第50話「蛇の気配」
セシルを試しに入れた初日の営業が終わった頃――
俺は椅子に腰を下ろして、ようやく気づいた。
「……今日すげえ楽だったな」
いつもならこの時間には、全員ぐったりだ。
グレッグは鍋を睨みながら舌打ちし、エマは帳面を持つ手すら重そうで、俺も椅子に座った瞬間しばらく動けない。
でも今日は違った。
もちろん忙しかった。
客は多かったし、皿は飛び交ったし、厨房は相変わらず戦場だった。
――なのに、明らかに余裕があった。
「……セシル、有能すぎだろ……」
思わず呟く。
視線の先では、セシルが最後の木椀を静かに重ねていた。
厨房とホールを何度も行き来して、配膳、下げ物、空いた卓の片付け、水の差し替え、会計補助、リアへの声かけまで、ほとんど淀みなくこなしていた。
一人で二人分――いや、下手したらそれ以上に動いていた気がする。
グレッグが空になった鍋を覗き込みながらぽつりと零す。
「メイドってのはすげえんだな……」
エマも帳面を抱えたまま、少し驚いたように笑う。
「かなり楽でしたね…… お客様の前では、私より落ち着いてましたよ」
リアが小さく何度も頷いた。
「す、すごかったです…… 私が止まりそうになった時も、すぐ次に何したらいいか教えてくれて……」
ルークもセシルを見て、短く言った。
「……無駄がない」
俺は椅子の背にもたれながら、改めて店の中を見回した。
誰も疲れた顔をしていない。
グレッグもまだ動ける余力がある。
エマの声も掠れていない。
リアもルークも元気だ。
セシルが入っただけで、店がスムーズに回るようになった。
「……よし」
俺はセシルを見た。
「試しって話だったけど、正式に働いてもらおうと思う」
セシルは一瞬だけ目を伏せ、それから深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ただ――」
俺は少しだけ視線を逸らした。
「今日の働きは、文句なしですごかった。めちゃくちゃ助かった。でも、店はまだ始まったばっかで、借金もある。悪いけど、今はその働きに見合うだけの金を出せるとは言えねえ」
一拍置いて、続ける。
「……それでもいいなら、うちで働いてほしい」
セシルは静かに聞いていたが、やがて小さく息を吸った。
「でしたら、お願いがございます」
「ん?」
「事情があって、今は宿を取るだけのお金がございません」
エマが少しだけ目を見開く。
グレッグも黙ってセシルを見た。
「もし許されるのであれば、給金を少し下げていただいて構いませんので、住み込みで働かせていただけないでしょうか」
「……住み込み?」
「はい。開店前の準備も、閉店後の片付けも長いですし、通いよりその方が店にもご迷惑をかけません」
理屈は通っている。
だが、二階にはもう俺とルークとリアがいる。
「……いや、でもな」
俺は頭を掻いた。
「今の二階、俺とルークとリアがいるんだぞ。そこに新しく女を住まわせるってのは、さすがにどうなんだ」
セシルは静かに続けた。
「でしたら、空いている方の部屋を、私とリアさんで使わせていただければ。女性同士の方が、リアさんも安心できるかと」
リアが少しだけ戸惑ったように瞬く。
エマがやわらかく口を挟んだ。
「……それ、いいかもしれませんね。リアさんにとっても、その方が安心ですし。それに、セシルさんがいてくれるなら、店としてもかなり助かります」
グレッグも腕を組んだまま言う。
「朝の仕込み前から動けるのもでけえな」
「お前ら、ずいぶん前向きだな……」
でも、悪い話じゃない。
セシルは仕事ができる。
店としても回しやすくなる。
リアにもいい。
「……分かった。住み込みでいい」
セシルがわずかに表情をやわらげた。
「ありがとうございます」
「ただし、給金はしっかり払うし、いずれはちゃんと上げてやる」
「ですが――」
「ですが、じゃねえ。働いた分は払う。そこは譲らねえ」
少しの沈黙のあと、セシルは深く頭を下げた。
「……承知しました」
従業員だけじゃなく、同居人も増えることになった。
*
エマとグレッグが先に帰り、店の扉が閉まる。
一階に残ったのは、俺とルークとリア、そして今日から住み込みになるセシルだけだった。
二階へ上がると、昨日までの“雑な暮らし”がそのまま残っていた。
脱ぎっぱなしの服。
椅子に引っかかったままの上着。
食べ終わった皿も、まだ端に寄せただけで片付いていない。
水差しも空だ。
セシルが部屋を見渡して止まった。
「……」
「言うなよ」
先に釘を刺すと、セシルは静かに俺を見た。
「まだ何も言っておりません」
「でも言いたそうな顔してるだろ」
「少しだけ」
「少しかよ」
リアがおずおずと目を逸らす。
「……すみません」
「いや、リアが謝ることじゃねえよ。ここんとこ疲れてて全然片付けられなかったもんな……」
ルークは黙ったまま、脱ぎっぱなしの布を一度見てから目を逸らした。否定はしないらしい。
俺は頭を掻いた。
「……で、飯どうするか」
リアがきょとんとする。
セシルも少しだけ首を傾げた。
「夕食は、普段どうされてるんですか?」
「普段?」
俺は肩をすくめた。
「店のレグナ麺とスープ食ってる。余った分とか、営業用に作ったやつで適当に済ませてるな」
一瞬、空気が止まった。
セシルが目を見開く。
「……まさか、同じものしか召し上がっていないんですか!?」
「1回くらい外食はした」
「1回ですか……」
「……まあな」
少し考えてから、本音が出る。
「確かに、流石に飽きてきたな……」
リアが小さく言った。
「で、でも……レグナ麺、美味しいですよ」
「それはそうなんだけどな」
ルークも静かに続ける。
「僕もレグナ麺は気に入ってる」
セシルはしばらく黙っていた。
それから、信じられないものを見る顔で俺たちを見回した。
「……信じられない……」
「そこまでか?」
「そこまでです」
きっぱり言い切られた。
そして次の瞬間には、もうセシルは散らかった皿を重ねていた。
ついでみたいに脱ぎっぱなしの服まで拾い上げる。
「お、おい」
「今日から私が作ります。それと、これは片付けます」
「ここでまでメイドはしなくていいぞ」
「同じものばかりでは体にも心にも良くありませんし、脱いだ服は床に置くものではありません」
「す、すまない……」
リアが少しだけ嬉しそうに、セシルの後ろへついていく。
ルークは黙ったまま、その様子を見ていた。
しばらくして、鍋からやわらかい匂いが立ち上った。
店のスープとも、赤いソースとも違う。
もっと落ち着いた匂い。
並べられたのは、干しきのこと少しの肉を使った煮込みと、温めたパン。
派手じゃないけど、妙に安心する。
「……うまそうだな」
俺が言うと、セシルは静かに一礼した。
「ありがとうございます」
四人で卓につく。
昨日まで、ただの寝床だった二階の下で、こうして同じ飯を囲んでいるのが少し不思議だった。
リアが最初に口に運ぶ。
「……おいしい」
ルークも少し遅れて食べて、短く言った。
「うまいな」
俺も煮込みを口に入れる。
「……あ」
思わず声が漏れた。
「うまい」
セシルは少しだけ目を細めた。
「口に合ったようで何よりです」
俺は器を持ったまま、ぼんやり卓を見回した。
ルークがいて、リアがいて、セシルがいる。
昨日までより、明らかに“生活”の形になっていた。
「……なんか、急に家っぽくなったな」
ぼそっと言うと、セシルが首を傾げた。
「そうでしょうか」
「そうだよ。昨日までは、寝るだけの場所って感じだったわ」
「荒れてましたからね」
即答された。
「お前な……」
言い返しながら、少し笑ってしまう。
その夜、二階には人の気配がちゃんとあった。
住み込みの店員が一人増えただけのはずなのに、昨日までよりずっと“暮らしてる”感じがした。
*
それから数日。
旨味亭ブレイブは、ようやく“店”として少しずつ形になってきていた。
「赤麺二つ、鳥麺一つです」
セシルが皿を持って歩く。
足音が静かだ。置き方も綺麗だ。客が一瞬だけ「おっ」となる。
「どうぞ、ごゆっくり」
「お、おう」
最初はメイド服に目が行っていた客も、今では普通に受け入れている。
というか、あまりに仕事ができるせいで、誰も変だと思わなくなってきた。
「……すげえな、あいつ」
俺が言うと、グレッグが鍋をかき混ぜながら鼻を鳴らした。
「もう、あいつがいない店は考えられねえな」
「あのメイド服には、まだ慣れねえけどな」
エマは帳面を抱えたまま笑う。
「でも、本当に助かってますよ。配膳も下げ物も綺麗ですし、接客も丁寧ですし」
昼の山は越えた。
夜の仕込みまでに、少しだけ息をつける時間だ。
その瞬間だった。
カン。
腰のベルトが鳴った。
「……あ?」
視界の端に、透明なウィンドウが開く。
『クエスト : 店の裏を探れ』
『店の周辺に不審な気配がある』
『報酬:ヒーローポイント+4』
「……はぁ?」
思わず小さく声が漏れる。
「どうしました?」
エマが首を傾げる。
「いや……ちょっと急用ができた」
グレッグが顔も上げずに言う。
「サボりか?」
「違ぇよ。いろいろあんだよ」
「なら五分で戻れ。夜の仕込み前だ」
「分かってる」
俺は店の裏口へ回った。
*
裏路地は、昼でも薄暗い。
通りの喧騒が少し遠くなるだけで、急に空気が冷える。
積んだ木箱。空樽。濡れた石畳。
「……どこだ」
俺は目を細めた。
気配はある。
でも、見えない。
その時、路地の奥で何かが動いた。
黒い外套。
一瞬だけ、角を曲がる。
「おい!」
俺は反射で追った。
狭い路地を抜ける。
洗濯物の間をすり抜ける。
木箱を飛び越える。
外套の影は一定の距離を保ったまま、さらに奥へ逃げる。
(誘ってやがるな)
もう一つ角を曲がった瞬間、人気が消えた。
古い倉庫の裏手。
人の気配がない。
そこで、影が止まった。
「……来たか」
低い声。
しかも一人じゃない。
左右の影から、もう二人。
「森にいたやつらか……」
東の森と同じだ。
ただし、今度は少し違う。
「誰の差し金だ」
返事はない。
その瞬間――
『観測されました』
『変身可能です』
俺は深く息を吸った。
いつものように腕を振り上げる。
「変身」
光が弾ける。
――寒い。
「……」
「……」
三人がほんの一瞬だけ止まった。
変な空気が流れる。
『装備データ不足』
『外装:未適用』
「知ってるよ!!」
俺は裸のまま一歩踏み込んだ。
正面の一人が地面を蹴る。
速い。
短剣。
俺は半歩ずらして躱す。
刃が頬を掠めた。
横から二人目。
後ろから三人目。
(そこそこ強いな……!)
間違いなく東の森でやり合った奴らだ。
一人が止めて、一人が刺し、一人が隙を拾う。
でも――前とは違う。
ルークたちを守らなくていい。
だから、遠慮なく前へ出られる。
「守るもんがねえなら、こっちの方がやりやすいんだよ!」
俺は一気に踏み込んだ。
正面の腕を払って懐に入る。
腹に拳を叩き込む。
「ブレイブパンチ!!」
男の身体が折れた。
だが、倒れ切らない。
すぐ横から二人目の刃。
腕で受け流し、そのまま肘を返す。
三人目が足元を狙う。
跳んで躱す。
着地に合わせてまた短剣。
「っ……!」
腕に浅い傷が入る。
この程度じゃ怯まない。
むしろ押してるのはこっちだ。
「どうした、もう終わりか!」
俺はさらに前へ出る。
一人目の顎を跳ね上げ、二人目の肋へ蹴りを入れ、三人目の手首を叩いて短剣を逸らす。
その時、三人目のフードがずれた。
首元。
そこに、見えた。
蛇。
そして、十字架。
思わず目を見開く。
「蛇架ってやつか……」
その瞬間、男の目が変わった。
その隙をついて、俺はさらに踏み込む。
「ブレイブキック!」
腹に思い切り蹴りが入る。
後ろにいたやつを巻き込んで吹き飛ぶ。
巻き込まれなかったやつが慌てて攻撃をしかけてくる。
「ブレイブパンチ!」
単調になった短剣の突きを躱し、ブレイブパンチで吹き飛ばす。
これで、三人は完全に崩れた。
すると急に連携を捨てて、逃げの動きに入る。
俺はさらに前へ出る。
すると今度は小瓶。
「またそれかよ!」
投げつけられる。
割れる。
白い煙が一気に広がった。
「くそっ……!」
俺は煙を払いながら前へ出る。
逃げる足音を追う。
だが、今度はこっちの方が速い。
もう少しで追いつく――そう思ったところで、視界の先に大通りの明るさが見えた。
往来。
人通り。
昼の王都。
「……」
足が止まる。
今の俺は、フルチンだ。
このまま大通りまで追いかけたら、蛇架より先に俺が終わる。
「ちっ、やられた!!」
変身解除して通りに出たが、3人はもう人混みの中に消えていた。
完全に逃げられた。
俺はその場で舌打ちした。
『クエストクリア : 店の裏を探れ』
『ヒーローポイント+4』
『前借り残高:28』
「……減ったのはいいけどよ」
笑えない。
蛇架。
あんなヤバい奴らがルークとリアを狙っている。
俺は顔の血を手の甲で拭って、店へ戻った。
*
裏口を開けた瞬間、エマが振り向いた。
「ユウヤさん――」
その声が止まる。
「……え?」
リアがびくっと肩を揺らした。
ルークは黙ったまま、じっと俺を見ている。
グレッグが鍋から顔を上げる。
「おい、その顔どうした」
俺は頬に手をやった。
指先に赤がつく。
「あー……ちょっと切られた」
「ちょっとで済む顔か、それ」
セシルは一歩前に出て、俺の腕も見た。
「腕もです」
「浅い浅い」
「浅くても血が出てます」
淡々と返される。
エマがすぐに布と水を持ってくる。
「座ってください」
「いや、そんな大げさな――」
「座ってください」
「……はい」
俺は椅子に腰を下ろした。
リアは青い顔のまま、少し後ろに下がっていた。
また狙われるかもしれない――そう感じてるのが丸分かりだ。
ルークは黙ったまま考え込んでいる。
(この二人を狙ってるのは間違いない……いい加減話聞かねえとな)
俺は内心で舌打ちした。
その瞬間、また腰が鳴った。
カン。
新しいウィンドウが開く。
『クエスト : 蛇架との交戦を報告せよ』
『蛇架の構成員と思われる三名と交戦』
『レグナ支部ギルド長ヘルガへ報告せよ』
『報酬:ヒーローポイント+3』
「……だろうな」
「何がです?」
エマが聞いてくる。
「いや、行かなきゃならん用事ができた」
俺は立ち上がった。
「ヘルガのとこ行ってくる」
エマが不安そうに言う。
「今からですか?」
「今からだ。こういうのは早い方がいい」
セシルが静かに口を開いた。
「店の方はお任せください」
俺は軽く手を上げた。
「すぐ戻る」
そう言って店を出る。
王都の喧騒の裏で、蛇架が動いている。
しかも、うちの店を見張っていた。
「……めんどくせえな」
思わず呟きながら、俺はレグナ支部ギルドへ向かった。




