第67話「崩れたもの」
父上が倒れた日から、城の空気は変わった。
それまでも、父上の顔色が優れない日はあった。
執務の時間が短くなり、食事の量も減っていた。
けれど、誰も口にはしなかった。
王が弱っていると知られれば、それだけで国が揺らぐ。
そんなことは、子供の俺でも分かる。
だから皆、見ないふりをしていた。
だが、ついに父上は人前に立てなくなった。
その上、第一王子のアルヴェルト兄上は、ヴァルディア帝国の視察中に何者かに襲われ、大怪我を負ったまま戻れていない。
父上は倒れた。
兄上はいない。
そして、その隙を埋めるように、第二王子セドリックが城の中で力を持ち始めた。
表向きは、王族の安全確保のため。
王都の混乱を抑えるため。
けれど、宰相はそれを信じていなかった。
だから、あの夜。
まだ空も白みきらないうちに、宰相は俺たちの部屋へ来た。
「ルーク殿下、リア様。今すぐお逃げください」
普段は滅多に顔色を変えない老人だったが、その時ばかりは違った。
焦りが隠しきれていなかった。
「……何が起きた」
俺が聞くと、宰相は一瞬だけ目を伏せ、それから低く言った。
「ルーク殿下とリア様のお命が危ういのです」
隣で、リアが小さく息を呑む。
俺はとっさに妹の手を握った。
「父上は」
「陛下はお休みになられています」
「兄上は」
「まだ戻れません」
分かっていた。
分かっていたけれど、改めて言われると重かった。
宰相は続けた。
「レグナから東へ、しばらく向かった先にカルゴという街があります。まずはそこを目指してください。王城から距離を取り、一度身を隠すのです」
護衛は少数だった。
それも当然だろう。大勢で動けば、それだけで目立つ。
俺たちは急いで外套を羽織り、裏門から馬車へ乗せられた。
リアはずっと黙っていた。
小さな指だけが、俺の袖を強く掴んでいた。
「兄さま……」
「大丈夫だ」
そう言うしかなかった。
大丈夫なわけがないと、自分でも分かっていた。
それでも、兄としてそう言うしかなかった。
馬車は東へ走った。
レグナを出て、カルゴを目指す。
最初は順調だった。
だが、街道の途中で馬車が急停止した。
前方に、三人。
フードを被った男たちが、道を塞ぐように立っていた。
見ただけで分かった。
ただの追い剥ぎじゃない。
護衛がすぐに剣を抜く。
「殿下、走ってください!」
怒鳴り声。
金属音。
馬のいななき。
護衛たちが時間を稼いでくれている。
その間に逃げるしかなかった。
俺はリアの手を掴み、街道脇の森へ飛び込んだ。
枝が顔に当たる。
泥で足が滑る。
それでも止まれない。
レグナ東の森は、王都の外れとは思えないほど静かだった。
街道から少し外れただけで、人の気配が薄くなる。
風が木々を揺らす音と、鳥の声。
それだけが妙に耳についた。
けれど、その静けさも長くは続かなかった。
背後から、枝を踏み折る音。
追いつかれた。
開けた場所に出た瞬間、俺たちは止まるしかなかった。
前に一人。
横に一人。
少し後ろに一人。
三人とも、剣を持っている。
逃がさない配置だった。
俺はリアを背中へ庇った。
終わった。
そう思った。
その時だ。
「おい」
間の抜けた声が飛んできた。
全員の視線が一斉にそちらへ向く。
木陰から出てきたのは、どこにでもいそうな男だった。
少なくとも、その時点では。
そいつは三人組を見て、呆れたように言った。
「大人三人でガキ二人囲むとか、趣味悪すぎんだろ」
返事はない。
フードの奥の殺気だけが濃くなる。
「……分かりやすい悪党なら助かるんだけどな」
男は一歩前へ出て、腕を振った。
「変身」
光が弾けた。
そして、次の瞬間。
「……」
「……」
「……見るな!!」
意味が分からなかった。
本当に分からなかった。
変身したはずの男は、なぜか全裸だった。
しかも、本人が一番慌てていた。
リアが本気で目を見開き、俺も一瞬だけ言葉を失った。
だが、敵は待ってくれなかった。
三人が一斉に斬りかかる。
その男は、俺たちを庇いながら受けた。
押されていた。
三人相手に、守りながら戦っていた。
それでも諦めなかった。
上手く隙を作った男は息を吸い込み、堂々と名乗った。
「俺は、闇を払い光を照らす!
恐れを越えて、救いを掴む!
仮面勇装――マスクド・ブレイブ!!」
そこから先は、ただ圧倒的だった。
三人組は煙幕を使って逃げたが、俺たちは助かった。
それが、ユウヤとの出会いだった。
第一印象は最悪だった。
変な男だったし、全裸だったし、うるさかった。
でも、助けてくれた。
それだけは間違いなかった。
その後のことは、もっと分からなかった。
なぜか俺たちは保護され、旨味亭ブレイブという店の二階で暮らすことになった。
最初は落ち着かなかった。
部屋は城よりずっと狭い。
何をするにも、自分で動かなければならない。
城では着替えも身支度も全部メイド任せだったから、最初はそれだけでも大変だった。
店の手伝いも初めてだった。
皿を運ぶ。
水を汲む。
床を拭く。
言われたことをやるだけで精一杯だった。
グレッグはぶっきらぼうだったが、ちゃんと教えてくれた。
投げ出したり、馬鹿にしたりはしなかった。
エマは優しかった。
リアもすぐに懐いた。
最初は怯えていた妹が、少しずつ笑うようになっていった。
城では、リアと二人で冷めた食事を口に運ぶだけだった。
広い食堂。
静かな机。
豪華なのに、妙に冷たい時間。
でも、あの店では違った。
温かい料理が出た。
誰かが喋っていた。
くだらないことで笑う時間があった。
気づけば、俺はこの生活も悪くないと思うようになっていた。
そして、セシルが来た。
従業員が一人増えた。
最初はその程度の感覚だった。
けれど、あいつが来てから生活はさらに変わった。
部屋は綺麗になった。
温かい食事が毎日出るようになった。
四人で食卓を囲む時間が増えた。
城ではなかったものが、そこにはあった。
だから。
今夜みたいなことは、考えたくなかった。
街で魔人が暴れ始めた時、セシルはすぐに動いた。
「先に逃げましょう」
落ち着いた声だった。
ユウヤは外に出ていた。
店の周りも危なくなっていた。
「兄さま……」
リアが俺を見る。
「大丈夫だ」
またそれを口にする。
大丈夫じゃないと分かっていても、兄としてそう言うしかなかった。
俺たちはセシルについて店を出た。
人の流れを避けるように路地へ入る。
騎士やハンターのいる大通りを外れる。
その時点で、少しだけ違和感はあった。
避難するなら、人の多い方へ向かうはずだ。
なのに、セシルはそうしない。
「どこへ向かってる」
俺が聞くと、セシルは振り返らずに答えた。
「安全な場所です」
それだけだった。
リアはセシルの背を見ていた。
信じていた。
俺も、信じたかった。
一緒に食事をした。
同じ屋根の下で暮らした。
リアが笑っている時、セシルもそこにいた。
だから、違和感があっても飲み込んだ。
けれど、路地を抜けた先で、俺たちは止まった。
前に三人。
後ろに二人。
全員、フードを被っていた。
囲まれた。
俺はすぐにリアを背中へ庇う。
「セシル」
呼ぶ。
返事はない。
ただ、少しだけ肩が揺れた。
フードの一人が笑う。
「よくやった」
その一言で、全部分かった。
心臓が、嫌な跳ね方をした。
セシルがゆっくり振り向く。
見慣れた顔。
聞き慣れた声。
同じはずなのに、もう別人みたいに見えた。
「……ごめんなさい」
小さな声だった。
それだけだった。
言い訳も。
弁解も。
説明もない。
ただ、その一言だけ。
「お前……」
喉が詰まる。
怒鳴ろうとしたのに、声が上手く出なかった。
リアが俺の服を掴む。
「兄さま……」
震えていた。
リアだけでも逃がそうと足に力を入れる。
だが、その前にフードの男たちが動く。
腕を取られる。
足を払われる。
リアが叫ぶ。
「いやっ……!」
「離せ!」
暴れた。
本気で暴れた。
でも、無理だった。
数が多すぎた。
力も足りない。
簡単に押さえつけられ、無理やり膝をつかされる。
隣ではリアも取り押さえられていた。
「兄さま……!」
その声だけで、頭が熱くなる。
「リアに触るな!!」
叫んだ瞬間、腹に蹴りが入った。
息が止まる。
視界がぶれる。
それでも、倒れきる前に歯を食いしばった。
ここで折れたら、本当に終わる。
胸の奥で、何かが崩れた気がした。
ゆっくりと、視線がセシルへ向く。
セシルは少し離れた場所に立ったまま、何も言わなかった。
否定もしない。
言い返しもしない。
それが、答えだった。
「……嘘だろ」
やっと出た声は、自分でも驚くほど弱かった。
セシルの指先が、ほんのわずかに震える。
だが、それでもあいつはこっちへ来ない。
「兄さま……」
リアの声で、はっとする。
今は違う。
止まるな。
何が嘘で、何が本当だったのか。
そんなことを考えるのは後だ。
今は、リアを守らないといけない。
俺は歯を食いしばり、もう一度立ち上がろうとした。
だが、背中を押さえつけられる。
「連れていけ」
腕を掴まれる。
リアも引っ張られる。
セシルは少し離れた場所で、ただ立っていた。
申し訳なさそうな顔で。
それでも止めずに。
ちゃんと、俺たちが捕まるのを見ていた。
「……何でだよ」
やっと声が出た。
セシルは答えなかった。
胸の奥は、怒りと悔しさと、壊れる音みたいなものでいっぱいだった。
暗い地下へ連れていかれながら、俺は奥歯を噛んだ。
リアだけは守る。
絶対に守る。
それだけを、何度も心の中で繰り返した。
そして、もう一つ。
あの変な男の顔が浮かぶ。
最悪な出会いだった。
うるさかった。
雑だった。
意味が分からなかった。
でも、あいつは来た。
助けると言ったら、本当に助けに来た。
だから。
――それでも、ユウヤなら来る。
俺はそれを、まだ信じていた。




