第84話「王の密書」
広間の空気が、静かに張り詰めていた。
ルークの手の中には、小さな革袋。
王家の紋章が刻まれた印と、王が最後に託したものが入っている。
誰も口を開かない。
ルークはしばらく袋を見つめていたが、やがて紐を解いた。
中から出てきたのは、王家の紋章が刻まれた印と、二通の紙だった。
一つは簡素に折られた短い手紙。
もう一つは、丁寧に畳まれ、王の印で封じられた正式な文書。
ルークの眉がわずかに動く。
「二通……?」
リアが不安そうに顔を覗き込む。
その時、ヘルガが低く口を開いた。
「……悪いが、ここから先は席を外した方がいい」
広間が静まる。
エマが少しだけ目を見開く。
トムも姿勢を正した。
グレッグは眉をひそめたまま、ルークの手の中の革袋を見る。
ヘルガは続けた。
「聞かせたくねえって意味じゃない。だが、知ればお前らまで後戻りできなくなる。今は知らない方がいい」
しばらく沈黙が落ちた。
最初に鼻を鳴らしたのはグレッグだった。
「……十分もう戻れねえ気もするがな」
ぼそりとそう言ってから、肩をすくめる。
「ま、いい。そこまでの話なら外してやるよ」
トムも慌てて頷いた。
「お、俺も廊下にいます。何かあったらすぐ呼んでください」
エマはリアを見た。
ほんの少し迷った顔をしたあと、やがて小さく頷く。
「リアさん」
リアもその視線の意味を理解したらしい。
寂しそうにしながらも、ゆっくり頷いた。
「……はい」
エマはその返事を聞いてから、静かに下がる。
グレッグとトムも続いた。
扉が閉まり、広間には
ユウヤ、ルーク、リア、ヘルガ、レオルド。
王家の秘密を知るべき者だけが残った。
静けさが、さっきまでとは違う重さを持つ。
ルークは先に、簡素な方の手紙へ手を伸ばした。
「……こっちからだな」
紙を開く。
そこに並んでいたのは、王の、けれど王としてではなく、父としての筆跡だった。
ルークは最初の一文を見た瞬間、息を止めた。
「お兄様?」
リアの声に、ルークはすぐには答えられない。
喉が詰まったみたいに一度唇を噛み、それから、ゆっくり読み上げた。
「『もし、ルーク、お前がこの手紙を読んでいるなら――私に何かがあり、この国に危険が迫っているのだろう』」
広間の空気が、さらに重くなる。
ルークは続ける。
「『だからこそ、お前にこれを託す』」
ルークの手が、わずかに震えた。
「『まず、リアを守れ』」
「『誰も軽々しく信じるな』」
「『そして、この文書をアルヴェルトへ届けろ』」
リアが小さく息を呑む。
「父様……」
ルークの声は止まらない。
「『お前は逃げるのではない。繋ぐのだ』」
「『アルヴェルトが戻るまで、王家を絶やすな』」
最後の一文を読んだところで、ルークは一度目を閉じた。
静まり返った広間に、誰の息遣いもはっきり聞こえる気がした。
今度はもう一通へ手を伸ばした。
王の印を割る。
そこに記されていた文字は、さっきの手紙よりもずっと硬く、正式な文書として整えられていた。
ルークは一度だけ息を整える。
「こっちは……正式な文書だ」
そして、読み上げた。
「『我が身に異変あらば、第一王子アルヴェルトを正統なる王位継承者と定める』」
その一文だけで、場の空気が変わった。
ヘルガの目が鋭く細まる。
レオルドも、初めてはっきりと表情を引き締めた。
リアはルークの袖をぎゅっと掴む。
ルークはそのまま読み進める。
「『本書は、王家の正統を示す』」
「『これを以て、アルヴェルトを次代の王とする意思とする』」
最後まで読み切った瞬間、ルークは文書を持ったまま動けなくなった。
誰も、すぐには言葉を発せなかった。
王の遺した意思。
父の願い。
それが今、こんな形で目の前にある。
最初に口を開いたのはヘルガだった。
「……これではっきりしたな」
レオルドが静かに言う。
「王の正式な意思表示ですね」
「ああ」
ヘルガは短く頷いた。
「だが、やはり問題が一つあるな」
ルークが顔を上げる。
「……問題?」
「こんなもんを第二王子側に突きつけたところで、偽物だの、ルークが勝手に作っただの、どうとでも言ってくる。王都はもう向こうの手の内だ。文書一枚で全部ひっくり返せるほど甘くねえ」
レオルドが続けた。
「なるほど……アルヴェルト殿下本人が必要なんですね」
「ああ」
ヘルガは短く答える。
「王の遺志と、正統継承者本人。この二つが揃って、ようやく向こうの筋書きを崩せる」
リアはルークの隣で、二通の紙を小さく見つめていた。
「父様は……最初から……」
「警戒してたんだろうな」
ユウヤが言う。
「でなきゃ、こんなもん隠して持たせねえ」
ルークは文書を握りしめる。
「僕は……ただ逃がされたんじゃなかったんだな」
その声に、ユウヤが横から言った。
「当たり前だろ」
ルークがそちらを見る。
ユウヤは腕を組んだまま、いつも通りの顔をしていた。
「王様はお前に託したんだ。リアを守って、これを守って、アルヴェルトが戻るまで繋げってな」
ルークの喉がわずかに動く。
「……ああ」
小さく、だが、はっきりと頷いた。
ヘルガが話を戻す。
「これで決まったな」
全員の視線が向く。
「密書は鍵だ。だが、鍵だけじゃ扉は開かない。アルヴェルトを見つけ出して、こいつを持ち帰る。それしかない」
レオルドが文書を見ながら、静かに言う。
「ヴァルディア帝国で何があったのかも、調べる必要がありますね」
「そういうことだ」
ヘルガは頷く。
ユウヤが鼻を鳴らす。
「偶然なわけねえしな」
その声には苛立ちが混じっていた。
「第二王子の裏に蛇架。第一王子は帝国で行方不明。ルークとリアは処刑されかけた。ここまで揃ってて偶然なら、逆に笑うわ」
ヘルガも否定しなかった。
「急ぐ必要がある」
そう言って、ユウヤとレオルドを見る。
「お前ら二人で行ってくれ」
リアが、寝台のある奥の部屋を見てからユウヤを見る。
ルークも低く言った。
「……頼む」
ユウヤはしばらく黙っていた。
セシル。
ルーク。
リア。
店。
第二王子。
白い外套。
全部が頭の中で渦を巻く。
だが、止まっている暇はない。
「……分かった」
短く、それだけ答える。
ヘルガが頷く。
「なら夜明けと同時に出てくれ。準備はこっちで済ませる。ルーク、二通ともお前が持て。アルヴェルト殿下を見つけたら、直接渡せ」
「分かった」
ルークは二通の紙を丁寧に折り直し、王家の印と一緒に革袋へ戻した。
その手つきは、さっきまでよりずっと慎重だった。
ヘルガが扉を開ける。
「入っていいぞ」
待っていたエマたちが、すぐに広間へ戻ってきた。
グレッグがルークたちの顔を見回す。
「決まったのか」
「ああ」
ヘルガが短く答える。
「ユウヤとレオルドを帝国へ向かわせる」
エマが息を呑み、トムがぱっと顔を上げた。
「帝国って、ヴァルディア帝国っすか!?」
「そうだ。詳しい話はあとだ。今は出発の準備を優先する」
その後の準備は早かった。
ヘルガが保存食と水袋、それに金を出す。
エマは黙って包帯と薬草をまとめる。
トムは使えそうな道具を抱えて走り回る。
グレッグは余計なことは言わず、出入り口や窓の確認をしていた。
そして、まだ空が白みきらない頃。
隠れ家の裏手には、ヘルガが用意した二頭の馬が繋がれていた。
毛並みもよく、脚も太い。
長距離移動用に選んだのだろう。
ヘルガが顎をしゃくる。
「そいつで街道を抜けろ。帝国までずっとってわけにはいかねえが、最初の足にはなる」
レオルドが素直に頷いた。
「助かります」
ユウヤも頷こうとして、ふと馬と目が合った。
黒い方の馬が、じっとこちらを見る。
「……」
「……」
ユウヤがそっと手を伸ばした、その瞬間だった。
ぶるるっ、と大きく鼻を鳴らした馬が、露骨に顔を背ける。
「あ?」
もう一度手を伸ばす。
今度は一歩下がられた。
「おい」
さらに近づこうとした瞬間、馬が前脚を浮かせる。
「危な――」
レオルドが声を上げるより先に、ユウヤは反射で飛び退いた。
次の瞬間、後ろ脚が飛ぶ。
「っぶな!?」
蹴りだ。
まともに入っていたら洒落にならなかった。
ユウヤが距離を取る。
馬は何事もなかったみたいな顔で鼻を鳴らしている。
グレッグが眉をひそめた。
「……お前、舐められてんじゃねえか?」
「舐められてねえ!」
「いや、完全に舐められてただろ今のは」
トムが必死で笑いを堪えている。
エマも困ったように口元を押さえた。
リアまで少しだけ目を丸くしている。
ユウヤはもう一度だけ馬を睨んだが、今度は向こうが先にぷいと顔を逸らした。
「……いい」
低く言う。
「もういい! 俺はチャリで行くから!」
「チャリ?」
ヘルガが眉をひそめる。
次の瞬間、ユウヤの足元に黒い光が走った。
金属音。
漆黒のフレーム。
太い車輪。
鈍く光る機構部。
異世界には存在しない、ユウヤだけの乗り物。
漆黒鋼機動輪。
レオルドの目が輝いた。
「おお! あの乗り物ですね!」
「そうだよ」
「では私も乗ります」
「お前は馬に乗れるんだからそっちに乗れよ!」
レオルドは真顔で首を傾げた。
「ですが、そのチャリ?という乗り物の方が速いですし、餌もいりません。馬を繋ぐ場所も要りません」
「……確かに……」
ヘルガが深いため息をつく。
「じゃあ馬はいらねえのか?」
ユウヤは漆黒鋼機動輪のハンドルを掴みながら鼻を鳴らした。
「……そうなるな」
レオルドはすでに後ろへ乗る気満々だった。
「分かりました。では、しっかり掴まっていればいいんですね」
「軽く言うなよ。お前、結構漕ぐの大変なんだからな?」
「では、私が前に乗りましょう!」
「嫌だよ。お前、下手くそそうだし」
グレッグがとうとう吹き出した。
重かった空気が、そこでほんの少しだけ軽くなる。
ヘルガが短く言う。
「死ぬなよ」
ユウヤが片手を上げた。
「そっちこそ、こいつら頼んだぞ」
「言われなくてもだ」
ルークは革袋を胸元へ押さえたまま、低く言った。
「……兄上を」
リアも続ける。
「必ず、見つけてください」
ユウヤは頷く。
「見つける」
レオルドも、珍しく真面目な顔で頷いた。
「必ず」
その返事だけで十分だった。
ユウヤは最後に一度だけ、セシルのいる部屋の窓を見た。
まだ眠ったまま。
だが、生きている。
なら、行ける。
「行くぞ、レオルド」
「はい!」
レオルドが後ろへ飛び乗る。
少しだけ車体が軋んだ。
「カッコつかねえな……」
「そうですか?」
次の瞬間、漆黒鋼機動輪は夜明け前の道を勢いよく走り出した。
冷たい風が頬を打つ。
王都はまだ薄暗い。
鐘の音も、人のざわめきも、ここまでは届かない。
背中には、王の遺した意思。
前には、行方知れずの第一王子。
その先には、第二王子と蛇架が待っている。
ユウヤはハンドルを強く握る。
だったら、進むだけだ。
夜明けの気配が空に滲む中、漆黒鋼機動輪はヴァルディア帝国への道を駆け抜けた。




