第80話「激昂」
処刑台の空気が、音もなく変わった。
悲鳴も、怒号も、遠くで鳴る剣戟すら、一瞬だけ薄くなる。
広場のざわめきが引いていく中で、そこだけ別の世界になったみたいだった。
ユウヤの背筋が、ぞくりと粟立つ。
反射で振り向く。
そこに、白い外套の男が立っていた。
背には、身の丈ほどもある大剣。
銀色の髪を無造作にかき上げた、気だるげな目をした男。
ただ、そこに立っているだけで空気が変わる。
「……っ」
ユウヤの足が、わずかに止まる。
ルークも、リアも、息を呑んだまま動けない。
ただ一人、セシルだけがその姿を見て、かすかに目を揺らした。
「……あなたは……」
男はセシルを一瞥し、小さく息を吐いた。
「……悪くない目になったな」
ユウヤはなぜか動けなかった。
見えない何かに全身を押さえつけられたみたいに、足が処刑台へ縫い止められる。
浅くしか呼吸が出来ない。
次の瞬間。
男の大剣が、セシルの胸を貫いていた。
血と黒い瘴気が、同時に噴き出す。
セシルの膝が崩れた。
一瞬、何が起きているのか理解できなかった。
だが、次の瞬間には分かってしまう。
セシルが、刺された。
「貴様ァァァァッ!!」
黒い焔が、足元から爆ぜる。
処刑台の板がびり、と鳴り、コートの裾が大きくはためいた。
ユウヤの目には、もう怒りしかなかった。
男は剣を引き抜いた。
どっと血が溢れ、セシルの身体が前へ崩れかける。
ルークが咄嗟に支え、リアが泣きそうな声でその名を呼ぶ。
「セシルさん……!」
男はその光景を見下ろし、口元をわずかに動かした。
「十分だ」
静かな声だった。
「お前の生き様は見届けた」
「黙れ……!」
ユウヤが踏み込む。
まだ身体が重い。
だが、怒りが足を動かす。
半歩。
そのたった半歩の間に、男はもう視界の端へずれている。
「……ッ!」
ユウヤは無理やり拳を振るった。
黒いグローブが唸りを上げ、男の顔面を撃ち抜く――はずだった。
だが、届かない。
避けたようにも見えなかった。
気づいた時には、そこにいない。
「消えた、だと……!?」
怒声と共に左。
続けざまに右。
肘。
膝。
怒涛の連撃。
だが、全部空を切る。
頬をかすめるはずの拳が、夜気を裂くだけで終わる。
蹴りが届く頃には、白い外套はもう半歩外にある。
ルークが息を呑む。
「何だよ……あれ……」
リアはセシルを抱えたまま、震える声で呟いた。
「どうして……」
全く当たらない。
避けているようにも見えない。
その事実だけで、相手の格が分かる。
男は気だるげな目でユウヤを見ていた。
「……面倒だな」
「我を舐めるな……!」
ユウヤの足元から黒焔が噴き上がる。
「焼き尽くせ――漆黒火炎の舞!!」
黒い炎が弧を描き、処刑台の上を一気に薙ぐ。
柱を舐め、板を焼き、夜気を焦がす。
ルークとリアが思わず身を引いた。
それでも男には届かない。
白い外套を翻し、一歩だけ後ろへ跳ぶ。
ただ、それだけで、黒焔の輪から綺麗に外れていた。
「忌々しい……!」
ユウヤがさらに踏み込む。
今度は真正面からではない。
低く沈み、足を払うように蹴りを放つ。
男は跳ぶ。
そこへ拳。
だが、男は空中で半身を捻っただけで外した。
着地の瞬間を狙って、蹴りを放つ。
その時、初めて男の大剣が動いた。
甲高い音。
漆黒のブーツが、白刃に滑らされる。
角度だけで、力の向きを逸らされた。
「……っ!」
ユウヤが目を見開く。
男は表情一つ変えなかった。
「その程度では、何も守れん」
「黙れェ!!」
ユウヤが吠える。
再び拳を振るう。
今度は左。
続けざまに右。
さらに蹴り。
全部、躱される。
見えている。
見えているはずなのに、届く頃にはもういない。
速い、ではない。
何かがおかしい。
男はただ立っているようにすら見えるのに、結果だけが先にある。
それが余計に、ユウヤの怒りを煽った。
「届かぬとでも思っているのか」
黒い焔がさらに濃くなる。
「よいだろう」
「ならば、その余裕ごと焼き裂いてくれる――!」
床を蹴る。
今度は拳ではない。
ユウヤはその場で低く沈み、処刑台の板を砕く勢いで飛び込んだ。
下から跳ね上がるような蹴り。
男は躱す。
だが、ユウヤは最初からそこまで読んでいた。
躱した先へ、もう拳を置いている。
漆黒のグローブが、男のこめかみをかすめた。
白い外套の裾が、初めて大きく揺れる。
「……!」
わずかに。
本当にわずかにだが、男の身体が押された。
「貴様だけは、この手で灰へ還してくれる」
男は無言だった。
その沈黙が、逆に不気味だった。
その時だった。
背後で、セシルの呼吸が大きく乱れた。
「っ、は……!」
リアが悲鳴を上げる。
「セシルさん!」
ルークも振り返る。
セシルの身体が小さく痙攣し、胸元からまだ黒い瘴気が漏れている。
完全には止まっていない。
いや、むしろ、内側で何かが暴れているみたいだった。
ユウヤの視線が、一瞬だけそちらへ揺れる。
男はそのわずかな隙を見逃さない。
白い外套が、音もなく距離を取る。
処刑台の端へ立ち、静かに大剣を担ぎ直した。
ユウヤの肩が怒りで震える。
「逃がすと思うか」
低い声が落ちる。
「貴様だけは、このまま終わらせぬ」
男はその言葉にも、感情を動かさなかった。
ただ、静かにユウヤを見返す。
「終わらせぬ、か」
その声には、嘲りも賞賛もない。
ただ事実を見ているだけの平坦さだった。
「ならば見せてみろ」
その一言が、火に油を注いだ。
ユウヤの右目を覆う眼帯が、じり、と熱を持つ。
嫌な熱だった。
だが、それ以上に今は怒りが勝る。
この男を倒す。
だが、このままでは足りない。
もっと上が必要だ。
さっきまで身体を押さえつけていたあの圧も、まだ完全には消えていない。
「……鬱陶しい」
ユウヤが吐き捨てる。
「この程度の圧ごときで、我が止まると思うな」
右手をゆっくりと眼帯へ伸ばす。
見えない圧が、なおも肩へ、胸へ、足へ食い込んでいる。
けれど、もうさっきまでとは違う。
凍りついていた身体の奥へ、別の力が流れ込んでいた。
それは怒りだった。
それは殺意だった。
それは、目の前の男へ届くためだけに、すべてを踏み越える力だった。
ルークが息を呑む。
リアも涙で濡れた目を見開く。
セシルの呼吸は、まだ不安定だ。
だが今、ユウヤの目に映るのは目の前の白い外套だけだった。
男は大剣を肩へ担ぎ直した。
「……ほう」
ユウヤの右手が眼帯を掴む。
黒いコートの裾が大きく揺れた。
処刑台の空気が、熱ではなく、今度は凍てつくように変わっていく。
「我が右眼に刻まれし枷よ――」
眼帯の奥で、青紫の光が脈打つ。
視界の端で、何かが弾けた。
見えない圧が、まだ肩へ、胸へ、足へ食い込んでいる。
けれど、もう怖くない。
この程度なら砕ける。
壊せる。
ユウヤはゆっくりと顔を上げた。
その目にはもう、怒りだけではない。
冷たく、刺すような殺意があった。
「今こそ砕けろ」
その声が落ちた瞬間。
処刑台の空気そのものが、音を立てて凍りついた。
そして、青紫の右眼が――白い外套の男だけを射抜いた。




