第77話「守りたいもの」
熱いのに、寒い。
胸の奥が焼けているのに、骨の芯は凍るように冷たかった。
視界の端が赤く染まり、鼓動が耳の奥まで響いている。
その向こうで、誰かの笑い声のようなものまで聞こえていた。
それでも、私は倒れなかった。
ここで倒れれば、この子たちは終わる。
ユウヤ様も助からない。
だから、戦わなければならない。
そんな中、意識の奥から昔の匂いが蘇った。
汗と血、それに子供たちの匂い。
蛇架の訓練場だ。
「組織の為に生きて死ね」
暗い部屋で、何度も聞かされた言葉だった。
目を閉じれば、今でもあの声を思い出せる。
組織には、私と同じような子供が大勢集められていた。
親を失った者もいれば、捨てられた者や、どこかで拾われてきた者もいる。
守ってくれる者などいなかった。
世界中には、そういう子供がいくらでもいる。
一人死んだところで、代わりはいくらでも補充できる。
だから皆、生き残るために必死だった。
生き残った者だけが、次の訓練へ進む。
格闘術だけでなく、針や糸、刃物を使った暗器の扱いまで叩き込まれた。
ただ当てるだけではない。
どう持ち、どう隠し、どう相手に気づかせず近づくか。
そういうことを何度も身体に覚え込ませた。
魔物が蔓延る森へ投げ込まれることもあった。
水も火も道具も与えられず、自力で生き延びて訓練場まで戻ってきた者だけが次へ進める。
毒への耐性も同じだった。
最初はごく少量から始まり、舌が痺れ、手が震え、視界が白く霞んでいく。
それでも教官は、ただ「慣れろ」と言った。
実際に慣れることのできた子供は少なかった。
やがて、思い出したくもない訓練も始まった。
口にするのもおぞましいものだった。
拷問を受けても情報を吐かないための訓練。
いや、あれは訓練というより、組織を裏切るという考えそのものを奪うためのものだったのだと思う。
そこを越えた子供たちは目から光を失い、しばらく笑うことも怒ることも、泣くことさえできなくなる者もいた。
それでも私は生き残った。
目標があったわけではない。
ただ死にたくなかっただけだ。
ある日、教官がいなくなった。
任務に失敗し、組織に切られたのだと聞いた。
代わりにやって来たのは、不思議な雰囲気を持つ男だった。
鋭い目をしているのに、怒鳴ることも殴ることもしない。
ただ、こちらを観察するようにじっと見ていた。
「お前はなんの為に生きている?」
そう聞かれ、私は迷わず答えた。
「組織の為に生きています」
男は淡々と言った。
「それでいい。ここにいる以上、組織より優先するものなど作るな。作った瞬間、お前は弱くなる」
その言葉は、当時の私には当たり前のことに聞こえた。
それが組織であり、生き残るということだった。
だが、男はそこで言葉を切った。
ほんの少しだけ、その目が柔らかくなったように見えた。
「……だが」
しばらく黙ったあと、男は続ける。
「……もし、本当に守るべきものができたら……迷うな」
思わず息を止めた。
男は私の目を真っ直ぐ見た。
「そして、そう決めたなら命を賭けて戦え」
その時の私には意味が分からず、理解しようとも思わなかった。
男も、それ以上は何も言わない。
その日も翌日も、訓練はいつも通り続いた。
それなのに、その言葉だけは妙に頭に残り続けた。
やがて、男はいなくなった。
昇進したのか、任務で死んだのかは分からない。
この場所では珍しくもないことで、消えた者についてわざわざ話す者もいなかった。
それでもなぜか、あの男は駒のままでは終わらないような気がした。
それから数年が経ち、私にも一つの任務が与えられた。
「王子と王女を捕らえろ」
最初は簡単な任務だと思った。
要人へ近づく訓練なら、いくらでも受けてきた。
笑顔も礼儀も嘘も、すべて武器として身につけている。
けれど、現実は思っていたようにはいかなかった。
旨味亭ブレイブ。
そんなふざけた名前の店の主人は、ゴブリンの軍団とゴブリンキングを一人で倒したという噂のハンター。
マスクドブレイブ。
蛇架の構成員も、すでに何人も返り討ちにされている。
さらに、王都最強と呼ばれるレオルド・フォン・アルヴェインまで、なぜかあの店に入り浸っていた。
正面から攫うなど不可能だった。
だから私は、“信用を得る”方へ切り替えた。
店で働き、掃除をし、料理を運んだ。
同じ屋根の下で暮らし、リア様と同じ部屋で眠った。
最初は、すべて演技だった。
けれど、その演技はいつしか日々の生活へ変わっていった。
温かい食事があり、笑い声がある。
働けば感謝され、給金も貰える。
休みの日まであった。
本を読み、買い物へ行き、どうでもいい話で笑うこともあった。
そんな時間が、少しずつ当たり前になっていった。
悪くなかった。
ずっとこのままでもいいと、考えたことさえある。
その自分が怖かった。
そして、とうとう合図が来た。
買い出しの途中、足の不自由な老人が近づいてきた。
すれ違いざま、ポケットへ小さな紙を入れられる。
暗号だった。
今夜、王都で騒ぎを起こす。
その隙をつき、王子と王女を西の旧水路口へ連れてこい。
その夜、私は二人を連れて歩いた。
二人は何も疑わず、私のあとをついてきた。
完全に信用されていた。
路地の先には、フードを被った者たちが待っていた。
「よくやった」
その一言で、全部終わった。
ルーク殿下の目が、驚きから憎しみへ変わった。
リア様は何も言わず、ただ悲しそうに私を見ていた。
私は、その目から逃げることができなかった。
「……ごめんなさい」
あの時は、それしか言えなかった。
言い訳もできないし、弁解する資格もない。
任務は終わった。
それでいいはずだった。
なのに、胸の奥には濡れた布を押し込まれたような息苦しさが残った。
何度これでよかった、これが正しいと言い聞かせても、うまくいかなかった。
その夜。
「メルキオ様がマスクドブレイブを捕まえた」
そんな話が聞こえてきた。
生きたまま解剖するらしい。
死んだ方がマシだろうと、誰かが笑っていた。
私は、考えるより先に動いていた。
――守りたいものがあるのなら、命を賭けて戦え。
あの男の言葉が蘇った。
そして今、私はここにいる。
赤く染まった目で全身から黒い瘴気を漏らしながら、ルーク殿下とリア様を背に庇っている。
怖い。
自分が少しずつ、自分ではなくなっていくような感覚がある。
このまま壊れてしまうのかもしれない。
それでも、もう一度この二人を裏切るつもりはなかった。
私はゆっくり息を吐いた。
痛みで視界が滲み、血の匂いがさらに濃くなる。
「……あなたには……渡さない」
掠れた声でそう言って、私は二人の前から動かなかった。




