第81話「凍てつく怒り」
眼帯が、弾けるように外れた。
青紫の右目が開いた瞬間、氷獄の冷気が処刑台を走った。
さっきまで身体へ食い込んでいた見えない圧が、音を立てて砕け散る。
「……貴様だけは」
低く、凍るような声が落ちる。
「ここで殺す」
次の瞬間、ユウヤの姿が消えた。
白い外套の男の懐へ、一瞬で踏み込んでいた。
青紫の冷気を纏った拳が、真正面からその顔面を撃ち抜く。
だが。
男は半歩だけ身体をずらした。
それだけで、拳は空を切る。
「まだ足りぬ!」
ユウヤは止まらない。
左。
右。
肘。
膝。
氷獄の冷気を撒き散らしながら、怒涛の連撃を叩き込む。
処刑台の板が白く染まり、柱に霜が走る。
だが、届かない。
男は受けない。
弾かない。
最小限の動きだけで、すべてを外していく。
見えている。
見えているはずなのに、届く頃にはもういない。
「……その氷、魔術じゃないな」
男が、初めて少しだけ目を細めた。
ユウヤの青紫の右目が鋭く光る。
「貴様のような外道に、我を量る資格などない」
冷気が爆ぜる。
「凍てつけ――氷獄の舞!!」
蒼白い冷気が弧を描いて噴き上がる。
前へ。
横へ。
天へ。
広がる冷気が、処刑台の板を一瞬で白く染め上げる。
柱が凍り、縄が凍り、夜気すら軋んだ。
ルークが思わず息を呑む。
「寒っ……」
リアはセシルを抱えたまま、小さく震えた。
それでも男は、冷気の外にいた。
白い外套を翻し、一歩だけ後ろへ跳ぶ。
ただ、それだけで、氷獄の輪から綺麗に外れている。
「逃すか……!」
ユウヤが低く唸る。
今度は蹴り。
下から跳ね上がるような鋭い一撃。
男は躱す。
その瞬間、ユウヤはズボンに垂れていたチェーンを引きちぎった。
金属音。
躱した先へ、チェーンを鞭のようにしならせる。
氷の粒を散らすチェーンが、男のこめかみをかすめた。
白い外套の裾が、大きく揺れる。
「……!」
わずかに。
本当にわずかにだが、男の身体が押された。
男は無言だった。
その沈黙が、逆に不気味だった。
その時だった。
背後で、セシルの呼吸がまた大きく乱れた。
「っ、は……!」
リアが悲鳴を上げる。
「セシルさん!」
ルークもその身体を強く抱き支える。
セシルの胸元から、まだ黒い瘴気が漏れている。
完全には止まっていない。
いや、内側で何かが暴れているみたいだった。
「ユウヤさん!」
ルークが叫ぶ。
「まだ、セシルさんが――!」
だが、その言葉はユウヤの耳には入らない。
青紫の右目に宿っているのは、怒りと殺意だけだった。
冷気がさらに濃くなる。
処刑台の端に、氷の剣が一本、また一本と生まれる。
ユウヤは右手を払った。
氷剣が一直線に飛ぶ。
男は飛んでくる剣のすれすれを躱していく。
だが、最後の一本だけが外套の袖を掠めた。
白い布の端が凍り、ぱき、と小さく割れる。
さらにその下――左腕が、肘のあたりまで薄く凍りついた。
「……っ」
今度こそ、男の動きがほんの僅かに鈍った。
ユウヤが嗤う。
「捕えたぞ」
床を蹴る。
氷獄の冷気が爆ぜる。
砕けた板の上を滑るように、一気に間合いを潰す。
「氷獄ブレイブパンチ!!」
青紫の光を纏った拳が、男の胸元へ真っ直ぐ伸びる。
男は大剣を差し込んで逸らした。
だが、いつものように完全には流し切れない。
白い外套が大きく翻る。
そのままユウヤは、肘、膝、蹴りと続けざまに叩き込む。
凍りついた左腕が僅かに遅れるたび、男の外套に氷の傷が増えていった。
「どうした」
ユウヤの声は、氷よりも冷たい。
「先ほどまでの余裕が、薄れているぞ」
男はそこで、初めてはっきりと口元を歪めた。
退屈そうでもなく、無表情でもない。
ただ、少しだけ面白そうな笑みだった。
「なるほど……これは本物だな」
その瞬間。
広場の向こうから、風が駆け抜けた。
「ユウヤさん!」
聞き慣れた声。
金髪の男が、疾風みたいに処刑台へ跳び上がる。
レオルドだった。
外套の裾を風に躍らせ、そのまま白い外套の男へ剣を一閃させる。
男は後ろへ退いてそれを躱した。
レオルドは着地と同時に、処刑台の端へ視線を走らせる。
セシル。
ルーク。
リア。
胸元から血を流し、なお黒い瘴気を漏らしているセシルの姿を見て、その表情が初めて険しくなった。
「……不味いですね」
男が、肩を軽く回す。
凍った左腕に目をやり、小さく息を吐いた。
「勇者の末裔か……流石に分が悪いな」
「待て」
ユウヤが低く言う。
「貴様だけは、このまま終わらせぬ」
「……そうか」
男の声は相変わらず平坦だった。
「俺は戦う気は無かったのだがな……」
「逃がすと思うかァ!!」
ユウヤが踏み込もうとする。
その瞬間、男は懐へ手を入れ、小さな青い瓶を放った。
レオルドが反射でそれを受け止める。
「……これは」
「それを飲ませろ」
男の声が静かに落ちる。
「まだ間に合う」
ユウヤの目が細くなる。
「何だと……!」
男は気だるげな目をそのまま向けた。
「はぁ……勘違いするな。あいつはまだ死んでいない」
「……ッ」
「暴走の核を砕いただけだ。あとはそれで瘴気を落とせ」
ユウヤが一歩踏み出す。
だが、その腕をレオルドが止めた。
「ユウヤさん!」
レオルドの声は鋭かった。
「今は彼女が先です!」
その一言で、ユウヤの視線がセシルへ向く。
胸元は血に染まり、呼吸はなお浅い。
ルークとリアが必死に支えている。
今にも意識が途切れそうだった。
男はその様子を見て、さらに一言だけ残した。
「あいつに伝えろ」
気だるげな目が、ほんの一瞬だけセシルへ向く。
「少なくとも、俺がいる限り蛇架がお前を追うことはない。自由に生きろ、と」
ルークが息を呑む。
リアも、目を見開いた。
だが、ユウヤが何か返すより先に、白い外套はもう処刑台の端にいた。
「待て!!」
ユウヤが吠える。
だが、次の瞬間、男の姿は夜の闇へ溶けるように消えていた。
残ったのは、冷気と血の匂いだけだった。
「……っ!」
ユウヤは歯を食いしばる。
追うか。
そう思った、その時だった。
カン。
乾いた音が、腰のあたりで鳴る。
視界の端に、文字が弾けた。
『真封印解除・発動限界到達』
『強制変身解除を実行します』
「――は?」
次の瞬間、全身から一気に力が抜けた。
蒼白い冷気が霧散する。
漆黒の装備が、ほどけるように光へ消えていく。
青紫の右目の光も、すっと薄れた。
眼帯が戻る。
「ぐっ……!」
膝が折れる。
処刑台の板へ片手をつき、ユウヤは荒く息を吐いた。
肺が焼けるように痛い。
身体の芯が空っぽになったみたいに重い。
さっきまでの力が嘘みたいに消えていた。
「ユウヤさん!」
レオルドの声が飛ぶ。
その声で、ユウヤははっと顔を上げる。
セシル。
まだ、セシルが危ない。
「……っ、くそ……!」
ユウヤは無理やり身体を起こし、すぐにセシルのもとへ膝をついた。
レオルドが瓶の栓を抜いた。
「ユウヤさん、口を開かせてください!」
「分かった……!」
ユウヤはセシルの身体を抱き起こす。
「セシル、聞こえるか! おい、しっかりしろ。まだ寝るな」
反応は薄い。
それでも、リアが震える手でセシルの頭を支える。
ルークが唇を噛んだまま頷いた。
「飲ませろ!」
レオルドが青い液体を流し込む。
一瞬、何も変わらない。
だが、数秒後。
セシルの口元から漏れていた黒い瘴気が、ゆっくりと薄れていった。
首筋まで這い上がっていた黒い筋も、少しずつ色を失っていく。
「……消えてる……」
リアが呟く。
ルークが、セシルの手首に指を当てる。
「……まだ、脈がある」
その言葉に、ユウヤの肩からようやく少しだけ力が抜けた。
だが、気は抜けない。
セシルの意識はまだ戻らない。
胸元の傷も深い。
レオルドが即座に立ち上がる。
「治療院へ運びます。急げば、まだ助けられる」
ユウヤは頷く。
そのまま、セシルの身体を両腕で抱き上げる。
軽い。
軽すぎるその身体が、余計に腹立たしかった。
「勝手に死ぬんじゃねえぞ……」
低く、吐き捨てるみたいに言う。
処刑台の上には、壊れた縄と、砕けた板と、冷気の白だけが残っていた。
レオルドが先導し、その後をユウヤはセシルを抱いたまま歩き出す。
ルークとリアもその後を追う。
さっきの男が何者かは分からない。
メルキオも消えた。
けれど――ルークとリアは取り戻した。
セシルの命も、まだ繋がっている。
それだけで今は、前へ進む理由になった。




