第73話「嘘の続き」
第三王子と王女を引き渡した。
それで任務は終わるはずだった。
終わって、次の命令を待つ。
それが組織の“当たり前”だった。
なのに。
胸の奥に、冷たい石が沈んだみたいな重さが残っている。
これでよかった。
これが正しい。
そう思い込もうとしても、どこかで違う声がした。
旨味亭ブレイブ。
湯気の立つ料理。
四人の朝食。
リア様が「おいしい」と言って、ユウヤ様が「そりゃよかったな」と雑に笑う。
ルーク殿下は黙って箸を動かす。
あの時間が、頭から離れない。
……馬鹿みたいだ。
私は蛇架だ。
迷う必要はない。
そう言い聞かせて、暗い通路を歩いていた時だった。
曲がり角の先。
二人の下級構成員が、壁にもたれて話しているのが聞こえた。
「なあ、聞いたか。メルキオ様が例のマスクドブレイブ捕まえたってよ」
「うぇ……よりによってメルキオ様か。生きたまま解剖だろ。死んだ方がマシだな」
短い笑い声。
続けて、もう片方が吐き捨てる。
「違いねえ。血も毒も効きが悪いとかで、メルキオ様が喜んでたって」
息が止まった。
ユウヤ様。
胸の奥の重さが、一気に鋭い痛みに変わる。
任務のために近づいた。
信用を得るために同じ屋根の下で暮らした。
嘘を重ねて、笑った。
そして最後に、裏切った。
それでも。
あの人が“解剖台”に乗せられる光景だけは、想像したくなかった。
頭が勝手に動く。
足音を殺し、二人に気づかれないまま角へ寄って、そのまま離れた。
走らない。走れば目立つ。
でも、止まらない。
通路を抜ける。
階段を下りる。
研究区画へ向かう。
途中、見張りの下級構成員が一人いた。
鍵束を腰に下げ、欠伸を噛み殺している。
私は顔色一つ変えずに近づいた。
「ちょっといいですか?」
男が振り向く。
「何だよ。こんなとこで――」
「セドリック様の使者が来ています。引渡しの件で、メルキオ様を呼んでいると」
男の目つきが変わる。
「引渡し? マジかよ」
「私は別件があるので、伝えて頂けますか。急ぎですので」
嘘は短く。
言い切って、迷いを見せない。
男は舌打ちしながら頷いた。
「分かった分かった。伝えりゃいいんだろ」
その瞬間、私は男の近くをすり抜けるように通り過ぎた。
背中を見せたまま、足音だけは一定に保つ。
角を曲がって影に入ったところで、ようやく息を吐いた。
あとは時間の勝負だ。
研究室へ直接近づくのは危険。
メルキオ様は第4席。
下手をすれば気配で気づかれる。
だから、少し離れた場所で待つ。
研究室の出入りが見える物陰。
数十秒。
扉が開く音。
白衣めいた外套が見えた。
メルキオ様だ。
後ろに黒外套が二人。
器具を持った女もいる。
……全員、出てくる。
予想通りだ。
私が流した嘘に食いついた。
メルキオ様の声が聞こえる。
「引渡し?……ふむ。面倒ですね」
足音が遠ざかる。
完全に通路の先へ消えるまで、私は動かない。
さらに数を数える。
一。
二。
三。
見張りが戻ってこない。
今しかない。
私は研究室の扉へ向かった。
鍵は掛かっている。
だが古い。この程度なら開けられる。
細い針金を鍵穴へ滑らせる。
かちり。
開いた。
扉を押す。
隙間から中を確認する。
人の気配はない。
入る。
白い魔石灯が無機質に光っている。
器具、瓶、針、刃、記録板。
そして、石の台。
そこに、ユウヤ様が載せられていた。
手首と足首は金属輪で固定され、短い鎖が台に繋がっている。
顔色が悪い。唇が乾いている。
呼吸は浅い。
「……ユウヤ様」
名前が、喉から落ちた。
返事はない。
死んではいない。
ただ、強い薬で眠らされている。
私はすぐに手を動かした。
まず鍵。
台の下に鍵束が置かれている。
さっきまで誰かが使っていた形跡。
焦って出ていったのだろう。
鍵を探す。
一つ目、違う。
二つ目、違う。
三つ目。
かちり。
手首の輪が外れた。
次。
足首。
かちり。
外れた。
鎖が落ち、金属音が床へ響きかける。
私は指で押さえ、音を殺した。
時間がない。
ユウヤ様の身体を抱え上げる。
重い。
熱い。
血の匂いがする。
「……すみません」
謝る相手じゃない。
でも、言わずにいられなかった。
ユウヤ様の外套を探し、体へ掛ける。
肩に担ぐというより、半ば引きずるように運ぶ。
研究区画の通路へ出る。
足音を殺す。
角を曲がる。
陰へ入る。
運の悪い遭遇が一つでもあれば終わる。
だが今夜は王都が騒然としている。
人の出入りも多い。
いつもより穴がある。
私は、穴だけを拾って外を目指す。
上へ。
さらに上へ。
表へ出た瞬間、夜の空気が刺さった。
怒鳴り声。
遠くで何かが崩れる音。
王都はまだ、終わっていない。
私は人波を避け、裏路地へ入った。
目立たない道を選ぶ。
灯りの少ない道を選ぶ。
治療院は遠くない。
この人を逃がさなければならない。
それだけで頭がいっぱいだった。
ようやく治療院の灯りが見える。
扉を叩く。
「……急患です」
治療師が飛び出してくる。
外套の隙間から顔色を見て、すぐ理解した。
「中へ!」
私は中へ運び入れる。
台へ下ろす。
治療師が回復魔術の準備を始める。
私は一歩引いた。
足が震えているのに、今さら気づいた。
ここまで来れば、ひとまず――
「……」
私は振り返らない。
振り返れば、戻れなくなる気がした。
治療院の外へ出る。
夜の冷気が頬を打つ。
そして、胸の奥の重さは――まだ消えていなかった




