第88話「逃走」
翌朝。
ユウヤが目を覚ました時、もう日はそこそこ上がっていた。
寝台の上でしばらく天井を見つめる。
身体はまだ重い。だが、昨日までみたいな芯を削られるような疲れは少しだけ薄れていた。
こっちの世界に来てから、ベッドの重要性をものすごく実感している。
隣の寝台では、レオルドがもう起きていた。
こちらに気づくと、すぐに顔を上げる。
「おはようございます、ユウヤ」
「……おう」
ユウヤは上体を起こし、首を鳴らした。
「下、なんか騒がしくねえか?」
言われて、レオルドも耳を澄ませる。
確かに、一階の方が妙にざわついていた。
客の世間話じゃない。
何かを確かめ合っているような、落ち着かない声だ。
ユウヤは嫌な予感しかしなかった。
「……行くぞ」
軽く身支度を整え、二人は部屋を出た。
階段へ向かう。
一段、二段と下りかけた、その時だった。
「ユウヤという黒髪の若い男だ」
「昨日、この宿にそう名乗った客がいる」
「まだこの宿にいるはずだ」
ユウヤの足が止まる。
レオルドもぴたりと固まった。
「……は?」
ユウヤが小さく呟く。
「俺、追われてんのか?」
レオルドの顔が引き締まった。
「もしかすると、レグナの情報が伝わったのかもしれません……」
「昨日、普通に宿とる時に名乗っちまった……クソ」
階下には、宿の主人と町兵らしき男が二人。
その近くには革鎧を着たハンター風の男までいる。
手には紙。人相書きか何かだろう。
ユウヤが舌打ちし、すぐに踵を返しかけた。
その瞬間。
階下のハンター風の男が、ふと顔を上げた。
目が合う。
数秒の沈黙。
そして次の瞬間、男が叫んだ。
「おい! いたぞ!! 手配書の男だ!」
町兵が勢いよく振り向く。
「あいつがユウヤだ!」
「チッ!」
ユウヤは反射で走り出した。
「レオルド、逃げるぞ!!」
「はい!」
二人は階段を蹴るように駆け上がり、途中の廊下をそのまま突っ切る。
後ろから怒鳴り声と足音が追ってくる。
「待て!!」
「裏へ回れ!」
「速えな、クソ!」
ユウヤは舌打ちしながら、昨日使った裏口を思い出した。
宿の奥。
半開きの扉。
そこへ一直線に走る。
扉を蹴り開け、外へ飛び出した。
薄暗い裏路地を全力で走る。
追っ手がどんどん増えていく。
「こっちです!」
逃げてる途中、急に横から小さな声が飛ぶ。
振り向くと、昨日の女だった。
こちらを見た顔は驚いていたが、それでも震えながら手招きしていた。
「昨日の……!」
「説明は後! 早く!」
ユウヤとレオルドは迷わずそちらへ飛び込んだ。
女が二人を連れて走る。
路地を曲がる。
さらに狭い脇道へ入る。
洗濯物が頭上をかすめる。
その奥に、小さな木戸があった。
「ここ、入って……!」
女が開けた先は、物置みたいな狭い空間だった。
空樽と布袋、それに古い道具が雑に積まれている。
「おい、これ……」
「お願い、早く……!」
足音が近い。
ユウヤたちは押し込まれるように中へ入った。
女が木戸を閉める。
その直後。
「おい! 誰か見なかったか!?」
町兵の声が、すぐ外で止まった。
ユウヤとレオルドが息を止める。
女の声は、昨日と同じように少し震えていた。
「えっ……な、何をですか……?」
「黒髪の若い男だ! 今この辺に来ただろ!」
少し間が空く。
女は明らかに怖がっていた。
それでも、震える声で答える。
「さっ、さっき走っていった人なら……表の通りの方へ……」
「表か!」
「急げ!」
足音が遠ざかる。
それでも、しばらく誰も動かなかった。
完全に気配が消えたところで、ようやく木戸が少しだけ開く。
女が覗き込んできた。
「た、多分……もう大丈夫です……」
ユウヤは深く息を吐いた。
「……助かった」
物置から出る。
女はまだ青い顔をしていた。
手も少し震えている。
レオルドが目を丸くしていた。
「庇ってくれたんですか」
「そ、その……」
女は視線を揺らしたあと、小さく言った。
「昨日、助けてもらったから……」
それだけ言うのにも勇気が要るみたいだった。
ユウヤは周囲を確認しながら聞く。
「なんで追われてるか、とか思わねえのか」
女は少し迷ってから、二人の顔を見た。
昨日、自分を助けた男。
今、町兵に追われている男。
その二つを重ねて、それでも小さく首を振る。
「……悪い人には見えません。昨日、助けてくれましたし……」
レオルドが少しだけ息を吐く。
女はおそるおそる続けた。
「あの……この街にいたら危ないですよね……?」
「ああ」
ユウヤは短く答えた。
「このまま東へ抜けたい」
女はすぐには答えられなかった。
けれど、しばらく考えてから、小さく頷く。
「裏の道なら……街外れまで行けます。洗濯場の裏を通って、用水路沿いに進めば……表通りは避けられます」
「知ってるのか」
「た、たまに……嫌なお客さんから逃げる時に……」
そこで女は、はっとして口をつぐんだ。
ユウヤは何も言わなかった。
ただ、少しだけ眉をひそめる。
「……案内できるか?」
女は一瞬だけ怯えた顔をしたが、それでも頷いた。
「は、はい」
三人で路地を進む。
細い裏道。
洗濯物の陰。
壁際に積まれた木箱。
昼でも薄暗い、町の裏側。
女は何度も後ろを気にしながら、それでも前へ進んだ。
途中、遠くで怒鳴り声が聞こえる。
「クソッ、どこに行きやがった!」
「東門の方にも回せ! 捕まえたら遊んで暮らせるぞ!」
女がびくりと肩を震わせる。
レオルドがいつもの無駄に爽やかな笑みを浮かべる。
「そんなに怯えた顔をしていては、綺麗な顔が台無しですよ」
「え……?」
「良かったら今度食事にでも行きましょう」
ユウヤがイラッとした顔でレオルドを叩く。
「てめぇ、こんな時にナンパしてんじゃねえ!」
そんなやり取りを見て、女はクスリと笑っていた。
少しは緊張が解けたようだ。
やがて、用水路沿いの細い土手へ出る。
さらにそこを抜けると、町の外れが見えた。
「……あそこです」
女が指差す。
街道はもうすぐそこだった。
ユウヤが短く息を吐く。
「よし……」
女はそこで足を止めた。
「わ、私はここまでしか……」
「十分だ。本当に助かった」
ユウヤが振り向く。
女は少し俯いたまま、小さく言った。
「昨日の、お礼です……」
レオルドが深く頭を下げる。
「ありがとうございました」
ユウヤも頷いた。
「借りができたな」
「そ、そんな……」
女は困ったように首を振る。
「昨日助けてもらったのを返しただけです……」
少し沈黙が落ちる。
それから、女は躊躇いがちに口を開いた。
「あの……追われてるなら、早くこの国を出た方がいいと思います」
ユウヤが目を細める。
「なんでそう思う」
「……私も色々あって、この国に逃げてきたので……国を出てしまえば、少なくとも今みたいに追われることはないと思います……」
何か、色々と事情があって、この国に逃げてきた経験があるのだろう。
レオルドが小さく頷いた。
「速く国境を越えた方がいい、ということですね」
「あ、はい……たぶん……」
ユウヤは鼻を鳴らした。
「十分だ。それで分かる」
女は少しだけほっとしたようだった。
それから、勇気を出すみたいに顔を上げる。
「あっ、あの……生きて、逃げてくださいね」
ユウヤは一瞬だけ黙った。
それから、短く答える。
「……ああ」
レオルドも頷く。
「必ず」
女は二人を見送るように、一歩だけ下がった。
ユウヤはブレイブドライバーに手をかける。
「出ろ、漆黒鋼機動輪」
黒い光が走り、街道脇に漆黒鋼機動輪が現れた。
ユウヤはハンドルを握る。
レオルドが後ろへ乗る。
「行くぞ」
「はい」
走り出す直前、ユウヤはもう一度だけ振り返った。
「あんたも元気でな」
女は目を丸くしたあと、少しだけ困ったように笑った。
「……はい」
それで十分だった。
漆黒鋼機動輪が、東の街道へ飛び出す。
背後にはリュンダ。
前には帝国。
その間にあるのは、まだ見えない国境と、これから先の面倒事だ。
レオルドが後ろで言う。
「昨日の行いが返ってきましたね」
「そういう綺麗な話かは分からねえけどな」
「ええ、綺麗な人でした……」
「綺麗な“話”な! 話!」
ユウヤが訂正し、レオルドが急に真面目な顔で続ける。
「とにかく、急いで国境を越えた方が良さそうです」
「だな」
ユウヤは短く答えた。
「のんびり宿で寝るのは国を出てからだな」
「それがいいと思います」
「お前、次は宿の主人に名前聞かれた時、絶対に本名言うなよ」
「ユウヤが先に言ったんでしょう?」
「うるせえ。お前も言ってたろ」
レオルドが苦笑する。
ユウヤは前を見た。
東へ。
帝国へ。
国境を越えるまでは、まだ安心できない。
「飛ばすぞ」
「はい」
漆黒鋼機動輪が、再び加速する。
少なくとも今は、まだ前へ進めている。
それで十分だった。




