第139話「百魔供儀」
王都の地下に、今は使われていない古い礼拝堂があった。
王城のさらに奥深く。
地上の光は届かず、湿った石壁には、長い年月を経ても消えない黒い染みが残っている。
その中央には、赤黒い魔法陣が描かれていた。
魔法陣を囲むように並んでいるのは、白衣をまとった信者たち。
数は、ちょうど百人。
男も女も、老人も若者もいた。誰一人として縛られておらず、逃げ出そうとする者もいない。それどころか、彼らの顔には恐怖ではなく、救いを待つ者の喜びが浮かんでいた。
祭壇の前に立つ黒衣の男が、静かに両手を広げる。
「教祖様は、あなた方に旅立ちの時をお与えになった」
その言葉に、信者たちが一斉に顔を上げる。
「古き肉体を捨て、濁った世界を離れ、清き新世界へ至る時です」
祈りの声が、地下礼拝堂に満ちていく。
「新世界へ……」
「教祖様の御心のままに」
「この旧き肉体を捨て、清き世界へ」
信者たちは涙を流していた。
震える手を胸の前で組み、救われる瞬間を待つように、祭壇を見つめていた。
だが、それを見下ろす黒衣たちの目は冷めていた。
やがて、銀の杯が配られる。
中に入っていたのは、黒く濁った液体だった。
魔人化薬。
それを見ても、信者たちは怯えなかった。むしろ先を争うように杯へ手を伸ばし、両手で大事そうに受け取っていく。
彼らは、死に向かっているつもりなどなかった。
これは終わりではない。
新世界への門出なのだと。
本気で、そう信じていた。
「飲みなさい」
黒衣の男が告げる。
「その血肉を捨て、教祖様の御心に近づくのです」
百人の信者たちが、一斉に杯を口へ運んだ。
黒い液体が喉を通る。
次の瞬間、地下礼拝堂に悲鳴が響いた。
皮膚がひび割れ、骨が軋み、濁った目が見開かれる。額から歪んだ角が生え、片腕だけが異様に膨れ上がり、背中から不完全な骨が突き出した。
ある者は脚が崩れて床を這い、ある者は喉を潰されて意味のない呻き声を漏らすだけになった。
人間にも戻れず、魔人にもなりきれない。
ただ肉体だけが歪んだ、出来損ないの化け物たち。
それでも、信者たちは笑っていた。
「見える……」
崩れかけた顔で、一人が呟く。
「新世界が……見える……」
「ああ……教祖様……」
「救いが……」
魔法陣から黒い鎖が伸び、歪んだ身体を床に縫い留める。逃げることも暴れることも許さない拘束だったが、逃げようとする者など一人もいなかった。
苦しみながら、彼らはまだ救われると信じていた。
黒衣の一人が、冷たく呟く。
「やはり、出来損ないしかいないな」
「当然だ。素質の低い者だけを集めたからな」
壊れた祈りが響く中、黒衣たちだけは静かだった。
そこにあるのは哀れみではない。
救済でもない。
ただ、燃料の質を確かめるような冷たさだけだった。
「教祖様は何と」
「まともな魔人にすらなれぬ者に、新世界の席はない、と」
男は何の感情もなく言った。
「それでも、新世界を創るための犠牲になるのだ。奴らも本望だろう」
その言葉と同時に、魔法陣が赤黒い光を帯びた。
「百魔供儀を始める」
魔人は魔王ではない。
出来損ないの魔人など、なおさらだ。
だが、その体にはごく微量とはいえ、魔王の血に連なる力が宿っている。
一体では意味を持たない。
十体でも足りない。
だが、百体分を束ねれば、魔王が魔物を引き寄せる性質を、ほんの一時だけ疑似的に再現できる。
黒衣の男が低く詠唱を始めると、床に刻まれた紋様が脈打つように明滅した。
百体の出来損ない魔人たちが、同時に震えた。
「新世界へ!」
「教祖様の御心のままに!」
「救いを!」
次の瞬間、魔法陣が彼らを吸った。
肉体が崩れ、魔力が抜かれ、血が陣へ染み込んでいく。瘴気が、魔法陣の中心へ強引に引き寄せられ、束ねられていった。
信者たちは叫んだ。
それが歓喜だったのか、苦痛だったのか。
もう誰にも分からなかった。
百の声が重なり、やがて一つの黒い音になる。音は地下礼拝堂を震わせ、地下水路を伝い、石壁を抜け、地中を走り、王都の外へ染み出していった。
それは、人間には嗅ぎ取れない匂いだった。
だが、魔物にとっては違う。
血の匂い。
肉の匂い。
恐怖の匂い。
そして何より。
王の呼び声だった。
*
王都近郊の森で、ウルフの群れが一斉に顔を上げた。
廃村の井戸跡からは、ゴブリンの集団が這い出す。
街道沿いの丘では、オークが鼻を鳴らす。
森の奥では、灰色の巨大な熊が木々を押し倒し、古い砦跡ではオーガが眠りから目を覚ました。
地下水路の奥では、小型の魔物が群れとなって走り出す。
空では、黒い翼を持つ魔鳥が旋回し、やがて王都の方角へ向かった。
種類が違う。
縄張りも違う。
普段なら、同じ場所へ集まるはずのない魔物たち。
それらが、同時に王都へ向かっていた。
飢えに。
血に。
魔王の残り香に。
王都が、餌場として開かれようとしていた。
*
最初に異変に気づいたのは、王都外壁の見張りだった。
「おい、あれ……ウルフか?」
森の影から、黒い点がいくつも現れる。
最初は数匹に見えた。
だが、後ろからどんどん黒い点が増えていく。
隣の騎士が目を凝らし、顔色を変える。
「後ろにいるのは……灰熊か?」
「灰熊が、こんな王都近くに出るわけないだろ」
「いや、灰熊だ!! 鐘を鳴らせ!」
その直後、別の見張り台から鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
魔物接近を知らせる鐘だった。
だが、鐘は一つでは終わらない。
南門。
西街道。
北の森。
地下水路の詰所。
次々に鐘と笛の音が重なり、王都全体がざわめき始めた。
「南門にも魔物です!」
「西街道にゴブリンの群れ!」
「北の森からオーク!」
「上空にも魔物の影! ウィンドクロウ多数!」
「待て……奥の大きい影は何だ」
一瞬、見張り台の騎士が言葉を失った。
空の向こう。
黒い翼の群れの奥に、明らかに大きすぎる影があった。
「ワ、ワイバーンです! ワイバーンまでいます!!」
その報告に、外壁の空気が凍りつく。
さらに別の騎士が叫んだ。
「未確認の大型個体も複数! 森の奥からまだ来ます!」
報告が飛び交う。
「数は!?」
「千は優に超えています!」
「種類は!」
「バラバラです! 統率がありません!」
「統率がないのに、なぜ同時に王都へ向かっている!」
誰も答えられなかった。
王都の警鐘が、激しく鳴り響く。
*
王都騎士団の詰所では、混乱した騎士が扉を叩き開けた。
「クリス様!」
机の前にいたクリスが顔を上げる。
騎士団長の印は、もう彼の手元にはない。
今の彼に、全軍を動かす権限はなかった。
「私に報告するな。今の騎士団長は私ではない」
「ですが、指示が来ません!」
若い騎士は必死だった。
「門の外には、まだ農民や商人が残っています。このまま閉門すれば、置き去りになります!」
クリスは一瞬だけ目を閉じた。
立場は失った。
だが、民を守る責任まで捨てた覚えはない。
「門を閉じる準備をしろ。だが、外の農民の避難を優先だ」
声は鋭かった。
「弓兵を外壁へ上げろ。飛行型には屋根の上からも対応する。治療班は中央広場へ集めろ」
「はっ!」
騎士が走り出す。
クリスは壁の地図を見つめた。
南門。
西街道。
北の森。
地下水路。
生息域も習性も違う魔物が、同時に王都へ向かっている。
自然な襲撃ではない。
「何かに引き寄せられている……」
クリスは低く呟いた。
「いったい、何が起きているんだ」
*
王都ハンターギルドにも、緊急依頼が殺到していた。
「南門に魔物だ!」
「地下水路にも出た!」
「住民の避難誘導が足りない!」
怒号が飛び交う中、職員が青ざめた顔でゼインを見る。
「ギルドマスター、反逆者捜索の王命は……」
「後回しです」
「ですが、王命が……」
「王都が崩れれば、王命もギルドも残りません」
ゼインは淡々と指示を出す。
「Cランク以上は外壁へ。Dランク以下は避難誘導と物資運搬に回しなさい。負傷者の搬送路も確保します」
「騎士団との連携は」
「現場でクリス殿が動いているなら、その指示系統に合わせます」
職員が驚く。
「クリス様は、もう騎士団長では……」
「現騎士団長はまだ治療中です。それに、今この瞬間は肩書きより使える指揮官の方が重要です」
ゼインは冷静に言い切った。
「今は王都を守ることだけを考えなさい」
*
王城。
執務室の扉が乱暴に開かれた。
「セドリック殿下!」
息を切らした兵が駆け込んでくる。
「王都周辺に、凄まじい数の魔物が出現しています!」
セドリックの眉が動いた。
「数は」
「確認中です。ですが、南門、西街道、北の森、地下水路、複数方向から同時に接近中です!」
「同時に……?」
「はい! 種類もバラバラです! ウルフ、ゴブリン、オーク、灰熊、ワイバーンまで確認されています!」
「ワイバーンだと?」
「さらに、未確認の大型個体も複数! 王都近郊で確認される魔物の規模ではありません!」
窓の外から警鐘が聞こえた。
一つではない。
王都全体が鳴っている。
セドリックは窓へ近づき、城下を見下ろした。人々が走り、騎士たちが叫び、外壁の上では弓兵が配置につき始めている。
「……被害は抑えると言っていたはずだが」
その呟きに、兵は答えられない。
これは必要な混乱だ。
セドリックは、そう自分に言い聞かせた。
アルヴェルトを名乗る偽物を討つため。
レオルドとマスクドブレイブを引き剥がすため。
王都を守るため。
多少の混乱は避けられない。
多少の犠牲は、仕方ない。
そう思おうとした。
だが、鳴り続ける警鐘は、胸の奥にある言い訳を少しずつ削っていく。
「殿下、ご指示を!」
兵が叫ぶ。
セドリックは目を閉じた。
兄上なら、どうする。
その問いが頭をよぎり、すぐに振り払う。
兄上は死んだ。
死んだはずだ。
セドリックは目を開ける。
「王都騎士団を外壁へ回せ。民の避難を優先しろ」
「はっ!」
「ハンターギルドにも協力を要請しろ。使える者は全て使う」
兵が走り去る。
一人になった執務室で、セドリックは窓の外を見下ろした。
自分が守るはずだった街が、悲鳴を上げ始めている。
それでも、彼はまだ認められなかった。
蛇架を利用しているのは自分だと。
この混乱も、自分の手の内にあるのだと。
そう思わなければ、立っていられなかった。
しかし、遠く王都の外から聞こえてくる魔物の咆哮は、その思い込みを嘲笑うように響いていた。




