第138話「死んだはずの王子」
王都。
王城の執務室には、重い沈黙が落ちていた。
机の上には、いくつもの報告書が積まれている。
各地のハンターギルドへの通達。
ルークとリアの追跡状況。
レオルドとマスクドブレイブの手配書。
王都内の治安報告。
貴族たちの動向。
そのすべてに目を通していたセドリックは、扉の向こうから聞こえた足音に顔を上げた。
「入れ」
扉が開く。
入ってきたのは、王都の兵だった。
兵は片膝をつき、深く頭を下げる。
「セドリック殿下。王都近郊の森で、ルーク殿下たちを追跡していた部隊より、緊急の報告が入りました」
「ルークたちの件か」
セドリックは報告書から目を離さずに言った。
「処分は済んだのか」
兵は一瞬、言葉に詰まった。
その反応だけで、良い報告ではないと分かる。
「申し訳ありません。部隊は撤退を余儀なくされました」
セドリックの指が、机の上で止まる。
「撤退?」
「はい。現場に、想定外の者たちが現れたためです」
「想定外?」
兵は喉を鳴らした。
「アルヴェルト第一王子殿下を名乗る男が現れました」
執務室の空気が止まった。
セドリックはゆっくりと顔を上げる。
「……何だと?」
兵は顔を伏せたまま続けた。
「その男は、王家の印が押された文書を確認し、それを国王陛下の正式な密書であると主張したとのことです」
「文書?」
「はい。ルーク殿下が所持していたものです。王家の印は本物に見えた、と現場の者は報告しております」
セドリックの目が細くなる。
兵はさらに言葉を重ねた。
「同行者は、手配中のAランクハンター、レオルド・フォン・アルヴェイン。そして、同じく手配中のBランクハンター、マスクドブレイブです」
「……」
「三名は、ルーク殿下とリア殿下、さらに同行していた者たちを連れて、その場を離脱。後続の斥候によれば、ソイヤ方面へ向かったものと見られます」
「ソイヤ」
セドリックはその名を低く繰り返した。
かつてパルマと呼ばれていた街。
ゴブリンキング率いる二千のゴブリン軍という絶望的な状況を乗り越え、住民たちの希望から、ソイヤという名を得た街。
そして、その中心には必ず、あの名があった。
マスクドブレイブ。
「ソイヤのハンターギルドが関与している可能性は」
「高いかと。あの街は以前より、マスクドブレイブへの支持が強い街です。保護されている可能性があります」
セドリックは何も答えない。
兵は額に汗を浮かべながら続けた。
「また、その三名は王都へ戻る可能性が高いと見られています」
沈黙。
長い沈黙だった。
やがて、兵が恐る恐る言う。
「第一王子殿下が、生きておられる可能性が……」
「黙れ」
低い声だった。
怒鳴ったわけではない。
それでも、兵は息を呑んだ。
セドリックはゆっくりと立ち上がる。
その顔には、怒りも、驚きも、悲しみも浮かんでいない。
ただ、何かを押し殺すような無表情があった。
「兄上は死んだ」
セドリックは言った。
「帝国視察の最中に消息を絶ち、戻らなかった。捜索しても見つからなかった。王都にも、王城にも、父上の前にも姿を見せなかった」
兵は何も言えない。
セドリックは続ける。
「兄上は死んだ」
そこで一度、言葉が途切れた。
そして、次の言葉は、さらに低かった。
「死んでいなければならない」
*
アルヴェルトは、完璧だった。
セドリックは幼い頃から、ずっとそう思っていた。
兄は何をやらせても早かった。
書物を読めば、一度で内容を理解する。
剣を握れば、教師が驚くほど飲み込みが早い。
魔術の授業でも、他の子らが苦戦する術式を、飄々とした顔で扱ってみせる。
それでいて、偉ぶることがなかった。
庭で転んだリアを抱き起こす時も。
剣の稽古で打ち負かされたルークを励ます時も。
セドリックが分からない政務の言葉を尋ねた時も。
アルヴェルトはいつも、同じように笑っていた。
「分からないなら、分かるまで考えればいい。急ぐ必要はないよ、セドリック」
その声に、苛立ったこともある。
なぜ、そんなに余裕でいられるのか。
なぜ、すべてを持っている人間が、そこまで謙虚でいられるのか。
嫉妬はあった。
間違いなくあった。
だが、それ以上に、セドリックは兄を尊敬していた。
兄上が王になるなら、それでいい。
そう思っていた。
アルヴェルトが王となり、自分がそれを支える。
それが、この国にとって一番良い形なのだと、疑っていなかった。
セドリックには、ずっと付きまとっている言葉があった。
側室の子。
第二王子であっても、正妃の子ではない。
宮廷の者たちは、面と向かっては何も言わない。
だが、廊下の陰で、宴の隅で、文官たちの会話の端で、何度も聞こえた。
「優秀ではあるが、側室の子だからな」
「王位となれば、やはり血筋が問題になる」
「正妃の血ではない者を立てれば、貴族たちはどう見るか」
どれだけ勉学に励んでも。
どれだけ政務を覚えても。
どれだけ剣を振っても。
最後に囁かれるのは、血の話だった。
だが、アルヴェルトがいた。
兄が王になるのなら、自分の血など関係ない。
自分は王にならなくていい。
兄を支え、国を守る力になれれば、それで十分だ。
そう思っていた。
そう、思えていた。
*
すべてが変わったのは、アルヴェルトが帝国視察で姿を消した日だった。
最初は、誰もが帰還を信じていた。
第一王子アルヴェルトが、そう簡単に死ぬはずがない。
何か事情があるのだ。
必ず戻ってくる。
セドリックも、そう思っていた。
だが、日が過ぎた。
報告は途絶えた。
捜索隊は成果を得られなかった。
帝国側からも、決定的な情報は届かなかった。
そして、その頃から父王は目に見えて弱っていった。
王城の空気は変わった。
誰も大声では言わない。
だが、廊下の陰で、再び囁きが始まった。
「アルヴェルト殿下は、もう……」
「では、次の王は誰に」
「セドリック殿下ではないだろう」
「陛下はルーク殿下を立てるおつもりらしい」
「正妃の子だからな」
ルーク。
幼い弟の顔が、セドリックの脳裏に浮かんだ。
優しい少年だ。
悪い人間ではない。
リアを守ろうとし、父を気遣い、兄たちを慕っている。
だが、それだけだ。
あの優しさで、国が守れるのか。
帝国が動けば、どうする。
貴族たちが割れれば、どうする。
王都の民が飢えれば、どうする。
隣国が隙を突けば、どうする。
ルークにできるのか。
セドリックは、自分の拳を握った。
自分ならできる。
そう思った瞬間、胸の奥にあった何かが音を立てた。
兄がいない。
父は弱っている。
ルークでは守れない。
ならば、誰がこの国を守る。
答えは、一つしかなかった。
*
ルシアンと出会ったのは、その頃だった。
最初は、王城に出入りしていた祈祷師の一人に見えた。
父王の体調を案じ、治癒や祈祷のために招かれた者たち。
その中に、その男は紛れていた。
白に近い淡い衣をまとい、穏やかな笑みを浮かべた男。
だが、その目だけは違っていた。
何かを見透かしているような目だった。
「セドリック殿下」
ルシアンは、静かに頭を下げた。
「殿下は、誰よりも国を見ておられる」
その言葉に、セドリックは足を止めた。
「誰よりも、この国を守る覚悟を持っておられる」
「……何が言いたい」
「それでも、彼らはあなたを見ない」
ルシアンは顔を上げる。
微笑みは穏やかなままだった。
「彼らが見るのは、ただ一つ」
静かな声だった。
だからこそ、耳に残った。
「血です」
セドリックの指が震えた。
ルシアンはその震えを見逃さない。
「あなたが側室の子だからです」
「黙れ」
「誰もが知っていることです。ですが、誰も口にはしない。殿下の努力も、才も、覚悟も、最後には血という言葉で退けられる」
セドリックは睨みつけた。
「私を侮辱しているのか」
「いいえ」
ルシアンは即座に否定した。
「私は、真実を申し上げているだけです」
セドリックは何も言わなかった。
ルシアンの言葉は、刃のようだった。
だが、その刃は、セドリックが目を背けてきた場所だけを正確に裂いていく。
「弱き王は、民を救いません」
ルシアンは続ける。
「優しいだけの王は、国を守れません。血筋だけで立てられた王は、戦乱の前に倒れます」
「それは暴論だ」
「ええ。優しい方なら、そう仰るでしょう」
ルシアンは静かに微笑んだ。
「ですが、あなたは本当に、優しいだけで終われる方ですか」
セドリックは黙った。
その沈黙を、ルシアンは肯定として受け取ったように続ける。
「この国を救えるのは、あなたしかいない」
「……私を王にしたいのか」
「いいえ」
ルシアンは首を横に振った。
「国を救える者に、国を委ねたいのです」
甘い言葉だった。
危険な言葉だった。
セドリックにも分かっていた。
この男は、ただの祈祷師ではない。
この言葉は、忠義ではない。
自分を利用しようとしている。
それでも、セドリックは足を止め続けた。
「お前は何者だ」
ルシアンは、わずかに目を伏せる。
「蛇架」
その名を聞いた時、セドリックは息を呑んだ。
王都の裏で囁かれる名。
貴族の失踪。
不自然な事故。
禁じられた術。
魔物の影。
噂のすべてが事実ではないにせよ、清廉な組織でないことは明らかだった。
ルシアンは言う。
「我々には、表では動かせない手があります」
セドリックは分かっていた。
その手が、血に濡れていることを。
一度掴めば、綺麗なままではいられないことを。
それでも、王城の廊下で囁かれる声が蘇る。
側室の子。
ルーク殿下を立てるらしい。
正妃の子だからな。
セドリックは目を閉じた。
国を守るためだ。
そう自分に言い聞かせた。
兄がいない今、自分がやるしかない。
父が弱っている今、自分が立つしかない。
ルークでは守れない。
リアでは耐えられない。
民を、王都を、王国を守るためには、力がいる。
たとえ、その力が汚れていても。
「……何ができる」
セドリックがそう問うと、ルシアンは笑った。
「必要なものを、すべて」
その日から、戻れない道が始まった。
*
「殿下……」
兵の声で、セドリックは現在に引き戻された。
執務室。
机。
報告書。
王都近郊の森で撤退した部隊。
アルヴェルトを名乗る男。
王家の印。
父王の密書。
ルークとリアの保護。
レオルド。
マスクドブレイブ。
ソイヤ。
すべてが、セドリックの積み上げてきたものを崩そうとしていた。
セドリックは手元の報告書を見下ろす。
そこには、震える文字でこう書かれていた。
第一王子アルヴェルト殿下、生存の可能性あり。
セドリックの手に力が入る。
紙が音を立てて潰れた。
「あれは偽物だ」
兵は顔を上げられない。
セドリックは言い聞かせるように続けた。
「兄上であるはずがない」
もし本物なら。
その言葉を、セドリックは考えなかった。
考えてはならなかった。
アルヴェルトが生きているなら、自分は何になる。
自分が積み上げたものは何になる。
自分が汚した手は何になる。
自分が追い詰めたルークとリアは何になる。
自分が蛇架に差し出したものは何になる。
そして何より。
兄が戻ってきた時、自分は兄の前で何と言えばいい。
セドリックは奥歯を噛みしめた。
「兄上は死んだ」
もう一度、そう言った。
「死んだはずだ」
その時、部屋の隅の影が揺れた。
兵がぎょっとして振り返る。
いつからそこにいたのか。
黒衣の男が、壁際に立っていた。
顔は深い布で隠れている。
声だけが、暗く響いた。
「セドリック殿下」
セドリックは兵へ視線を向ける。
「下がれ」
「は、はい」
兵は慌てて頭を下げ、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
黒衣の男は、ゆっくりと頭を垂れた。
「教祖様より、次の手を預かっております」
セドリックの目が細くなる。
「ルシアンが?」
「はい」
「何をするつもりだ」
黒衣の男は、わずかに笑ったように見えた。
「王都へ向かうなら、迎える場所を用意すればよいとのことです」
「迎える場所?」
「はい。王都周辺に、魔物の群れを誘導します」
セドリックの目が鋭くなる。
「魔物だと?」
「混乱が起これば、アルヴェルトを名乗る者たちも思うようには動けません。レオルドも、マスクドブレイブも、民を見捨てることはできないでしょう」
黒衣の男は淡々と続けた。
「そこを突きます」
セドリックは黙った。
王都に魔物を近づける。
その言葉の危険さは、分かっている。
もし制御を誤れば、民に被害が出る。
騎士団にも犠牲が出る。
王都そのものが混乱に包まれる。
「……民を巻き込むつもりか」
「被害を抑える努力はいたします」
黒衣の男は即座に答えた。
「目的はあくまで、偽の第一王子と反逆者どもを討つこと。王都を守るための策です」
王都を守るため。
その言葉が、セドリックの胸に沈んだ。
必要な犠牲。
かつて、自分が何度も胸の中で繰り返した言葉だった。
止めるべきだ。
そう思った。
だが、アルヴェルトを名乗る男が王都に来る。
レオルドが来る。
マスクドブレイブが来る。
ここで止まれば、すべてが終わる。
自分が守ろうとした国も。
自分が王になる理由も。
自分が犯してきた罪も。
すべてが、意味を失う。
セドリックは目を閉じた。
そして、ゆっくりと開く。
「……民への被害は抑えろ」
「もちろんです」
黒衣の男は深く頭を下げた。
「御意」
影が揺れる。
黒衣の男の姿が、闇の中へ溶けるように消えていく。
一人残された執務室で、セドリックは潰れた報告書を見下ろした。
死んだはずの王子が、戻ってくる。
ならば。
もう一度、死んでもらうしかない。
セドリックは、誰にも聞こえない声で呟いた。
「兄上……なぜ、今さら戻ってくるのですか」
*
王城の外。
人の気配が途絶えた廊下の影で、黒衣の男は静かに足を止めた。
「民への被害は抑えろ、か」
その声には、敬意などなかった。
「哀れな王子だ。もう価値の無い王座だというのに」
そう言い残し、黒衣の男は王城の影へ溶けるように消えた。




