第69話「不完全な王」
旧牢区画の最奥は、そこだけ妙に広かった。
湿った通路を抜けた先。
石造りの円形広間。
高い天井。
壁際に並ぶ古びた鉄格子と、重そうな鉄扉。
だが、人の姿はない。
あるのは、広間の中央に立つ一人の男と――
その背後で、ぬるりと蠢く巨大な影だけだった。
ユウヤの足が止まる。
ルークとリアがいない。
その瞬間、中央に立っていた細身の男が静かに口を開いた。
「ふむ……ヴァルトがやられましたか」
白衣にも似た長い外套。
痩せた顔。
温度のない目。
戦士には見えない。
だが、まとっている空気だけで分かる。
こいつは、ただ者じゃない。
男は、ユウヤを観察するように目を細めた。
「想定より消耗していない。興味深いですね」
ユウヤの口が、低く勝手に動く。
「貴様……何者だ」
男は、わずかに首を傾げる。
「自己紹介を忘れていました。蛇架第四席、メルキオです」
その名を聞いても、ユウヤの視線はすでに男の背後へ向いていた。
そこにいたのは、生き物と呼ぶにはあまりに歪な怪物だった。
異様に膨れ上がった肉の塊。
不自然にねじれた腕。
盛り上がりすぎた背筋。
ところどころ脈打つように光る黒い筋。
理性すら感じられない、血のように赤い目。
全身から、黒い瘴気がじわじわと溢れている。
人型の輪郭だけを辛うじて残した、魔人のような何か。
見ているだけで、生理的な嫌悪がこみ上げた。
ユウヤの眉が寄る。
「……悪趣味だな」
メルキオは肩をすくめた。
「はぁ……あなたのせいなんですがね」
「何?」
「本来なら、もっと完成された姿だったのですよ」
怪物の胸の奥で、どくん、と鈍い光が脈打つ。
その瞬間、ユウヤの背筋に嫌な感覚が走った。
見覚えがある。
この圧。
この質量。
ただ立っているだけで空気を押し潰すような存在感。
間違いない。
ゴブリンキングだ。
だが、前に戦ったあの王とは別物だった。
あの時のキングだって、ロウたちの声がなければ倒せなかった。
ヒーローズ・エールがなければ、俺は確実に死んでいた。
それなのに、目の前のこれは――それより下だとは、とても思えない。
今の自分は、あの時より強い。
装備も、名乗りの補正も、比べものにならない。
それでもなお、はっきり分かる。
力の差がある。
メルキオが、愉快そうに口元を歪めた。
「パルマで、あなたが壊したのでしょう? あの王を」
「……っ」
そこでようやく、目の前の歪な怪物と、あの時のゴブリンキングが嫌な形で重なった。
「魔石からの再構築は、やはり難しい。しかも完全体ではない。多少の歪みは仕方ありません」
メルキオは怪物を見上げた。
「本来なら、勇者がレグナを離れる時を待って放つ予定でした。ですが、あなたが余計なことをしてくれたおかげで、急ごしらえの不完全体で代用する羽目になりました」
ユウヤの目が細くなる。
「この醜悪なる王を、レグナへ解き放つつもりだったか」
「ええ」
メルキオは平然と頷いた。
「勇者ユーリは最大の障害です。ですが、この国にはもう一人、非常に邪魔な男がいる」
その言い方だけで、誰のことか分かった。
レオルド。
「強化した王を投入し、国ごと崩し、そのついでに消えてもらう。合理的でしょう?」
その声には、熱も誇りもない。
ただ、失敗した実験について語るような冷たさしかなかった。
ユウヤの胸の奥で、怒りがじわじわと熱を持つ。
「貴様……」
「おや、怒りましたか?」
「フッ……当然だ」
口が勝手に嗤う。
「貴様のような外道を前に、怒りすら覚えぬほど我は鈍くない」
ユウヤは一歩前へ出る。
「ルークとリアはどこだ」
メルキオは、壁際の重い鉄扉へ視線を向けた。
「あのお二人なら、あちらの部屋で眠って頂いております」
その一言で、ユウヤの全身の神経が張り詰める。
「……何をする気だ」
メルキオは薄く笑った。
「それは明日のお楽しみです」
わずかに言葉を切り、淡々と続ける。
「あのお二人には、まだ大事な役目がありますから」
その言い方だけで十分だった。
ユウヤの胸の奥に、静かな怒りが沈む。
「安心してください。少なくとも、今この場で殺すつもりはありません」
メルキオはそこで、怪物の肩へそっと手を置いた。
「まずは、あなたです」
その瞬間、怪物の全身の筋が一斉に光った。
どくん。
どくん。
どくん。
不快な鼓動が、広間の空気を揺らす。
ユウヤは低く構える。
黒いコートが揺れ、漆黒のグローブが軋む。
「ならば、その歪な王もろとも貴様を終わらせる」
メルキオは淡々と告げた。
「やりなさい」
次の瞬間。
怪物が、一歩前へ出た。
石床が砕ける。
たった一歩で広間全体が揺れ、壁の砂がぱらぱらと落ちた。
「……っ」
速い。
あの巨体で、ありえない踏み込みだった。
次の瞬間には、黒い腕がユウヤの頭上から振り下ろされていた。
ユウヤは咄嗟に飛び退く。
直後、さっきまで立っていた場所の石床が粉々に砕けた。
轟音。
破片。
土煙。
鉄格子の並ぶ広間に、暴力そのものみたいな振動が響き渡る。
メルキオが興味深そうに呟く。
「なるほど。本当にキングを倒す実力はあるようですね」
「……その醜悪な出来損ないを屠った後、次は貴様だ」
口ではそう言った。
だが、今の一撃は軽くない。
触れれば終わる。
そう分かる重さだった。
怪物が、ゆっくり振り向く。
濁った赤い目。
理性のない殺意。
そして、胸の奥で脈打つ黒い魔石。
ユウヤはそれを睨み返した。
「来い」
低く吐き捨てる。
「その出来損ないごと、叩き壊してくれる」
黒い怪物が唸る。
広間の空気が、一気に張り詰めた。




