第55話「瘴気の痕跡」
トムが来てから数日が経った。
旨味亭ブレイブは、俺がいなくても上手く回るようになってきていた。
トムは相変わらず声がでかいが、その分注文はよく通るし、水差しの補充も下げ物も真面目にやる。
最初の頃みたいに右往左往することも減って、今では「うるさいが使える」にちゃんと収まっていた。
そのおかげで、俺も前より店を抜けやすくなった。
昼営業が落ち着けば王都を走り回り、荷を運んだり盗人を追ったり、揉め事を止めたりする。
一ポイント、二ポイントと気が遠くなるほど地味な積み重ねだったが、ようやく終わりが見えてきた。
その日も、南市場の外れでひったくりを追い詰め、売上袋を取り返したところで腰が鳴った。
カン。
『特殊クエスト : 王都で英雄たれクリア』
『進行:30/30』
『成功報酬:ヒーローポイント10』
『現在のヒーローポイント:20』
「よし! 終わったー!!」
思わずその場で拳を握る。
長かった。
マジで長かった。
一ポイント、二ポイントの積み重ねを甘く見ていた。
二度と舐めない。
これで素っ裸ともお別れだ。
もはや、ひょっとこでもいい。
いや、やっぱりよくないけど、とにかく今はちゃんと人前で戦える装備が欲しい。
「で。何が買えるんだ? 見せろ」
ウィンドウが切り替わる。
『ver.3装備(必要HP:各5)』
・漆黒のチェーン付きダメージズボン(防御+++)
・漆黒の袖なしロングコート(防御+++)
・漆黒の包帯(防御++/腕力++)
・漆黒のグローブ(腕力+++)
・漆黒のブーツ(脚力+++)
・漆黒の眼帯(封印解除)
・乗り物:漆黒鋼機動輪
「……」
見た瞬間、だいたい察した。
厨二病全開だ。
漆黒どんだけ好きなんだよ……
しかも眼帯。
「封印解除って何を封印してんだよ……」
嫌な予感しかしない。
一番気になるのは最後だ。
「……漆黒鋼機動輪」
名前だけ聞けば、ちょっとだけ期待してしまう。
いや、かなり期待する。
漆黒鋼。機動。輪。
いかにも強そうだ。
少なくとも、一輪車よりは夢がある。
……いや、前回のモノサイクルも便利ではあったんだが。
「いや、でも今回は違うかもしれねえしな……」
半信半疑のまま、まずはズボンを見る。
「とりあえず、これだろ……」
素っ裸問題の解決が最優先だ。
どれだけ痛かろうが、ズボンはズボンである。
「漆黒のチェーン付きダメージズボン、購入」
カン。
『漆黒のチェーン付きダメージズボンを購入しました』
『残りヒーローポイント:15』
続けて、もう一つを見る。
『漆黒の袖なしロングコート(防御+++)』
「なんで、袖ねえんだよ……」
だが、背に腹は代えられない。
「購入」
カン。
『漆黒の袖なしロングコートを購入しました』
『残りヒーローポイント:10』
これで、少なくとも理屈の上では上も下も隠れる。
たぶん。
きっと。
そうであってくれ。
……いや、待て。
よく考えたら、今の俺は手も足もまだ剥き出しだ。
上と下だけ整っても、変身したら結局ちぐはぐになる気しかしない。
「……どうせなら、今のうちに揃えとくか」
俺は小さく息を吐いて、次の二つを見る。
『漆黒のグローブ(腕力+++)』
『漆黒のブーツ(脚力+++)』
「痛ぇのはもう諦めるとして……」
見た目の被害はでかそうだが、実用性は高い。
少なくとも、素手と裸足よりは百倍マシだ。
「漆黒のグローブ、購入」
カン。
『漆黒のグローブを購入しました』
『ブレイブパンチが漆黒ブレイブパンチに変化しました』
『残りヒーローポイント:5』
「いや、そこまで変えるのかよ」
名前に漆黒を足しただけじゃねえか。
雑だな、おい。
だが、威力が上がるなら文句は言えない。
「……次」
俺はもう片方へ視線を向ける。
「漆黒のブーツ、購入」
カン。
『漆黒のブーツを購入しました』
『ブレイブキックが漆黒ブレイブキックに変化しました』
『残りヒーローポイント:0』
「まあ、そうなるよな……」
いや、変化の方向としては分かる。
分かるけど、もう少しこう……なかったのか。
漆黒ブレイブパンチ。
漆黒ブレイブキック。
「小学生かよ……」
思わずそう呟いて、小さく息を吐く。
これでズボン、コート、グローブ、ブーツが揃った。
最低限、人前で戦える形にはなったはずだ。
問題は、
「見れねえんだよな……」
観測されないと変身できない。
変身できない以上、買った装備がどうなってるかも確認できない。
今の俺に分かるのは、ポイントがゼロになったことと、技名だけが無駄に痛くなったことだけだ。
「頼むから、まだマシであってくれよ……」
そう呟いて、俺は店へ向かって歩き出した。
夕方の王都は、少しずつ人通りも落ち着き始めている。
あとは店に戻るだけだった。
裏手へ回る角を曲がったところで、ふいに足が止まる。
石畳の端に、黒ずんだ染みがこびりついていた。
ただの泥にしては色が悪い。
しゃがみ込むと、腐ったような、焦げたような、湿ったような、言葉にしにくい臭いが鼻についた。
「……」
どこかで一度、感じたことがある。
グレンのスラム街。
バルツが魔人になった時に漂っていた、あの嫌な臭いに似ている。
気のせいならいいし、ただの汚れならそれで終わりだ。
だが、そう思うには臭いが強すぎた。
よく見ると、黒ずんだ痕は一つだけではなく、何かを引きずったように途切れ途切れで路地の奥へ続いている。
「……おいおい」
思わず低く呟く。
カン。
腰が鳴った。
『クエスト : 瘴気の痕跡を追え』
『報酬:ヒーローポイント+3』
「……っち」
思わず舌打ちしてしまう。
黒ずんだ痕は、細い路地の奥まで続いていた。
一旦、店に戻ろうかとも思った。
無駄に首を突っ込んで面倒ごとを拾うと、だいたいろくなことにならない。
しかも今日は、ようやく装備を買えたばかりだ。
このまま店へ戻れるなら、それが一番楽だ。
「……これ、見逃したらまずい気がするんだよな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
一度だけ振り返ると、旨味亭ブレイブの灯りが遠くに見えた。
「……悪い」
何に対して言ったのか、自分でもよく分からない。
俺は踵を返し、店とは逆の方角へ歩き出した。
黒ずんだ痕跡を追って細い路地の奥へ進んでいくと、あの嫌な臭いはさらに強くなっていった。




