第89話「空を飛んだ日」
リュンダを出てから、さらに三日。
ユウヤ達は街を避け、川辺と森の縁だけを選ぶようにして東へ進み続けていた。
昼は風魔法で加速する。
夜は火を起こして、なるべく目立たない場所で短く休む。
街の灯りが見えても寄らない。
道を聞きたくても我慢する。
食事は保存食。水は煮沸した川水。
リュンダを出た初日、普通に川水を飲んだら二人揃って下痢をしたからだ。
不便だった。
だが、見つかるよりはずっとマシだった。
その日の夕方。
なだらかな丘を越えた先で、ユウヤは漆黒鋼機動輪の速度を落とした。
前方に、石造りの砦が見えた。
高い壁。
見張り台。
門の前に並ぶ荷馬車。
槍を持った兵。
その周囲には、騎士らしき連中だけじゃない。革鎧を着たハンター達までうろついていた。
レオルドが後ろで息を呑む。
「……あれが国境砦ですね」
「だろうな」
ユウヤの声は低かった。
問題はそこじゃない。
明らかに多い。
兵の数も、警戒の空気も、何もかもが多すぎた。
荷馬車は一台ずつ止められ、門前で細かく確かめられている。
砦の外にも人が散っている。
まるで、誰かを待っているみたいに。
ユウヤは舌打ちした。
「ちっ、明らかに俺たちの動きを読まれてるな……」
レオルドもすぐに察したらしい。
「おそらく、各ギルドにある通信機から情報が流れたのでしょう……」
「はぁ……なんで、そこだけハイテクなんだよ……」
真正面から行けば終わりだ。
止められる。
顔を見られる。
騒ぎになる。
だが、迂回している時間も惜しい。
国境は目の前。
越えさえすれば、少なくとも今みたいに堂々とは追えない。
ユウヤは砦と、その周囲の地形を睨んだ。
砦の両脇にはゆるい斜面。
だが、その斜面にも見張りがいる。
街道の外にも何人か散っていて、馬まで用意されていた。
「面倒くせえな……」
思わず漏れる。
レオルドが低く言った。
「どうしますか?」
ユウヤはしばらく黙っていた。
そのまま砦を見る。
騎士。
ハンター。
槍。
門。
壁。
そして、その上の空。
「……上だな」
「はい?」
ユウヤが、口元だけで笑う。
「ちょっとした賭けだが……空から行く」
レオルドが一瞬だけ目を丸くした。
だが、すぐに察したように息を呑む。
「まさか……」
「レオルド」
「はい」
「お前、風魔法の出力、今どこまで出せる」
レオルドは砦を見て、それからユウヤの横顔を見る。
「着地を考えなければ、全開でいけます」
「着地は考えろ」
「ですよね」
ユウヤは漆黒鋼機動輪のハンドルを握り直した。
「一回で決めるぞ」
「分かりました」
その瞬間だった。
遠くの斜面にいたハンターの一人が、こちらを指差した。
「……いたぞ!」
ユウヤのベルトから音が鳴る。
『観測されました』
砦の方でも声が上がる。
「黒髪の男だ!!」
「止めろ!!」
「門を閉じろ!」
一気に空気が変わった。
騎士達が構える。
ハンター達が散る。
斜面の連中がこちらへ向かって走り出す。
ユウヤは低く吐き捨てた。
「レオルド、やるぞ」
ブレイブドライバーへ手をかける。
「変身」
黒い光が走る。
コートが翻り、漆黒のグローブとブーツが現れる。
眼帯の奥で熱が灯る。
さらに、ユウヤはそのまま言い放つ。
「真封印解除」
視界が一瞬だけ青紫に染まる。
全身に冷気が走る。
右目の奥が灼けるように熱い。
だが、それ以上に力が満ちる。
ユウヤは地面へ手をかざした。
「凍てつけ」
次の瞬間、街道の土が一気に白く染まる。
漆黒鋼機動輪の前方。
真っ直ぐ砦へ向かう地面が、磨き抜かれたみたいな氷へ変わった。
さらにその先、せり上がるように巨大な氷の坂が生まれる。
滑走路。
そして――跳躍台。
騎士の一人が叫ぶ。
「何だこれは!?」
ユウヤは漆黒鋼機動輪に跨ったまま、口元を吊り上げた。
「友よ! 我らが真の力、今こそ見せてやろうぞ!」
レオルドが後ろへ飛び乗る。
「ユ、ユウヤ? ど、どうしたんですか? 口調が……」
「ふっ……気にするな。そんなことより風を操るのだ!」
「了解です!」
ユウヤが叫ぶ。
「レオルド! 秘めた力を解放せよ!!」
「はい!!」
次の瞬間。
ごううっ、と背中から凄まじい風が吹いた。
前輪が軽く浮く。
氷の地面で摩擦が消える。
漆黒鋼機動輪が、とんでもない速度で前へ弾けた。
「――ッ!!」
風圧が顔面を殴る。
景色が潰れる。
砦が、一瞬で迫る。
騎士達が目を見開く。
ハンター達が武器を構える。
だが、もう遅い。
ユウヤは吠えた。
「塵どもが道を塞ぐか! ならば、遥か上より踏み越えてくれる!!」
氷の跳躍台へ突っ込む。
漆黒鋼機動輪が斜面を駆け上がる。
風が背を押す。
氷がさらに前へ滑らせる。
そして――跳んだ。
騎士達の頭上。
砦の壁。
構えた槍。
叫ぶ声。
その全部が、一瞬で下へ落ちていく。
「うおおおおおっ!?」
レオルドの声が、風に千切れた。
地面が遠い。
砦が小さくなる。
国境線の柵も、見張り台も、街道も、全部が下へ沈んでいく。
文字通り、飛んでいた。
「はっはっは!! 素晴らしい!! 我らは空を飛んでいるぞ……!」
ユウヤは興奮していた。
飛び越えるどころじゃない。
風魔法の推進力が想定以上だった。
漆黒鋼機動輪はそのまま国境を越え、遥か先まで吹っ飛んでいく。
王国側の騎士もハンターも、もう豆粒みたいだった。
その瞬間。
視界の端に文字が走る。
『真封印解除・発動限界到達』
『強制変身解除を実行します』
ユウヤの顔が引きつった。
「やべえ! 時間切れだ!!」
青紫の冷気が霧散する。
黒い装いがほどけるように消えていく。
右目の熱が抜ける。
一気に力が抜けた。
万能感が消え、代わりに恐怖が襲いかかってくる。
「たっ、高ぇ!! 死ぬ! 死ぬ!」
上空で変身が解けた。
レオルドが妙に明るい声で叫ぶ。
「飛んでますよ!! 最高の景色ですね!」
「んなこと言ってる場合か!!」
だが、漆黒鋼機動輪はまだ飛んでいる。
いや、落ち始めていた。
前方には、帝国側らしい広い草地と、その先の森。
地面がどんどん迫ってくる。
レオルドが今更になって気がつく。
「もしかして、これって……不味くないですか?」
「不味いに決まってんだろ!! 着地! 魔法! 集中しろ!!」
レオルドが歯を食いしばる。
「魔力が少ない……でも、少しなら……!」
最後の魔力を振り絞るみたいに、風が噴いた。
今度は前じゃない。
下から。
横から。
落下の衝撃を削るための、必死な風が吹く。
「耐えてください!!」
「無茶言うな!!」
漆黒鋼機動輪が地面へ突っ込む。
どんっ、と重い衝撃。
一度跳ねる。
二度目で横へ滑る。
草を巻き上げながら、長く、長く地面を削ってようやく止まった。
数秒。
誰も動かなかった。
風も止んでいた。
音もない。
ユウヤは地面に倒れたまま、乾いた喉でようやく言葉を絞り出す。
「……いっ、生きてるよな?」
レオルドも草むらに転がったまま、かすれた声で答える。
「なんとか……」
ユウヤは空を見上げた。
夕暮れに近い空。
遠く、遥か向こうにうっすらと壁みたいな影が見える。
あれが国境砦かもしれない。
もう、戻る気もしなかった。
「……越えたな」
レオルドがゆっくり起き上がり、周囲を見回す。
草地。
見慣れない林。
遠くに続く街道。
そして、王国側の気配はもうない。
レオルドは息を整えながら、小さく笑った。
「はい。もうヴァルディアです」
ユウヤはその言葉を聞いて、ようやく大きく息を吐いた。
帝国領。
本当に越えた。
追手はもうここまで簡単には来ない。
少なくとも、今さっきみたいに堂々と包囲されることはない。
ユウヤは草の上に寝転がったまま、目を閉じる。
「……クソ疲れた」
「初めて空を飛びました」
「当たり前だろ」
少し沈黙が落ちる。
それから、レオルドがぼそっと言った。
「でも、ちょっと楽しかったですね」
ユウヤが片目を開く。
「お前、マジですげえな……」
「ユウヤもテンション高かったじゃないですか」
「そりゃ変身してたからだ」
「変な喋り方してましたね」
「うっせ……」
言いながらも、ユウヤは少しだけ笑ってしまった。
遠くで鳥が鳴く。
風が草を揺らす。
もう王国じゃない。
ここから先は帝国だ。
第一王子アルヴェルト。
その手がかりも、この先にある。
ユウヤはゆっくりと起き上がった。
「……行くか」
レオルドも頷く。
「はい」
二人はまだふらつく身体で、漆黒鋼機動輪を起こした。
王国の外へ。
ようやく、そこまで辿り着いた。




