前へ出た。
「ルールは簡単だ。武器は無し。降参するか、膝をつくか、動けなくなった方の負け。文句があるやつは後で聞く。今は黙って見てろ」
ベルグがにやりと笑う。
「真面目じゃねえか、副団長よぉ」
「うるせえ。あんたが暴れた後の始末はだいたい俺なんだよ」
周囲から笑いが漏れる。
ベルグは首を鳴らし、ユウヤを見た。
「俺を楽しませてくれよ? 新入り」
ユウヤはコートを揺らす。
「格の違いを見せてやろう。蛮族め」
「言うねえ!」
ベルグが笑った次の瞬間、地面を蹴る。
速くはない。
だが、重い。
踏み込み一つで砂が爆ぜ、拳そのものが塊みたいに飛んできた。
ユウヤは腕を交差して受ける。
そのまま押し込まれる。
「ぐっ……!」
地面に靴がめり込む。
「圧がやべえ……!」
「団長、本気じゃねえか……!」
ベルグは笑いながら、さらに拳を叩き込んだ。
二発。
三発。
どれも重い。
受けるだけで骨が軋みそうだった。
ユウヤは横へ回り込み、脇腹へ拳を打ち込む。
だが、ベルグは肩からぶつかるように押し返してくる。
「どうした新入り!! さっきは、もっと元気だっただろ!!」
「騒がしい奴め……!」
ユウヤが低く吐き捨てる。
ベルグはかなりの強さだった。
一発一発がまともに入れば終わる。
そう分かる拳だ。
それでも、ユウヤは退かなかった。
ベルグの拳を流し、肘を打ち込み、膝を返す。
ベルグもそれを受けて、逆に額がぶつかりそうな距離から拳をねじ込んでくる。
互角だった。
ベルグの拳が肩を掠める。
ユウヤの蹴りが脇腹へ食い込む。
どちらも決定打にならない。
「ははっ! いいじゃねえか!!」
ベルグが楽しそうに笑う。
「戯け」
ユウヤが吐き捨てる。
「貴様の鈍重な拳など、我が奈落の底に沈めてやる」
ベルグの拳が頬を掠めた。
鈍い痛みが骨まで響く。
ユウヤもベルグの顎へ拳を叩き込む。
ベルグの首がわずかに揺れた。
それでも、倒れない。
周囲のざわめきが大きくなる。
「団長とやり合ってる……!?」
「新入り、マジで何者だよ……!」
ベルグが拳を握り直し、笑った。
「面白ぇ」
「もっと見せろ、新入り!」
その時だった。
ユウヤは、ゆっくりと右手を胸へ当てた。
「よかろう」
低い声が響く。
「貴様がどうしても我が真名を聞きたいと言うのなら、その愚かさに免じて、一度だけ名乗ってやろう」
ザックが眉をひそめる。
「……なんだ?」
ユウヤのベルトが光る。
訓練場の空気が、一段変わった。
ユウヤはコートを翻し、高らかに名乗る。
「我は漆黒の奈落を統べる、終焉の代行者……!
禁じられし黒焔の封印を解き、滅びの摂理すら捻じ曲げよう!
恐れるがいい、汝らの運命は既に我が掌の上だ!
我が名は、漆黒勇装・マスクドブレイブ!!」
一瞬、静寂。
そして。
『名乗り成功』
『身体能力強化:27倍(基礎)』
『名乗りボーナス:32倍(加算)』
『合計:身体能力強化 59倍』
ベルグは、ますます楽しそうに笑った。
「くくくっ……最高じゃねえか!! じゃあ、こっちも本気で行くぜ」
次の瞬間。
ベルグの身体から闘気が凄まじい勢いで放出される。
訓練場の土が吹き上がる。
睨み合い、二人が同時に地面を蹴った。
さっきまでとは比べものにならない速度で、距離が消える。
拳と拳が真正面からぶつかった。
轟音。
ベルグの腕が軋む。
ユウヤの足元の砂が弾ける。
「ぐっ……!!」
「おおおっ!!」
今度はどちらも引かない。
ベルグが力で押し込み、ユウヤが捻って逸らし、そこへベルグの膝が飛び、ユウヤの肘が返る。
重い。
そして、速い。
五十九倍の身体能力でようやく互角。
ベルグもまた、ただの騎士ではなかった。
拳を受け、蹴りを食らっても、それでも前へ出てくる。
重い一撃を叩き込まれるたび、ユウヤの腕が痺れる。
「ははっ!! いいぞ新入り!! これだ! こういうのを待ってたんだよ!!」
ベルグは完全に楽しんでいた。
だが、ユウヤにも余裕はない。
59倍の強化があっても、ベルグの圧は消えない。
一発でも食らえば終わり。
そんな緊張感がずっと続く。
ユウヤの拳がベルグの頬を捉える。
ベルグの拳がユウヤの脇腹へめり込む。
「がっ……!」
「くっ……!」
互いに後退。
すぐに踏み込み直す。
また激突。
また離れる。
呼吸が荒くなる。
野次馬たちももう騒げなかった。
誰もが息を呑んで見ている。
ザックだけが、腕を組んで目を細めていた。
「……マジかよ」
エルンはただ呆然と、二人の動きを追うことすらできず立ち尽くしていた。
そして、何度目かの激突の後。
ベルグの拳がユウヤの肩を抉るように叩き、ユウヤの掌底がベルグの顎を跳ね上げた。
両者、同時に大きくよろめく。
「っ……!」
「ぐ……!」
足が止まる。
砂の上に、重たい呼吸だけが落ちた。
ベルグは膝をつきかける。
だが、歯を食いしばって耐える。
ユウヤも視界が揺れた。
足が笑う。
全身が軋む。
それでも――先に前へ出たのはユウヤだった。
「終わりだ」
低く吐き捨てる。
最後の一歩を踏み込み、拳を振り抜く。
「漆黒ブレイブパンチ!」
ベルグも迎え撃とうと拳を上げる。
だが、一瞬だけ遅れた。
黒い拳が、ベルグの胸へ深くめり込んだ。
鈍い衝撃音。
ベルグの巨体が後ろへ吹き飛ぶ。
地面を削り、転がり、それでも立ち上がろうとする。
だが、片膝をついたところで動きが止まった。
一方、ユウヤもその場で大きくふらつく。
今にも倒れそうだった。
それでも、倒れない。
歯を食いしばり、足を踏ん張る。
息は荒い。
視界も霞む。
だが、最後まで立っていた。
静寂。
誰も声を出せなかった。
やがて、ベルグが膝をついたまま、ふっと笑う。
「……くく」
肩が揺れる。
それはすぐに、大きな笑いになった。
「がはははははっ!!」
周囲が呆然とする。
ベルグは立ち上がるのをやめ、膝をついたまま豪快に笑った。
「やるじゃねえか、新入り!! 俺の負けだ!!」
そのまま親指でユウヤを指す。
「よし、決めた!!」
団長の声が訓練場中に響いた。
「今日から、兵舎の中じゃこいつが第五の頭だ!!」
一同が固まる。
「は……!?」
「団長、本気かよ!?」
「マジで言ってんのか!?」
ベルグは吠えた。
「うるせえ!! 強ぇやつが上なのが第五のルールだろうが!!」
ザックが深く息を吐き、肩をすくめる。
「……まあ、団長が膝ついたんじゃ誰も文句言えねえな。武器が無いのも同じ条件だしな。異論があるやつは前に出ろ。俺が相手してやる」
それで空気が決まった。
誰も、もう反論できない。
ユウヤは荒い息のまま、静かに周囲を見回した。
「変身解除」
漆黒装備が消え、騎士団の制服に変わる。
「じゃあ、言わせてもらう」
低い声が響く。
「今まで見習いに押しつけてた雑用、てめえらがやれ! マッサージ? 好きなら自分で揉め! あと、次に見習いを蹴ったやつは、俺が蹴る」
静かだった。
さっきまで怒鳴り散らしていた連中が、今は誰一人として笑っていない。
エルンだけが、呆然とユウヤを見上げていた。
ベルグはそれを見て、また笑った。
「いいねぇ!! お前ら、聞いたな!」
ユウヤはふらつく足をどうにか踏ん張る。
――あれ?……俺、何しに来たんだっけ……
何か大事なことを忘れている気がする。
だが、今はもう頭が回らなかった。
それでも、膝だけはつかない。
その姿に、第五の誰も逆らわなかった。




