第82話「戻れない場所」
治療院の寝台に、セシルは横たえられている。
胸元には新しい包帯が幾重にも巻かれ、止血と鎮静の術式が薄く青く光っていた。
さっきまで肌を這っていた黒い筋は、ほとんど消えている。
だが、顔色はまだ悪い。
リアは寝台のそばに膝をつき、セシルの手を両手で包んでいた。
ルークは少し離れた壁際に立ち、落ち着かないまま何度も拳を握り直している。
ユウヤは寝台の足元で、じっとセシルを見ていた。
治療師が胸元に手をかざし、術式の光を確かめてから、ようやく小さく息を吐く。
「……ひとまず、峠は越えました」
その一言に、リアの肩がびくりと震えた。
「じゃあ……」
「命は繋がっています」
治療師はそう言ってから、すぐに表情を引き締めた。
「ですが、まだ安心はできません。失血もひどいですし、体内に残っていた瘴気の反動も大きい。今夜いっぱいは油断しないでください」
「目は……覚ますんですか」
リアが震える声で訊く。
治療師は言葉を選ぶように、ほんの少しだけ間を置いた。
「それは、まだ分かりません」
優しくはない。
だが、誤魔化しもない答えだった。
リアは俯き、セシルの手をさらに強く握る。
ルークは唇を噛んだまま何も言わない。
ユウヤだけが、寝台の上を見つめ続けていた。
白い。
驚くほど白い。
あれだけ血を流したのだから当然だ。
頭では分かっている。
分かっているのに、腹の奥の重さは消えなかった。
「……死ぬなよ」
誰に聞かせるでもない声が、ぽつりと零れる。
その時、治療院の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、ヘルガとレオルドだった。
ヘルガはまず寝台のセシルを見た。
次にユウヤ、ルーク、リアへ順に目を向ける。
最後に治療師へ視線を止め、短く訊いた。
「生きてるか」
「ええ。まだ危険ですが、ひとまずは」
「そうか」
それだけ返して、ヘルガはユウヤの方へ向き直った。
「状況は厳しい」
室内の空気が、一段重くなる。
ルークが先に反応した。
「……どれくらいですか」
「かなりだ」
ヘルガは即答した。
「処刑妨害の話はもう王都中に回ってる。しかも最悪の形でな」
リアが顔を上げる。
ヘルガは淡々と続けた。
「民衆から見りゃ、処刑の場に魔人みてえな化け物が湧いて、処刑台の近くでセシルが魔人化した。そこへユウヤが乱入して、騎士団まで巻き込んで大騒ぎだ。外から見りゃ、処刑を魔人どもが邪魔したようにしか見えねえ」
ルークの顔が強張る。
「そんな……」
「そんな、で済む話じゃない」
ヘルガの声は冷たい。
だが責めているわけではない。
現実だけを突きつける声だった。
「第二王子側が今ごろ好きに筋書きを作ってるはずだ。第三王子と王女はやはり危険人物だった、今回の混乱も処刑妨害も全部そいつらのせいだ、ってな」
レオルドが静かに言った。
「兄上に少し聞きました。騎士団もざわついてはいるようです」
「ですが、今はまだ……表立ってルークさんたちを庇える空気ではありません」
ユウヤが低く訊く。
「……俺もか」
「ええ」
レオルドは頷いた。
「しっかり顔を見られています。もう隠しきれません」
ユウヤの喉が、わずかに鳴った。
「まずい……店にはエマとグレッグ、それにトムがいる」
ヘルガは腕を組んだまま、淡々と言う。
「そこは大丈夫だ。すでにギルドで保護した」
「店の方は、もう騎士か役人が入ってるだろうがな」
数秒、ユウヤは何も言わなかった。
「そうか……」
それから、ようやく小さく息を吐く。
「……助かった」
ヘルガはそこでようやく、少しだけ表情を緩めた。
「安心するのはまだ早い。お前らもすぐ動くぞ」
それから、話を切り替えるように顎をしゃくる。
「それで……何があったんだ? レオルドから少しは聞いてるが、全容が見えなくてな」
ユウヤはしばらく黙った。
処刑台までの流れを思い返すだけで、まだ奥歯が軋む。
だが、吐き出すみたいに話し始める。
ユウヤは、昨日から今までに起きたことを、できるだけ短く説明した。
ルークとリアを助けに行ったこと。
そこでメルキオという男と遭遇したこと。
ゴブリンキングの変異体と戦い、力を使い果たして捕まったこと。
研究室で血を抜かれ、薬を打たれ、解剖されかけたこと。
セシルに助けられたこと。
目を覚ました時には、二人が処刑されかけていたこと。
そして処刑台で実験体が放たれ、最後に白い外套の男が現れたことまで。
話を聞き終えたヘルガは、短く息を吐いた。
「……その第4席のメルキオってやつは、どうした」
「魔人と戦ってる間に消えていた」
「白い外套の方は」
「そっちも逃げた。最後にセシルに薬だけ残してな」
ヘルガの目がわずかに細くなる。
「最悪だな。手がかりも証拠もなしか……」
そこでユウヤは、少しだけ眉を寄せた。
「蛇架がヤバい連中なのは、前にグレンのギルドマスター……ディルクから聞いた。十年前に暴れたヤバい奴らだってな」
ヘルガは黙って続きを促す。
「けど、十年前ってのは何があったんだ?」
ヘルガは一瞬だけ黙った。
それから、低く言う。
「……今代の魔王が誕生した時だ」
室内の空気が、少しだけ重くなる。
「その年、蛇架は各地で爆破と虐殺を繰り返した。魔人も使った。だが、それ以降は潜み続けている」
ヘルガの目が細くなる。
「噂じゃ、魔王の力に関わってるとも言われてる」
ユウヤは黙って聞いている。
ヘルガは続けた。
「中身が全然見えねえ連中だ。だから十年ぶりにまた動き出したって話が流れた時点で、裏じゃ“何か大きいことが起きる”って警戒されてた」
ルークの拳が強く握られる。
「第2王子の裏に蛇架がいるってことは……」
ヘルガは吐き捨てるように言った。
「この国を獲りにきたってことだ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
寝台の上で、セシルの呼吸だけがかすかに上下している。
やがてヘルガが、窓の外を一度だけ見てから言った。
「ここに長居はさせられない」
治療師が顔を上げる。
「ですが、この子はまだ――」
「分かってる。だからこそだ」
ヘルガの声は揺れない。
「治療院に追手が踏み込んできたら終わる。王族二人に、顔の割れた乱入者、魔人化の目撃者まで揃ってるんだぞ。安全なわけがない」
レオルドも静かに頷いた。
「私も同意見です。ここは目立ちすぎます」
治療師はセシルを見る。
胸元の包帯、淡く光る術式、脈を測る細い指先。
それから、覚悟を決めるように息を吐いた。
「……移すなら、今です。これ以上時間が経つと、逆に動かしづらくなります」
ヘルガが短く言う。
「場所は用意してある」
ユウヤが顔を上げる。
「どこだ」
「ギルド側で押さえてる待避所だ。表向きは閉鎖済みの宿舎になってる。王都の南寄り、商業区から外れたあたりだ。元は遠征帰りの重傷者を一時的に寝かせる場所だった。治療設備は最低限あるし、出入り口も少ない。ここよりはずっとマシだ」
「そんな場所があるのか」
「あるから今こうして言ってんだろ」
ヘルガは淡々と返した。
レオルドが窓の隙間から外を確認する。
「移動なら、私が先導します。裏道の方がいいでしょう」
ヘルガは頷き、ルークとリアを見る。
「お前らも歩けるな」
ルークはすぐに頷いた。
リアも、セシルの手を一度だけ強く握ってから、小さく頷く。
ユウヤは寝台の脇へ行き、セシルを見る。
まだ目を覚まさない。
呼吸は浅い。
胸元の包帯には、じわりと血が滲んでいる。
「運べるか」
治療師が答える。
「無理ではありません。ただし、揺らさないでください。今はそれが一番危ない」
「分かった」
ユウヤはそう言って、セシルの身体へそっと腕を差し入れた。
軽い。
細い。
温度も低い。
人ひとりを抱えているはずなのに、現実味が薄いくらい軽かった。
「勝手に死ぬんじゃねえぞ」
小さく落ちた声に、リアがまた少しだけ目を潤ませる。
ヘルガが外套を翻した。
「じゃあ動くぞ」
そこで一度、ユウヤへ視線を止める。
「いいか。今からお前らは、助けられた被害者じゃない。王都から見りゃ、魔人事件の容疑者だ」
その言い方は容赦がなかった。
だが、間違っていない。
「だから、躊躇うな。戻る場所のことは後で考えろ。今はまず、生き延びる」
そこまで言って、ヘルガは少しだけ間を置いた。
「……だが、ただ隠れてるだけじゃダメだ」
ユウヤが顔を上げる。
ルークも、リアも、ヘルガを見る。
ヘルガは続けた。
「今の状況をひっくり返す方法は、一つしかない」
レオルドの目が、わずかに細くなった。
ヘルガは短く言う。
「継承権第一位――第一王子アルヴェルトを探し出すことだ」
室内の空気が変わった。
ルークが息を呑む。
「兄上を……?」
「ああ」
ヘルガは頷く。
「アルヴェルト殿下は民衆からの評判も高い。今の筋書きをひっくり返せるのは、あの方だけだろう」
レオルドが低く言った。
「……ヴァルディア帝国、ですか」
「そうだ」
ヘルガは答える。
「何者かに襲われ、重傷を負った……そこまでは確認されている。だが、それ以降の消息が途絶えた。死亡説も流れているが、死体も証拠も出ていない」
ユウヤが眉を寄せる。
「生きてると?」
「断言はできない」
ヘルガは即座に言った。
「だが、生きてる可能性があるなら探す価値はある。今の王都を真正面からひっくり返せるのは、あの人だけだ」
ルークは悔しそうに拳を握った。
だが、反論はしない。
自分では足りない。
それが分かっている顔だった。
ヘルガはユウヤとレオルドを見る。
「ユウヤ、レオルド。お前ら二人で探し出せ」
レオルドは一瞬だけ黙ったあと、静かに頷いた。
「分かりました」
ユウヤが目を細める。
「お前、王都を離れていいのか」
レオルドは少しだけ首を傾げた。
「大丈夫でしょう。多分」
ヘルガがすぐに眉をひそめる。
「多分で言うな」
「でも、向こうも一度引くはずです」
レオルドは悪びれずに続けた。
「今はその隙を使うべきでしょう。ここで動かなかったら、もっと面倒になります」
ヘルガは小さく息を吐いた。
「……まあ、言いたいことは分かる」
それから短く頷く。
「ルーク、リア、セシルはあたしが責任持って守る。だから、お前ら二人でヴァルディア帝国へ行け」
リアが、寝台の上のセシルを見てからユウヤを見る。
ルークも低く言った。
「……頼む」
ユウヤはしばらく黙っていた。
セシル。
ルーク。
リア。
店。
第二王子。
白い外套。
全部が頭の中で渦を巻く。
だが、止まっている暇はない。
視界の端に、文字が浮かぶ。
『クエストクリア:ルークとリアを取り戻せ』
『報酬:ヒーローポイント30』
一拍置いて、もう一行。
『クエスト発生:第一王子アルヴェルトを探し出せ』
『報酬:ヒーローポイント20』
ユウヤは小さく息を吐いた。
「……分かった」
短く、それだけ答える。
ヘルガが頷く。
「じゃあ、まずは隠れ家だ。話の続きはそこでやる」
治療師が必要な薬と包帯を小箱へ詰める。
レオルドが先に外の様子を見に行く。
ルークはリアの肩へ手を添えた。
扉が開く。
夜気が差し込む。
ユウヤはセシルを抱いたまま、その暗さへ足を踏み出した。
レグナの夜はまだ続いている。
どこかで鐘が鳴り、どこかで人が騒いでいる。
だが、自分たちの居場所だけが、そこから切り離されたみたいだった。
もう、前みたいには戻れない。
その現実だけを胸の奥へ沈めたまま、ユウヤはヘルガの背を追った。




