第68話「黒焔」
旧牢区画へ続く通路は、さっきまでよりもさらに暗かった。
湿った石壁。
足元に溜まる浅い水。
天井から落ちる雫の音。
ユウヤは倒れた見張りを振り返らず、そのまま奥へ進んでいた。
ルークとリアは、この先にいる。
そして――セシルも。
胸の奥に残った嫌な重さは、まだ消えない。
だが、止まるわけにはいかない。
曲がり角を一つ抜ける。
さらにその先へ進んだところで、通路が少しだけ開けた。
その瞬間、ユウヤは足を止める。
いる。
姿は見えない。
だが、空気が違う。
湿った暗闇の奥に、ぬるりとした殺気が潜んでいた。
次の瞬間、ユウヤの口が勝手に開いた。
「そこに潜んでいるのは分かっているぞ……影に潜む毒蛇よ」
(口から勝手に厨二セリフが!?)
数秒の沈黙。
やがて、暗がりの奥から乾いた笑い声が落ちた。
「おや」
聞き覚えのある声だった。
「これは驚きました。まさか、本当に気づかれるとは」
壁の陰から、細い男がゆっくり姿を現す。
ぼさついた髪。
薄い笑み。
腰には短剣。
ヴァルトだった。
南通りでの戦いが、嫌でも頭に蘇る。
分身。
煙幕。
子供を狙った、あの卑劣さ。
ユウヤの口が、低く勝手に動く。
「外道め……今宵こそ、その罪ごと奈落へ沈めてくれる」
(この口調なんなんだよ……)
ヴァルトが首を傾げた。
「……あなた、そんな口調でしたか?」
その問いに答えるより早く、ユウヤの身体が一歩前へ出る。
右手を顔へ添える。
眼帯を隠すように、あるいは見せつけるように。
左手を大きく横へ伸ばし、そのまま静止した。
そして、高らかに名乗る。
「我は漆黒の奈落を統べる、終焉の代行者……!
禁じられし黒焔の封印を解き、滅びの摂理すら捻じ曲げよう!
恐れるがいい、汝らの運命は既に我が掌の上だ!
我が名は、漆黒勇装・マスクドブレイブ!!」
(……もう、いいや)
カン。
『名乗り成功』
『身体能力強化:27倍(基礎)』
『名乗りボーナス:32倍(加算)』
『合計:身体能力強化 59倍』
ヴァルトが、わずかに目を細める。
「なるほど。雰囲気だけではなさそうですね」
「フッ……貴様ごときに、今の我を測れると思うな」
「……本当に面倒ですね」
ヴァルトが両手を広げた。
その瞬間、通路の左右へ同じ姿が八つ並ぶ。
分身。
前と同じ、目障りな幻だ。
八体のヴァルトは、じわじわと間合いを詰めながら、ユウヤを中心に円を描くように動き始めた。
右へ。
左へ。
前へ。
後ろへ。
湿った石床を踏む足音だけが、ぐるぐると重なる。
一体が動いたと思えば、別の一体が揺れる。
視線を向けた瞬間には、もう別の影が間合いへ入り込んでくる。
まるで獲物を弄ぶみたいに、八つの影がユウヤの周りを回り続けた。
「今度も見破れますか?」
八つの声が、同時に響く。
次の瞬間。
八体のヴァルトが、一斉に飛びかかってきた。
前。
後ろ。
左右。
頭上すれすれ。
足元を刈る低い一撃。
四方八方から短剣が走る。
だが、ユウヤは動じない。
半歩ずつ、身体をずらす。
首を傾ける。
肩を引く。
足を上げる。
それだけで、すべてが空を切った。
一撃も届かない。
八つの刃が、ユウヤのいた場所だけを虚しく裂いていく。
「なっ……」
ヴァルトたちの声が、初めて揃って揺らいだ。
ユウヤは冷たく嗤う。
「この程度か?」
さらに一体が正面から突っ込む。
その刃先が喉を狙う。
ユウヤは紙一重でかわし、逆にわざとその懐へ一歩だけ踏み込んだ。
幻が揺らぎ、別の一体が慌てて間合いを取り直す。
「児戯にも等しい。貴様の浅知恵、見るに堪えんな」
右から来た一体の短剣が脇腹を薙ぐ。
ユウヤは腰をひねるだけでかわした。
左からの突きは肘を落として逸らす。
背後から迫る一体には、振り向きざまの蹴りを入れる。
それも本物ではない。
蹴られた影は霧みたいに歪み、そのまま消えた。
「軽い」
「遅い」
「脆い」
吐き捨てるたび、ヴァルトたちの動きが乱れる。
八体がいったん離れた。
通路の奥と手前に散り、再び円を描く。
だが、もう最初のような余裕はない。
「どうした? 先ほどまでの軽口が、無くなっているぞ」
ユウヤは片足を引き、低く構えた。
黒いコートの裾が、ふっと揺れる。
「……そろそろ終焉としようか」
ヴァルトの気配が一瞬だけ強張った。
「漆黒火炎の舞」
次の瞬間、ユウヤを中心に黒い炎が弧を描いて噴き上がった。
前回とは違う。
赤ではない。
黒い焔だ。
熱を孕みながら、どこか粘つくような炎が、通路全体へ一気に撒き散らされる。
八体のヴァルトへ、黒焔が触れる。
一体。
二体。
三体。
炎が触れた瞬間、幻は音もなく掻き消えた。
残る分身も、次々と消える。
「なっ――」
その直後だった。
ユウヤの背後、何もない空間から悲鳴が上がる。
「がああああっ!?」
振り向く。
そこにいた。
幻に紛れて身を潜めていた本体へ、黒焔が燃え移っている。
腕に。
肩に。
外套に。
黒い炎が絡みつくように燃え続けていた。
「見つけたぞ」
ユウヤは一気に床を蹴る。
ヴァルトが目を見開く。
「しまっ――」
もう遅い。
一瞬で懐へ潜り込み、拳を握る。
漆黒のグローブが、ぎしりと鳴った。
「漆黒ブレイブパンチ!!」
鈍い音。
拳がヴァルトの腹へ深くめり込み、その身体がくの字に折れる。
「がっ……!?」
次の瞬間、拳を起点に黒焔がさらに噴き上がった。
「ぎゃああああっ!!」
ヴァルトが床へ転がる。
石床へ擦りつけても消えない。
外套を脱ぎ捨てようとしても消えない。
身体を打ちつけても消えない。
黒い炎は、むしろ苦しむほど深く食い込むように燃え続けた。
「な、なんだこれは……! 消えろ……消えろっ!!」
ユウヤは冷たく見下ろす。
「幻に紛れ、影に潜み、弱き者を嬲る下郎。どうだ?今の気分は」
ヴァルトが歯を食いしばる。
「き、貴様……!」
「貴様は罪なき者たちを魔に堕とし、嘲り、弄んだ」
黒焔に苦しむヴァルトを見下ろしたまま、ユウヤの口が勝手に動く。
「ならば、その炎に焼かれながら苦しみ続けろ」
ヴァルトが絶叫する。
「ま、待て……!」
ユウヤはさらに一歩詰めた。
「ルークとリアはどこだ」
「だ、誰が……!」
黒焔が一気に燃え上がる。
「ぎゃああああっ!!」
「答えればその炎を消してやってもいい」
声が、低く落ちる。
「あの2人は何処だ」
ヴァルトは床を掻きむしる。
汗と脂汗と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死に首を振った。
「し、知らな――」
ユウヤの眼が細くなる。
「虚言は通用しない」
その一言と同時に、黒焔がさらに強く噴いた。
「があああああっ!! わ、分かった! 言う! 言うから!!」
ヴァルトの喉が引きつる。
「あ、あの奥だ! 旧牢区画の一番奥……! そこにいる!!」
「それだけか」
「ほ、本当だ! 言った! 言ったぞ!」
ヴァルトが這うように顔を上げる。
「や、約束しただろ……! 場所を言えば、その炎を消すって――」
ユウヤの口元が、わずかに吊り上がる。
「フッ……悪党との約定など、守る価値もない」
「なっ――」
「罪なき者を魔に堕とし、嘲り、弄んだ貴様が……今さら慈悲を乞うか」
ヴァルトの顔が絶望に歪む。
「ま、待て……! 待っ――ぎゃああああっ!!」
黒焔はなおも消えない。
ヴァルトは床を転がり、石壁へ背を打ちつけ、それでも炎を消すことはできなかった。
ユウヤはもう振り返らない。
「貴様に構っている暇はない」
湿った通路を蹴る。
ヴァルトの悲鳴を背に、旧牢区画の奥へ一気に駆け抜ける。
黒いコートが翻る。
ブーツが石床を打つたび、水が弾ける。
角を一つ。
さらに奥へ。
古い牢が並ぶ通路の先に、ようやく強い灯りが見えた。
最奥。
そこだ。
ルークとリアがいる。
そして、セシルも。
ユウヤは拳を握り直す。
「待ってろ」
低く呟き、さらに速度を上げた。
旧牢区画の最奥は、もうすぐそこだった。




