第56話「漆黒と魔人」
黒ずんだ痕跡は、王都の裏路地を這うように続いていた。
石畳の隙間。
壁際。
樽の陰。
途切れそうで途切れない。
まるで何かを引きずったみたいに、じわじわと奥へ伸びている。
鼻につくあの嫌な臭いも、薄くなりながら残っていた。
「……やっぱ、ただの汚れじゃねえな」
小さく呟いて、俺は路地を進む。
人通りの多い通りから外れるにつれて、王都の喧騒が遠ざかっていく。
店の灯りも、客の笑い声も、少しずつ背中の方へ流れていった。
代わりに濃くなるのは、湿った石の匂いと、あの嫌な瘴気だ。
痕跡は、三つ先の細い路地を曲がったところで急に濃くなった。
壁に擦れたような黒い筋。
地面に飛び散った黒ずみ。
そして、その先に――人影。
黒い外套を着た男が三人。
そのうち二人が、重そうな袋を引きずっていた。
袋の口はきつく縛られている。
だが隙間から黒っぽい液が垂れ、石畳に細い線を描いていた。
「……なんだ、あれ」
俺は足を止める。
この距離なら、まだ気づかれていない。
もう少し近づいて中身を確かめるべきか――そう思った瞬間だった。
一番奥にいた男が、ふっと顔を上げる。
目が合った。
「……っ」
男の表情が変わる。
「見られた!」
残り二人が一斉に振り向く。
その瞬間、腰が鳴った。
『観測されました』
『変身可能です』
俺は深く息を吸った。
「変身」
光が弾ける。
黒が身体を這い上がる。
脚。
腰。
腕。
足先。
俺は壁に映った自分の影を見て、固まった。
黒いチェーン付きダメージズボン。
漆黒のグローブ。
漆黒のブーツ。
そこまでは、まあいい。
問題は、その上だ。
肩から垂れているのは、袖のないロングコート。
しかも前が開きっぱなしで、閉じる気配がまるでない。
胸元どころか腹まで普通に見えている。
「……」
いや、待て。
これ、ロングコートっていうか、長い布だろ。
「なんで前閉まんねえんだよ!!」
思わず叫んだ。
胸元どころか腹まで普通に見えてる。
袖もない。
ただ肩から長い黒布が垂れているだけだ。
「上着の意味!!」
男の一人が俺の腰を見て目を見開いた。
「あの腰帯は……!?」
次の瞬間、そいつが叫ぶ。
「まずい、マスクドブレイブだ!」
残り二人の顔色も一気に変わる。
奥にいた男が舌打ちする。
「予定が変わった! お前だけでも逃げろ!」
「で、ですが――!」
「早く行け!」
命じられた一人が、袋を捨てて踵を返す。
そのまま路地の奥へ全力で走り出した。
残された二人は、ほんの一瞬だけ顔を見合わせた。
どっちの顔にも、覚悟というより諦めが浮かんでいた。
「……まさか、ここで使うのかよ」
片方が、震える手で懐を探る。
「使わなきゃ終わりだ」
もう片方も、赤い小瓶を取り出した。
二人は赤い液体を一気に呷った。
直後、身体がびくりと跳ねる。
「ぐっ、あああああっ!!」
「が、あ、あああああっ!!」
首筋から黒い筋が走り、血管みたいに顔へ広がる。
腕が膨れ、背が歪み、肉が無理やり持ち上がっていく。
骨が軋む音。
皮膚が裂ける音。
泡立つみたいに吹き出す黒い瘴気。
「……こいつは!?」
嫌な予感が、最悪の形で当たった。
二人はもはや人間の輪郭を保っていない。
理性もなさそうだ。
無理やり力だけを詰め込まれた、歪な魔人だった。
「ギィィアアアアアッ!!」
一体が踏み込んでくる。
速い。
「邪魔だ!」
正面から来た爪を躱し、俺は反射的に拳を突き出した。
「ブレイブパンチ!」
手応えが軽い。
「……は?」
次の瞬間、腰が鳴った。
『ブレイブパンチではありません。漆黒ブレイブパンチです』
「今そこ訂正すんのかよ!?」
魔人の爪が目の前を掠める。
慌てて身を引き、舌打ちしながら踏み込み直す。
「っ、漆黒ブレイブパンチ!!」
今度はグローブが黒く光った。
拳がめり込み、魔人の腹がくの字に折れる。
「ギィアアアアアッ!!」
横からもう一体。
そいつの腕を受け流し、そのまま蹴りを叩き込む。
(どうせ、こっちも漆黒だろ)
「漆黒ブレイブキック!!」
ブーツが重く鋭く入り、魔人の脇腹へめり込む。
壁まで吹っ飛び、石が割れる。
「ガァアアアアッ!!」
「見た目は最悪なのに、性能はちゃんとしてんの腹立つな……!」
逃げた男の足音は、もう一つ先の路地へ抜けていく。
追わないとまずい。
そう思った瞬間、腹を殴った魔人がまだ立ち上がってきた。
黒く濁った目。
裂けた口。
人だった頃の面影なんて残ってない。
「しつけえ!」
俺は踏み込み、もう一発拳を叩き込む。
「漆黒ブレイブパンチ!!」
胸の真ん中に突き刺さった一撃で、魔人の身体が大きくのけぞる。
そのまま地面へ倒れ込み、今度こそ動かなくなった。
残る一体は、壁際から這い出してきた。
脚があらぬ方向を向いてるのに、それでも腕だけでこっちへ来る。
「なんなんだよ、こいつら……!」
俺は息を吐き、その顔面へ蹴りを叩き込んだ。
「漆黒ブレイブキック!!」
頭が跳ね上がり、魔人は完全に沈黙した。
「はぁ……っ」
静かになる。
逃げた男の足音は、もう聞こえない。
追うには遅れた。
「くそっ、一人逃げたか……」
舌打ちした、その時だった。
倒れた二体の身体が、ぶくりと膨れた。
「……あ?」
黒ずんだ皮膚が急に溶け始める。
肉が泡立ち、骨まで崩れ、どろどろのヘドロみたいなものへ変わっていく。
「おっ、おい……!」
近づく間もなく、二体の身体は完全に腐食した。
残ったのは、黒赤いヘドロと、割れた小瓶の破片だけ。
臭いが一気に濃くなる。
腐臭。
焦げ。
湿った瘴気。
思わず口元を押さえた。
「……なんだよ、これ」
生き物が死んだ臭いじゃない。
もっと、嫌な何かだった。
ヘドロのそばにしゃがみ込む。
割れた小瓶の破片を拾うと、まだ内側に赤黒い液が少しだけ残っていた。
「これ飲んで、ああなったのか……」
三人は最初から、まともに戦うつもりじゃなかったんだろう。
見つかった瞬間、二人を使い潰してでも時間を稼ぎ、一人を逃がす。
そういう役割分担だったわけだ。
その現実が余計に気分悪い。
そこで、捨てられた袋へ目を向ける。
袋の表面にも、同じ黒ずんだ液がべっとり付いていた。
紐を切って中を覗く。
中に入っていたのは、黒く汚れた布と、割れた瓶、そして人のものとも獣のものともつかない、瘴気に焼けたような肉片だった。
「……同じか」
捨てて逃げた所を見るに、処分する予定だったのだろう。
腰が鳴る。
カン。
『クエスト : 瘴気の痕跡を追えクリア』
『報酬:ヒーローポイント+3』
『現在のヒーローポイント:3』
「三か……」
少ないとは思わない。
問題はそこじゃない。
逃げた一人。
赤い薬。
魔人化みたいな現象。
ヘドロになる身体。
どう考えても、ろくな話じゃない。
「……さすがに、これはギルド案件だな」
一人で抱えるには気持ち悪すぎる。
俺は変身を解いた。
黒い装備が消える。
現実に戻る。
少し寒い。
でも、さっきの感触ははっきり残っていた。
「……痛ぇけど、ちゃんと強くなってたな」
ズボン。
コート。
グローブ。
ブーツ。
名乗りをしなくても、漆黒ブレイブパンチと漆黒ブレイブキックの威力が半端じゃなかった。
だが、見た目は本当に最悪寄りだった。
特にコート。
あれはもう、上着として機能してるのか怪しい。
「眼帯と包帯は、もう少し後でいい……」
本気でそう思いながら、俺は小瓶の破片を布で包む。
使えそうな証拠は、それくらいだった。
逃げた一人を今さら追っても、たぶん無理だろう。
だったら先に動くべきは一つだ。
「ヘルガのとこ行くか」
俺は踵を返した。
王都の夜は静かだった。
でも、今見たもののせいで、その静けさ自体が妙に不気味に思えた。
「……ったく」
小さく舌打ちして、俺はギルドへ向かった。




