第70話「王の暴威」
黒い怪物が、床を砕く勢いで踏み込んだ。
速い。
あの巨体で、ありえない速さだった。
振り下ろされた腕を、ユウヤは紙一重で躱す。
直後、石床が爆ぜた。
広間全体が揺れ、壁際の鉄格子が激しく鳴る。
まともに受ければ終わる。
だが、止まれない。
ユウヤは床を蹴った。
黒いコートを翻し、一気に怪物の懐へ潜り込む。
「焼き払え――漆黒火炎の舞」
ユウヤを中心に、黒い焔が弧を描いて噴き上がった。
熱を孕みながら、どこか粘つくような黒焔が怪物の全身へ絡みつく。
腕。
胸。
肩。
背中。
確かに燃え移った。
ヴァルトを焼き続けた、あの消えない炎だ。
だが――
「……消えた?」
黒焔が、じわりと薄れていく。
消されたのではない。
喰われた。
怪物の全身から溢れる黒い瘴気に、呑み込まれるようにして、黒焔が次々と掻き消えていく。
ヴァルトの時は消えなかった。
床を転げ回っても、石壁へ身体を打ちつけても、あの炎は消えなかった。
なのに、こいつには通用しない。
怪物が、何事もなかったみたいに一歩前へ出る。
どくん。
どくん。
どくん。
胸の魔石が脈打つたび、黒い筋が全身へ走った。
メルキオが静かに口を開いた。
「あなたのことは調べあげてあります。かなりの炎の使い手だとか。黒い炎は情報にありませんでしたが……炎への耐性を上げておいて正解でしたね」
ユウヤの目が細くなる。
「小賢しい真似を」
「研究者として当然の備えですよ」
メルキオは怪物を見上げ、淡々と続けた。
「とはいえ、やはり魔石から再生した個体ですね。魔力も瘴気も、予定の十分の一にも届いていない」
「……何?」
「本来なら、もっと美しく、もっと強く、もっと理性的になるはずでした。勇者不在のレグナを蹂躙し、レオルドを確実に殺すための王でしたから」
黒い怪物の胸の魔石が、どくん、と脈打つ。
「あなたがパルマで壊してくれたせいで、急ごしらえの不完全体で妥協する羽目になりましたが……それでも、あなた程度を潰すには十分でしょう」
ユウヤの口元が、わずかに吊り上がる。
「フッ……負け犬の言い訳としては聞くに堪えんな」
その瞬間、怪物が咆哮した。
空気が震える。
石床が軋む。
そして、その巨体がまた信じられない速さでユウヤへ迫った。
右の拳。
左の薙ぎ払い。
さらに頭上から両腕を叩きつける。
ユウヤは全部を躱す。
右へ。
左へ。
前へ。
紙一重で避け続け、そのまま怪物の胸元へ滑り込む。
あそこだ。
胸の奥で脈打つ黒い魔石。
あれが核なら、砕くしかない。
「漆黒ブレイブパンチ!!」
拳が真っ直ぐ胸元へ突き込まれる。
入った――
そう思った瞬間。
「……っ!?」
怪物の胸元を覆う黒い瘴気が、壁みたいに膨れ上がった。
拳が弾かれる。
いや、弾かれたんじゃない。
押し返された。
鈍い衝撃だけが腕に返ってきて、肝心の肉体にはまるで届いていない。
当たったはずなのに、ダメージがない。
怪物の身体は、わずかにものけぞりもしなかった。
不味い。
硬いとか、重いとか、そういう話じゃない。
あの瘴気そのものが防壁になっている。
核へ届く前に、攻撃を全部殺している。
怪物の赤い目が、ぎろりとユウヤを捉える。
やばい。
そう思った瞬間、黒い腕が振り上がった。
「っ――!」
ユウヤは咄嗟に飛び退く。
直後、さっきまでいた場所の石床が粉々に砕けた。
轟音。
破片。
土煙。
「クク……!」
口では笑った。
だが、背中には嫌な汗が流れていた。
前のゴブリンキングとは違う。
あれが“王”なら、こいつは“兵器”だ。
普通の一撃じゃ届かない。
このままじゃ、こっちが潰される。
怪物が再び踏み込む。
今度は低い姿勢からの体当たりだった。
ユウヤは横へ飛ぶ。
それでも肩がかすった。
たったそれだけで、身体が大きく浮く。
「ぐっ……!」
背中から床へ叩きつけられる。
息が潰れる。
肺の中の空気が強引に押し出された。
立ち上がるより早く、怪物の踵が落ちる。
転がって避ける。
石床が陥没し、砕けた破片が頬を裂いた。
次は左の薙ぎ払い。
腕を交差して逸らす。
だが衝撃は殺し切れない。
ユウヤの身体はそのまま横へ吹き飛び、石柱へ叩きつけられた。
「がっ……!」
柱にひびが入り、そのままへし折れる。
瓦礫と一緒に床へ転がり、口の端から血が落ちた。
「やはり出力は高い」
広間の奥で、メルキオが観察記録でも取るみたいに呟く。
「前の個体にはなかった加圧処理が効いていますね。不完全体としては、実によく動く」
「てめえ……!」
「そう睨まないでください。あなたも十分、観察に値しますよ」
反吐が出る。
ユウヤは血を吐き捨て、瓦礫を蹴って立ち上がる。
怪物は待たない。
黒い瘴気を撒き散らしながら、また踏み込んできた。
拳。
蹴り。
振り下ろし。
暴力そのものが形になって襲ってくるみたいだった。
ユウヤは避ける。
避ける。
避ける。
だが、全部は避けきれない。
肩をかすめるだけで身体が浮く。
拳の風圧だけで頬が裂ける。
「ちっ……!」
前のキングと戦った時も、最後まで追い詰められた。
あれですら、限界を超えて力を借りて、ようやく倒せた相手だった。
確かに、あの時より自分は強い。
漆黒の装備がある。
名乗りの補正もある。
黒焔もある。
それでも、なお押し返される。
それくらい力の差がある。
怪物が、両腕を大きく広げた。
嫌な予感。
次の瞬間、全身の黒い瘴気が一気に膨れ上がる。
「なっ――」
瘴気が、爆発みたいに広がった。
黒い衝撃波。
ユウヤは咄嗟に腕を交差して受ける。
それでも身体ごと吹き飛ばされた。
背中から石壁へ叩きつけられる。
「ぐあっ!」
重い。
視界が揺れる。
肺が焼けるように痛い。
血の味がする。
壁から身体を剥がしながら、ユウヤは歯を食いしばる。
メルキオが淡々と言う。
「ふむ……やはり勝負にもなりませんでしたね」
「……はっ」
ユウヤの口が嗤う。
「出来損ないの魔物一体で、よくそこまで悦に入れるものだ」
「結果がすべてです。あなたがここで潰れれば、それで十分」
怪物がまた一歩前へ出る。
どくん。
どくん。
どくん。
胸の魔石が、不気味に脈打つ。
あそこを砕くしかない。
分かっている。
攻撃は単純だ。
でも、一撃でもまともに喰らえばヤバい。
しかも瘴気の防御壁みたいなやつで攻撃が通らねえ。
黒焔も通じない。
正面からぶつかれば、削り切る前にこちらが終わる。
怪物が咆哮する。
次の瞬間、また信じられない速さで距離を詰めてきた。
拳。
左。
右。
さらに頭突き。
ユウヤは全部を躱す。
だが、躱すだけで精一杯だ。
一撃ごとに風が肌を裂く。
踏み込みだけで床が砕ける。
避けるたび、広間のどこかが壊れていく。
怪物の拳が、再び振り下ろされる。
ユウヤは飛ぶように横へ避け、その勢いのまま床を滑った。
視線は怪物の胸から外さない。
魔石を砕くしかない。
だが、半端な一撃では届かない。
このままでは削り切る前に、こちらが潰れる。
怪物が、ゆっくりと首を傾けた。
次の瞬間、黒い腕が横薙ぎに振るわれる。
避ける。
だが、その先へもう一方の腕が落ちていた。
読まれた。
「ぐっ――!」
受けるしかない。
両腕を交差し、真正面から受ける。
骨が軋む。
衝撃で膝が沈み、そのまま床へ叩きつけられた。
石が割れ、ユウヤの身体が半ば埋まる。
怪物の腕がのしかかったまま、さらに力を込める。
「が、ぁ……っ!」
重い。
押し潰される。
このままなら、骨から先に砕ける。
ユウヤは歯を食いしばり、漆黒のグローブへ力を込める。
だが、押し返しきれない。
完全に力負けしている。
その現実が、胸の奥へ冷たく沈んだ。
メルキオの声が降る。
「良いですね。やはり、あなた程度では届かない」
「黙れ……!」
「ええ、そうでしょうね。ですが事実です」
怪物の胸の魔石が、目の前で脈打つ。
どくん。
どくん。
どくん。
あと少し。
指一本伸ばせば届きそうな距離にあるのに、触れることすら出来ない。
瘴気の壁。
圧倒的な膂力。
黒焔を喰う耐性。
普通の戦い方じゃ勝てない。
その時だった。
片目を覆う眼帯が、じり、と熱を持つ。
嫌な熱だった。
だが、その熱は次第に強くなっていく。
まるで、使えと急かすみたいに。
ユウヤは怪物の腕の下で、ゆっくりと右手を眼帯へ伸ばした。
「……我の封印を解く時がきたようだな」
低く呟く。
怪物はなおも押し潰そうとしてくる。
骨が悲鳴を上げる。
呼吸が削られる。
メルキオがその動きを見て、淡々と笑った。
「観念しましたか?」
ユウヤの口元が、血を滲ませたままゆっくりと歪む。
「クク……まだだ」
眼帯の奥で、熱がさらに強くなる。
「貴様ごときの出来損ないに、我が禁忌を使う羽目になるとはな」
怪物が咆哮する。
ユウヤは右手を眼帯に添えたまま、下から怪物を睨み上げた。
使えば勝てる保証はない。
だが、使わなければここで終わる。
ユウヤは眼帯を掴んだ。
広間の空気が、凍るように沈んだ。




