第95話「絶不調と絶好調」
試験当日の朝。
ユウヤは、もはや満身創痍だった。
目の下にはくっきりと隈が浮かび、顔色も悪い。
片手にはまだ教材を持っていて、歩きながらぶつぶつと何かを唱えている。
「帝国暦四二八年……セルシリウス二世……ルーゼの戦い……初代帝国騎士団団長ラインベルト……」
完全に寝不足だった。
というより、ほとんど寝ていない。
文字を書けるようになった後も、ユウヤは休まなかった。
そのままひたすらに歴史と文化を頭へ叩き込み、過去問を解き、また書き取りを繰り返していたのだ。
対して、レオルドは妙に元気だった。
酒場のアルバイトと歴史デートで、むしろ変な自信がついたらしい。
髪も整っているし、顔色も悪くない。
絶好調だ。
そのレオルドへ、広場で別れ際のカレンが手を振った。
「レオルドくーん! 今日、頑張ってね!」
「はい! 今度こそ騎士になります!」
「こいつ3日間何やってたんだ……」
ユウヤが死んだ目のまま呟く。
少し離れた路地の影からそれを見ていたアルヴェルトは、小さく息を吐いた。
「……本当に大丈夫だろうか」
ユウヤは目が死んでいる。
レオルドは妙に元気だが、たぶん目的を忘れている。
不安しかなかった。
試験会場は、帝国騎士団の訓練所に隣接した大きな詰所だった。
石造りの広い建物の前には、すでに大量の受験者が集まっている。
ざっと見ただけでも、かなりの数だった。
筋骨隆々の男。
如何にも頭が切れそうな細身の男。
元兵士崩れのような者。
貧しい身なりだが目だけはぎらついている平民の若者。
帝国騎士は、平民からすれば夢のある職業だった。
給料は高い。
食い扶持にも困らない。
功績を上げれば、家名を得ることすらある。
ただ強いだけでは駄目で、頭も要る。
頭が良いだけでも駄目で、腕も要る。
その両方を求められるからこそ、集まる連中の気合いも違った。
試験官の騎士が前へ出て、声を張り上げる。
「本日の受験者は千二百三十六名! 整列しろ!」
ざわめきが少しだけ大きくなる。
「多っ……」
ユウヤが半分死んだ声で呟く。
「大きい国ですからね」
レオルドはあっさりしたものだった。
受付で番号札が配られる。
レオルドは三〇一番。
ユウヤは三〇〇番だった。
「なんでユウヤが300番で私が301番なのでしょう……」
「俺がお前の前にいたからだろ……」
「なるほど!」
「頼むから、もう喋りかけるな……」
ユウヤはふらつく足取りのまま、番号札を握った。
最初は筆記試験だった。
受験者たちは長机の並んだ広い室内へ通され、一定間隔で座らされる。
カンニング防止のためか、壁際や通路には騎士が何人も立っていた。
鐘が鳴る。
問題用紙が配られる。
「始め!」
その合図で、一斉に紙をめくる音が響いた。
ユウヤは半分眠ったような目のまま、問題を見た。
だが次の瞬間には、迷いなくペンが走り始める。
帝国の歴史。
建国の流れ。
騎士団制度の成立。
主要な戦役と年代。
簡単な計算。
文章問題。
字はまだ少し硬い。
だが、ちゃんと読める。
何より、迷いがなかった。
それもそのはずだ。
ユウヤは二日目から、寝る間も惜しんで過去問を解き続けていた。
問題の傾向も、出やすい年代も、叩き込み方まで含めて、今の頭の中にはぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
眠い。
頭は重い。
それでも手は止まらなかった。
対して、レオルドは頭を抱えながらも、ゆっくりと書き進めていた。
計算問題では、酒場で叩き込まれた感覚が生きた。
歴史では、石像や城や広場で説明した記憶が意外と残っている。
「ヴァルツェンシュタイン一世……セルシリウス二世……」
小さく口の中で唱えながら、一問ずつ潰していく。
以前のレオルドなら、もっと壊滅していただろう。
だが今回は、一応書けていた。
三時間後。
終了の鐘が鳴る。
「そこまで!」
試験用紙が回収されていく。
ユウヤはその瞬間、魂が抜けたみたいに机へ突っ伏した。
「……終わった……」
「難しかったですね……」
レオルドは不安そうな顔で言った。
「……分からないところが多かったです」
「眠い……しんどい……きつい」
「顔色が悪いですね」
「誰のせいだと思ってんだ……」
ユウヤは机に突っ伏したまま答えた。
短い休憩の後、受験者たちは訓練所へ移された。
広い土の訓練場。
武器棚。
模擬戦用の木剣。
見張るように並ぶ騎士たち。
受験番号ごとに五十人ずつの組へ分けられ、それぞれの組に数人の試験官が付く。
ユウヤは二五一番から三〇〇番の組。
レオルドは三〇一番から三五〇番の組だった。
「ギリギリ別れたな」
「ですね」
「お前、余計なことすんなよ」
「それはお互い様では?」
「……うるせえ」
ユウヤはそう吐き捨てて、自分の組へ向かった。
実技試験は、一人ずつ試験官の騎士と模擬戦を行う方式だった。
先にレオルド側の組から始まった。
レオルドの相手は、いかにも訓練慣れした中年の騎士だった。
木剣を肩に担ぎ、受験者を値踏みするような目で見ている。
「三〇一番、前へ」
「はい」
レオルドは素直に前へ出た。
軽く礼をする。
構える。
騎士が鼻を鳴らした。
「立ち姿は悪くないな。だが、試験はそれだけじゃ――」
言い終わる前だった。
レオルドの踏み込みが、一瞬で間合いを消した。
「っ!?」
騎士が慌てて木剣を合わせようとする。
だが、遅い。
レオルドは相手の木剣を外側へ流し、そのまま喉元へ木剣を止めていた。
あまりに自然だった。
あまりに速かった。
一瞬、誰も動けない。
騎士の額に汗がにじむ。
「……勝負あり、ですか?」
レオルドがいつもの調子で聞く。
周囲がざわついた。
「今の見えたか?」
「三〇一番、速すぎるだろ……」
「試験官、完全に取られてたぞ……」
試験官の騎士が、苦い顔で木剣を下ろす。
「……三〇一番、合格だ」
「ありがとうございます」
レオルドはぺこりと頭を下げた。
本人はあまり分かっていないが、かなり目立っていた。
一方その頃。
ユウヤは自分の組で、最後の順番だった。
待ち時間が長すぎた。
立っていなければならない。
寝不足。
気温は高い。
周囲では木剣の打ち合う音が続く。
結果――ユウヤは立ったまま寝ていた。
「……おい」
反応がない。
「おい、三〇〇番!」
まだ反応がない。
ついに試験官の騎士が怒鳴った。
「おい起きろ! 三〇〇番! 不合格にされたいのか!!」
「……あ?」
ユウヤがようやく目を擦った。
欠伸を一つ。
足元は少しふらついている。
試験官の騎士の眉間に深い皺が寄った。
「貴様、舐めているのか?」
「いや……待ち時間長くて……」
「もういい。さっさと終わらせてやる!」
騎士が苛立ったまま木剣を振りかぶり、間合いを詰めてくる。
その瞬間。
ユウヤのベルトから、音声が鳴った。
『観測されました』
「変身」
半分寝ていた。
条件反射だった。
完全にいつもの癖でポーズを取っていた。
黒い光が走る。
コート。
グローブ。
眼帯の奥に灯る熱。
一瞬で、訓練所の空気が変わった。
騎士の木剣が振り下ろされる。
ユウヤはそれを、素手で掴んで止めた。
「なっ……!?」
試験官の顔が引きつる。
周囲が息を呑む。
ユウヤは眠たげな目のまま、低く言った。
「貴様か? 我の眠りを妨げたのは」
次の瞬間。
騎士の腹へ、蹴りがめり込んだ。
「がっ――!?」
騎士の身体が浮き、そのまま後方へ吹き飛ぶ。
地面へ叩きつけられた試験官は、そのまま動かなかった。
訓練所がしんと静まる。
数秒遅れて、ざわめきが爆発した。
「なんだ今の!?」
「服が変わった……!?」
「また騎士が負けた……!」
「今日、二人目だぞ!」
「いったい、どうなってんだ!?」
ユウヤはそこでようやく目を覚ましたみたいに周囲を見回した。
「……あ」
まずい。
完全にやった。
ユウヤは慌てて変身を解除する。
黒い装いがほどけるように消え、いつもの姿へ戻った。
だが、もう遅い。
訓練場の視線が全部こちらへ向いていた。
試験官も、受験者も、周囲の騎士たちも、全員がユウヤを見ている。
ユウヤは引きつった顔のまま、小さく呟いた。
「……あっ、詰んだわ」
目立たず潜り込んで、静かに情報を探る。
そのはずだった。
なのに、思いきり目立ってしまっていた。




