第94話「3日で受かれ」
宿に戻った後、ユウヤとレオルドは早速机に向かっていた。
机の上には、アルヴェルトから借りてきた教材が山積みになっている。
文字の書き取り。
帝国の歴史と文化。
簡単な計算。
騎士団試験の過去問らしき紙束まであった。
ユウヤは左手でぎこちなくペンを握る。
右腕はまだ満足に使えない。
そのせいで、ただ文字を書くだけでも妙に肩が凝った。
「クソ……めんどくせえ……」
ぶつぶつ文句を言いながら、見本を見ては線をなぞる。
帝国の文字は読める。
意味も分かる。
だが、自分で書くとなると話は別だった。
線の角度がずれる。
字の大きさが揃わない。
一文字書くだけで無駄に神経を使う。
その横で、レオルドが頭を掻きながら口を開いた。
「ユウヤさん。ひとつ銅貨二枚のリンゴを四つ買うと、いくらになるんですか?」
「は?」
ユウヤは顔を上げた。
「銅貨八枚に決まってんだろ」
「ありがとうございます」
レオルドは素直に頷き、また教材に目を落とす。
しばらく部屋には、紙をめくる音と、ユウヤがペン先をぎこちなく走らせる音だけが響いた。
そして数分後。
「すみません」
「今度は何だよ」
「銅貨二枚のリンゴを大銅貨一枚で買ったら、いくらお釣りが返ってきますか?」
「銅貨八枚だ」
そこまで答えてから、ユウヤは手を止めた。
「……ん? ……お前、引き算も出来ねえのか?」
レオルドは教材を見ながら真顔で答える。
「この教材、なかなか難しくて……」
ユウヤはしばらく黙った。
それから、心底嫌そうに呟く。
「……こいつマジで終わってる」
だが、終わっていたのはそこだけではなかった。
「ユウヤさん。大銅貨って銅貨何枚分でしたっけ?」
「ユウヤさん。この年表、どこから覚えればいいんですか?」
「ユウヤさん。建国って何ですか?」
「ユウヤさん。帝国の初代皇帝の名前、長くないですか?」
「集中できねえ!!」
ついにユウヤが机を叩いた。
レオルドがびくっと肩を跳ねさせる。
「わ、私は真面目にやってますよ!?」
「壊滅してんじゃねえか! 分かんねえならアルヴェルトに聞いてこい!! 俺は今、文字を書くので手一杯なんだよ!」
「えっ、追い出す気ですか?」
「追い出す!! 今すぐ行け!!」
レオルドは不満そうな顔をしながらも、教材を抱えて立ち上がった。
「分かりました……では、アルヴェルト殿下に聞いてきます」
「二度と戻ってくんな」
「それは困ります」
そう言い残して、レオルドは部屋を出ていった。
扉が閉まる。
静かだった。
あまりにも静かで、ユウヤは思わず深く息を吐いた。
「……やっと集中できる」
ユウヤは机に向き直る。
文字の教材。
歴史と文化の本。
計算の問題集。
計算は大したことがない。
問題は文字と歴史だった。
文字は読める。
だから、まったくのゼロではない。
形を真似して、何度も書けば、意外と頭に入る。
ついでに、書き取りの題材を帝国の歴史にすれば、文字の練習と暗記を一緒にできる。
ユウヤは歴史の本を開いた。
「初代皇帝ヴァルツェンシュタイン一世……長えな」
文句を言いながらも、書く。
一文字ずつ。
何度も。
形をなぞって、崩れて、直して、また書く。
最初は酷い字だった。
だが、繰り返すうちに少しずつ形になっていく。
帝国の建国。
皇帝の名。
騎士団の成立。
レグナとの関係。
書いて、覚える。
覚えて、また書く。
今はレオルドのことは頭から消し去る。
あいつを気にした瞬間に集中が切れる。
それはさっき嫌というほど分かった。
「北方遠征……騎士団再編……」
ぶつぶつ呟きながら、ユウヤはひたすらペンを走らせ続けた。
一方その頃。
ユウヤに追い出されたレオルドは、とぼとぼとアルヴェルトのいる酒場へ向かっていた。
まだ夕方前で、酒場は開いていない。
だが中では開店準備が進んでいるらしく、食器の音や椅子を引く音が聞こえてくる。
扉を開けると、アルヴェルトが樽の上で帳簿を広げていた。
「おや。どうしたんだい?」
「ユウヤに追い出されました」
レオルドが正直に答えると、アルヴェルトは一瞬きょとんとしてから苦笑した。
「……まあ、そうなるだろうね」
「ユウヤさんが、集中できないから出ていけと」
「うん。それは正しい」
「酷いです」
「君が壊滅してるのが悪い」
アルヴェルトはそう言って、教材を手に取った。
「じゃあ少し見ようか。まずは計算から」
「お願いします」
二人は隅の机に向かい合って座る。
アルヴェルトが問題を指差した。
「ひとつ銅貨二枚のリンゴを四つ買うと?」
「七枚?」
「違う」
「では六枚?」
「違う」
「……五枚?」
アルヴェルトはしばらく黙った。
次の問題へ行く。
「じゃあ、大銅貨一枚は?」
「……大きい銅貨一枚です」
「いや、そうなんだけど」
さらに次。
「銅貨三枚の酒を二つ買ったら?」
「ええと……五枚でしょうか」
アルヴェルトの手が止まる。
そのまま、ゆっくりレオルドを見る。
レオルドは真面目だった。
ふざけている顔ではない。
「……なあ」
「はい」
「本当に分からないのかい?」
「はい」
アルヴェルトは静かに教材を閉じた。
表情はいつも通り穏やかだ。
だが、目だけは妙に遠くを見ていた。
(これは……ユウヤくんに賭けるしかないかもしれない)
そんなことを考えた、その時だった。
「アル! こんなところでサボらない!」
店の奥から、よく通る女の声が飛んできた。
現れたのは酒場の女主人、ミレナだった。
長い黒髪をひとつに束ね、布巾を肩にかけたまま、こちらへずんずん歩いてくる。
「開店前だってやることは山ほどあるの。ぼさっと座ってない!」
「いや、少し勉強を――」
「あと、そこの金髪!」
ミレナの指がレオルドへ向く。
「はい?」
「突っ立ってないで、アンタも手伝いなさい!」
レオルドが目を丸くする。
「私もですか?」
「他に誰がいるのよ」
「ですが、私は今、計算を――」
「だったら余計に丁度いいわ。働きながら覚えなさい」
アルヴェルトが小さく肩をすくめた。
「ミレナに捕まったなら諦めた方がいい」
「そんな……」
「ほら、皿運ぶ! テーブル拭く! 動く!」
「は、はい!」
こうして、レオルドはなし崩し的に酒場の手伝いへ回されることになった。
そして、夕方。
酒場が開くと、店の中は一気に戦場と化した。
商人。
御者。
護衛。
騎士崩れ。
雑多な連中が、酒と笑い声を運んでくる。
レオルドは最初こそ右往左往していた。
「麦酒二つ!」
「はい!」
「串焼き三本追加!」
「はい!」
「会計こっち先!!」
「え、ええと……!」
そして当然のように、会計で詰まる。
「麦酒が銅貨三枚で二つ、串焼きが銅貨二枚で……」
「合計は?」
ミレナに睨まれ、レオルドの額に汗が滲む。
「ええと……七枚ですか?」
「八枚よ」
「……あ」
「“あ”じゃないの。三が二つで六。そこに二を足して八。こんなの指折らなくても出しなさい」
「難しいですね……」
「難しくないわよ!!」
次の客。
「おい兄ちゃん! 大銅貨一枚な!」
「はい! ええと……八枚だから、お釣りは……」
レオルドの口が止まる。
ミレナが即座に言う。
「二枚!」
「二枚です!」
「遅い!」
「はい!」
だが、何度も繰り返すうちに、少しずつ頭に入ってきた。
酒が三枚。
二つで六。
串焼きが二枚。
合わせて八。
大銅貨一枚なら十。
なら、お釣りは二。
「こっちは葡萄酒二つとつまみ一つ!」
「葡萄酒が四枚で二つ、つまみが二枚で……十枚です!」
ミレナがちらりと横目で見る。
「……遅いけど、さっきよりマシね」
「ありがとうございます」
「褒めてないわよ」
怒られながら、覚える。
教材を眺めている時より、よほど頭に入った。
お金が実際に動く。
客が待っている。
間違えればすぐ怒られる。
だから嫌でも覚えるしかない。
その様子を、グラスを拭きながら見ていたアルヴェルトが、小さく呟いた。
「なるほど……」
「どうしました?」
レオルドが聞き返す。
「君、座って覚えるのに向いてないんだね」
「そうなんですか?」
「うん。頭だけで考えさせると駄目だけど、実際に動かして、身体ごと覚えさせると入る」
レオルドは少し考えてから頷いた。
「確かに、今の方が分かる気がします」
「だろうね」
アルヴェルトは少しだけ笑う。
「……じゃあ、歴史もそのやり方にしようか」
夜の営業が終わったあと。
レオルドは酒場の従業員室でアルヴェルトと一緒に泊まることになった。
狭いが清潔な部屋だった。
寝台が二つと、小さな机。
いかにも住み込み用という感じの簡素な部屋だ。
「では、今から歴史ですか?」
レオルドが疲れた顔で聞く。
「いや、今日はもうやめよう」
アルヴェルトはあっさり首を振った。
「今の君に教科書を読ませても、たぶんあまり残らない」
「酷い」
アルヴェルトは机の上に金と薄い教材、それから一枚の紙を置いた。
レオルドが首を傾げる。
「これは?」
「明日の予定」
紙には細かく文字が並んでいた。
一、昼食を取る。
二、城へ行く。
三、石像を見る。
四、歴史ある広場を回る。
五、できれば褒められる。
六、次の約束を取り付ける。
レオルドが黙る。
「……これは何ですか?」
アルヴェルトは咳払いをする。
「明日は、とある女性とデートしてもらう」
レオルドが瞬きをする。
「……勉強ではなく?」
「勉強だよ」
アルヴェルトは平然と言った。
「君は座って覚えるのに向いてない。だから明日は、街を歩いて、喋って、実物を見ながら覚える。そのための相手も用意してある」
「用意してあるんですか?」
「ミレナに頼んだ」
レオルドは紙を胸に抱え、少しだけ嬉しそうに笑った。
「分かりました。頑張ります」
「うん。頑張りたまえ」
同じ頃、宿では。
ユウヤが机に向かったまま、ひたすらペンを走らせていた。
一度止まると、眠気が押し寄せてくる。
だから止まらない。
国の成り立ち。
騎士団の功績。
過去の戦争。
各年代の皇帝の名前。
書いて、覚える。
覚えて、また書く。
右腕は痛む。
肩も凝る。
目も乾く。
それでも、手は止めない。
「……クソ、長え……」
ぼやきながら、また書く。
窓の外がいつの間にか暗くなり、やがてまた薄く明るくなり始めた頃、ユウヤはようやく顔を上げた。
紙の上には、歪みながらも確かに文字が並んでいた。
汚い。
だが、読める。
それで十分だった。
翌朝。
アルヴェルトは眠たそうなレオルドを連れて、帝都の街へ出た。
「じゃあ始めようか」
「はい……」
「まずは指定された場所へ行く」
「指定?」
「ミレナが相手に声をかけてくれてる」
そう言って、アルヴェルトは薄い教材と紙をレオルドに渡した。
「教科書は持っておきなさい。分からなくなったらすぐ確認すること。それから、この紙の順番通りに動く。変に自己流に走らない」
「分かりました」
指定された広場へ向かうと、噴水の前に一人の若い女が立っていた。
明るい茶色の髪。
化粧も服装も少し派手で、立ち方にも妙な自信がある。
こちらに気づくと、ぱっと顔を上げた。
「え、あなたがレオルドくん?」
レオルドが足を止める。
女は目を丸くしたあと、すぐににっと笑った。
「めっちゃイケメンじゃん!」
レオルドが少しだけ目を瞬かせる。
「……ありがとうございます」
「ミレナに、紹介したい人がいるって言われて来たんだよねぇ。カレンです。よろしく」
「レオルドです。よろしくお願いします」
少し離れたところで、アルヴェルトがこっそり様子を見守っていた。
レオルドは紙をちらりと確認し、いつもの笑顔を作る。
「今日は帝都を案内したいと思いまして」
「案内? へえ、面白そーじゃん」
「ではまず、食事から」
「ふふっ、何? そのメモ」
そこから先は、驚くほど自然だった。
昼食を取り、広場へ行き、城へ向かう。
教科書片手に、レオルドは必死で説明した。
「あちらの石像が、この国を建国した初代皇帝・ヴァルツェンシュタイン一世です」
「へえ?」
「えっと……彼は魔力がとても高くて、凄まじい魔法で八つの小国を統一させたと言われています」
「えー、知らなかったぁ」
「私も今初めて知りました! どんな魔法だったんでしょうね」
「そこは君が説明するところだよ」
少し離れた位置から、アルヴェルトがすかさず突っ込んだ。
カレンがくすくす笑う。
「今の人、先生?」
「ええ、まあ……そんな感じです」
「見張られてるみたいで面白いね」
「ええ、かなり見られています」
正直に言うところは相変わらずだった。
だが、その正直さが妙に受けていた。
城の前では、また紙を見る。
「あちらの城は、帝国暦四二八年に築かれて、その後、四代目皇帝セルシリウス二世によって大規模に改築されました」
「へえー、すご。凄い詳しいじゃん」
「ここに書いてあるので」
「あははっ、本めっちゃ見てるじゃん」
「そこは正直に」
「そういうとこ嫌いじゃないかも」
アルヴェルトは少し離れた位置で腕を組み、静かに頷いた。
やはりこっちの方が入る。
座って本を眺めるより、実物を見て、誰かに話して、反応をもらいながら覚える方がいい。
こいつには、そのやり方が合っている。
その後も、広場、石碑、古い城壁跡を回りながら、レオルドは必死で説明を続けた。
「初代皇帝は?」
「ヴァルツェンシュタイン一世です」
「四代目皇帝は?」
「セルシリウス二世です」
「おー! めっちゃ早い」
「綺麗な女性の前ですから」
「……さらっとすごいこと言うね」
それでも、覚えているなら十分だった。
別れ際、カレンが少しだけ笑う。
「今日は楽しかった。また案内してくれる?」
レオルドは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに頷いた。
「はい。喜んで」
「じゃあ明日、またこの広場で」
「分かりました」
カレンが手を振って去っていく。
アルヴェルトが横に並んだ。
「どうだった?」
「凄く楽しかったです!」
「いや、そうじゃなくて……まあ、いいか」
アルヴェルトは満足そうに頷いた。
「じゃあ今夜は、次のデート……じゃなくて勉強プランを考えようか」
「今、デートって言いかけましたよね?」
「気のせいだよ」
「気のせいではありませんでした」
それでも、レオルドは少しだけ嬉しそうだった。
そんなこんなで。
ユウヤは宿でひたすら文字と歴史を叩き込み、
レオルドは酒場と街を使って計算と歴史を身体で覚えた。
やり方はまるで違った。
だが、二人とも昨日よりは確実に前へ進んでいた。
そして、とうとう試験当日の朝を迎えることになる




