第76話「償い」
風の壁が唸る。
騎士団と民衆を断ち切るように立ち上がったそれを維持しながら、レオルドは静かに息を吐いた。
ユウヤは処刑台へ向かった。
ならば自分の役目は一つだ。
――彼が辿り着くまで、誰にも邪魔をさせない。
友が初めて自分を頼った。
それだけで、十分だった。
騎士団は命令に従う。
そういう場所だ。
この場にいる者の中にも、この処刑に納得していない者はいるだろう。だが、上の命が出ている以上、止まれない。
だからこそ、傷つけない。
傷つけないということは、傷つけないということだ。
「レオルド!」
兄の声が飛ぶ。
騎士団長クリス・フォン・アルヴェイン。
昔から融通が利かない男だった。いや、今もそうだ。
クリスの剣が、風の裂け目を縫うように走る。
レオルドは半歩だけずれた。
斬撃が石畳を深く抉る。
「当たったらどうするんですか」
「当てるために振っている!」
「兄上は加減というものを覚えるべきです」
「貴様が言うな!」
今度は騎士たちが前へ出ようとする気配。
レオルドは指を軽く払った。
裂けかけた風の壁が、再び厚みを取り戻す。槍の穂先が弾かれ、数人の騎士が思わず足を止めた。
「下がっていてください。怪我をさせたくありません」
「貴様!舐めているのか!」
「舐めるわけないでしょう!不衛生ですし」
「貴様ぁ!!」
兄が怒声を上げ続けている。
それでも視線の端は、ずっと処刑台を追っていた。
ユウヤが剣を受け取った時、正直、少しだけ嫌な予感はした。
持ち方が、あまりにも素人だったから。
そして、その予感は見事に当たった。
「……投げるのですね」
思わず呟く。
ユウヤが一か八かで剣を処刑台へ向けて放る。
レオルドはため息を吐きかけて、すぐに指先へ風を集めた。
それは自分の剣だ。
大事に使ってほしかった。
だが、今は文句を言っている場合ではない。
細い風を刃に絡める。
軌道を整える。
執行役の剣を、横から弾き飛ばす。
その隙にユウヤが執行役に体当たりをしたのが見えた。
よし。
これでひとまず処刑は止まった。
そう思って、兄の剣をいなしながら視線を戻した、その時だった。
「メルキオ!!」
ユウヤの叫びが、広場を裂く。
レオルドは反射で処刑台を見る。
白衣めいた男。
痩せた顔。
温度のない目。
そして、薄い刃。
――魔人。
気づいた時には、もう遅かった。
男の腕が動く。
ユウヤはまだ届かない。
風も、今からでは間に合わない。
その一瞬、処刑台の上へ細い影が滑り込んだ。
黒い髪が揺れる。
ずぶり、と鈍い音。
血が滴る。
「……っ」
レオルドの呼吸が、一瞬だけ止まった。
民衆の悲鳴が、遅れて広場を揺らす。
兄の剣が迫る。
だが、もう視線は処刑台から外せない。
あれは――
「セシル、さん……?」
*
痛い。
最初に来たのは、それだった。
腹の奥へ、冷たい鉄が差し込まれたみたいな痛み。
息を吸おうとしても、喉がうまく動かない。
それでも、セシルは倒れきらなかった。
ルークを背に庇うように、膝をつく。
白い布へ、じわじわと赤が滲んでいく。
「……っ、は……」
視界の端で、ユウヤが目を見開いていた。
ルークも、リアも、声にならない顔をしている。
それでよかった。
間に合った。
「おや?」
メルキオが、薄い刃を払って小さく首を傾げた。
「裏切り者が出るとは……」
セシルは腹を押さえたまま、顔を上げる。
まだ終わっていない。
終わらせない。
ここで倒れれば、この二人は終わる。
ユウヤ様も、もう一度捕まる。
だから、まだだ。
「……まだ……終わらせない」
震える指で、懐へ手を入れる。
細い筒の冷たさが、掌に触れた。
研究室からユウヤを運び出した時、机の端に転がっていた一本。
本当は、使わずに済ませたかった。
それでも今は、これしかない。
メルキオの目が、わずかに細くなる。
「ん? それは……」
セシルは答えない。
首元へ針を当てる。
迷えば終わる。
押し込んだ。
赤い液が、血管へ流れ込む。
「っ……!」
背がびくりと跳ねた。
熱い。
いや、熱いだけじゃない。
焼けるような熱と、骨の芯まで冷えるような寒気が同時に走る。
皮膚の下を、黒い筋が這う。
肩が軋む。
腕の輪郭がぶれる。
喉の奥から、獣みたいな息が漏れた。
「セシルさん……!」
リアの声が震える。
セシルは膝をついたまま、二人の前へ身体を入れた。
まだ倒れない。
まだ意識はある。
赤く染まり始めた目で、まっすぐメルキオを見る。
「……この子たちは……殺させない」
メルキオの顔に、初めて温度が差した。
驚き。
そして、興味。
「なんと……」
その口元が、ゆっくり吊り上がる。
「その濃度で、身体の原型を保っていられるとは……」
黒い瘴気が、セシルの口元から細く漏れる。
指先が震える。
視界が少しずつ赤く染まる。
それでも、ルークとリアの姿だけははっきり見えた。
怖い。
壊れそうだ。
自分が自分でなくなる気配が、すぐそこまで来ている。
けれど、それ以上に嫌だった。
また、裏切ることが。
ユウヤが前へ出ようとする。
「セシル!!」
「……下がって、ください」
掠れた声で、ユウヤへ言う。
おそらく、ユウヤ様はまだ本調子じゃない。
ルーク殿下もリア様も、縄に縛られたまま動けない。
なら、立つしかない。
セシルは歯を食いしばって、ゆっくり片膝を浮かせた。
黒い筋が首筋まで走る。
メルキオが、愉快そうに笑った。
「意識まで保っている!? ……素晴らしい」
その声が、ひどく遠く聞こえる。
セシルはルークとリアを背に、両手を広げるように立ち塞がった。
腹の傷は熱い。
薬は苦しい。
身体は壊れかけている。
それでも、今だけは倒れない。
これが私ができる最後の償いなのだから。
「……あなたには……渡さない」
処刑台の前は、完全に混乱へ落ちていた。
民衆は悲鳴を上げ、騎士たちは動揺し、処刑の空気はもう跡形もない。
その中心で、セシルは赤い目のまま、ただ立っていた。




