第136話「小さな家」
ディルクは、机の上に広げていた地図を静かに畳んだ。
「王都へ向かうのは明朝だ」
ギルドの中にいた者たちが、その言葉を受け止める。
アルヴェルトは、畳まれた地図から目を離せなかった。
「……明朝まで待つのかい?」
「今動いても、疲労で判断を誤ります」
ディルクは即答した。
「殿下も、もう限界のはずです」
アルヴェルトは反論しかけたが、言葉を飲み込んだ。
ユウヤは肩を回しながら、面倒くさそうに息を吐く。
「まあ、セグウェイ三人乗りして、そこから荷台引っ張ってひたすら走ってきたからな……」
ユウヤがぼやくと、アルヴェルトが深くため息を吐いた。
「……確かにそうかもしれないね」
レオルドも真面目な顔で頷く。
「そろそろベッドで寝たいです」
「だな」
ユウヤは肩を回した。
身体は重い。
変身していたとはいえ、疲れがないわけではない。むしろ、精神的にはずっと限界に近かった。
アルヴェルトも、帝国からここまで張り詰め続けている。
レオルドは平然としているように見えるが、それでも戦いと長距離移動の連続だった。
ディルクの言う通り、今夜は休むべきだった。
「宿なら手配する」
ディルクがそう言った時、ギルドの入口から声がした。
「ユウヤ兄ちゃん!」
振り返ると、ロウ、デン、ティナが立っていた。
さっきまでの不安そうな顔とは少し違う。
グレッグとトムに何か食べさせてもらったのだろう。頬に少し色が戻っている。
ロウが駆け寄ってくる。
「ユウヤ兄ちゃん、今日はどこに泊まるの?」
「宿だろ。普通に」
「じゃあ、うちに来てよ!」
「……うち?」
ユウヤは一瞬、固まった。
「お前ら、ストリートチルドレンだろうが」
ロウは胸を張った。
「もう違うよ!」
ティナも得意げに言う。
「家、あるもん!」
デンも大きく頷いた。
「ガイ兄ちゃんたちが買ってくれたんだ!」
「ガイが?」
ユウヤが目を丸くした時、ギルドの奥から明日への誓いの四人が歩いてきた。
レオン、ガイ、カイル、ミーナ。
ガイは少し照れたように頬をかく。
「空き家を安く譲ってもらえたんです。レオンさんたちもお金を出してくれて」
レオンが元気よく前へ出た。
「ハンターの仕事も軌道に乗ってきたんです! だから、みんなで出し合って買いました!」
ユウヤは何も言えずに、レオンたちを見る。
レオンは少し照れながら、それでも真っ直ぐに続けた。
「兄貴が守った子たちですから。俺たちも、何かしたかったんです!」
「……お前ら」
ユウヤが言葉に詰まる。
その横で、カイルが小さく笑った。
「何をカッコつけてんだ。レオンは『俺も兄貴みたいに、子供たちに慕われる英雄になる』って言ってただろ」
「カイル!」
レオンが慌てて振り返る。
「兄貴の前でそれは言わない約束だろ!」
ミーナも口元に手を当てて笑った。
「でも、毎回言ってたよね」
「ミーナまで!?」
レオンは真っ赤になって両手を振った。
ユウヤは、しばらく黙っていた。
それから、ふっと口元を緩める。
「……お前ら、やるじゃねえか」
レオンたちが顔を上げる。
ユウヤは照れくさそうに視線を逸らした。
「ありがとな」
レオンは一瞬だけ固まった後、ぱっと顔を明るくした。
「兄貴にそう言われると、めちゃくちゃ嬉しいです!」
「声でけえよ」
「すみません!」
「謝る声もでけえよ」
ギルドの中に、小さな笑いが広がった。
ロウがもう一度ユウヤの服を引っ張る。
「ねえ、来てよ! ユウヤ兄ちゃんに見せたいんだ!」
ユウヤは少し困ったように頭をかいた。
「いや、さすがに大人三人で子供の家に押しかけるのはまずいだろ」
アルヴェルトが穏やかに笑う。
「私は構わないよ」
「お前は構えよ」
ロウはアルヴェルトとレオルドを見上げた。
「そっちの兄ちゃんたちも来てよ!」
レオルドは嬉しそうに頷く。
「では、お邪魔します」
「お前は遠慮を覚えろ」
ユウヤが突っ込むと、アルヴェルトは少し考え込んだ後、ロウたちへ視線を合わせた。
「私は、アルでいいよ」
「アル兄ちゃん?」
ロウが首を傾げる。
アルヴェルトは柔らかく頷いた。
「うん。それで頼む」
ユウヤがぼそっと呟く。
「王子様が一気に近所の兄ちゃんになったな」
「気が楽でいいんだよ」
アルヴェルトは笑った。
その顔は、王位継承者のものではなく、ただの一人の男のものだった。
*
ロウたちの家は、ギルドから少し離れた路地の奥にあった。
大きな家ではない。
むしろ、小さい。
古い。
壁には補修の跡があり、扉も少し軋む。
だが、中に入った瞬間、ユウヤは足を止めた。
床はきちんと掃かれていた。
小さな食卓があり、人数分には少し足りないが椅子もある。
壁際には毛布が重ねられ、水瓶が置かれている。
棚には、木でできた古い玩具。
端には、子供たちの服が畳まれていた。
窓辺には、小さな花まで飾られている。
狭い。
裕福ではない。
それでも、そこには確かに、暮らしがあった。
ロウが胸を張る。
「いい家でしょ!」
ティナが嬉しそうに続ける。
「雨の日も濡れないよ」
デンも少し照れながら言った。
「夜も寒くないです」
ユウヤは何か軽口を返そうとした。
だが、すぐには言葉が出なかった。
雨の日も濡れない。
夜も寒くない。
その程度のことを、子供たちはこんなに嬉しそうに言う。
ユウヤは、ようやく小さく息を吐いた。
「……そりゃ、よかったな」
ロウたちは笑った。
ユウヤはその笑顔を見て、少しだけ視線を逸らす。
アルヴェルトも、家の中を静かに見ていた。
王城の広間でも、貴族の屋敷でもない。
けれど、そこには人が生きる場所があった。
「こういう場所を、守らなければならないんだな」
アルヴェルトが小さく言った。
ユウヤは壁に寄りかかりながら答える。
「そうだな」
レオルドは真剣な顔で頷いた。
「私たちで守りましょう」
「お前、まともなこと言えるのな……」
「失礼ですね。私はいつもまともです」
「そういうところだぞ」
そんなやり取りをしていると、外からグレッグとトムが顔を出した。
「邪魔するぞ」
「ご飯持ってきたっす!」
トムの手には鍋。
グレッグの手にはパンと皿。
ロウたちの目が輝いた。
「おおっ!」
「いい匂い!」
「腹減った!」
「さっき食べただろうが」
グレッグは呆れたように言いながらも、手早く食卓を整えていく。
家は狭かった。
ユウヤ、アルヴェルト、レオルド、ロウ、デン、ティナ、他の小さな子供たち。
さらにグレッグとトムが入ると、もうぎゅうぎゅうだった。
それでも、誰も文句を言わなかった。
湯気の立つ料理が並ぶと、家の中は一気に温かくなる。
レオルドが一口食べて、目を細めた。
「美味しいです」
グレッグは鼻を鳴らす。
「当然だ」
ロウたちも夢中で食べている。
その横で、デンがレオルドをじっと見上げた。
「レオルドさんって、Aランクハンターなんですよね?」
「はい」
レオルドは当然のように頷く。
「帝国騎士でもあります」
デンの手が止まった。
「えっ……帝国騎士?」
ユウヤが即座に叫ぶ。
「なんでそれ言うんだよ!?」
レオルドは真面目な顔で続ける。
「ユウヤは第五騎士団のボスでした」
ロウたちの目が丸くなる。
「ユウヤ兄ちゃんも!?」
「ややこしいこと言うんじゃねえ!!」
ユウヤが怒鳴ると、アルヴェルトが口元を押さえて笑った。
ティナは今度、アルヴェルトを見る。
「アル兄ちゃんは何してる人?」
アルヴェルトは一瞬だけ困った顔をした。
それから、少しだけ考えて答える。
「……兄弟喧嘩を止めに行く人かな」
ユウヤが半眼になる。
「兄弟喧嘩の規模がデカすぎるだろ」
アルヴェルトは苦笑した。
「そうかもね」
「どうして喧嘩してるの?」
ティナが不安そうに聞く。
アルヴェルトは少しだけ目を伏せた。
しかし、すぐに柔らかく笑う。
「どうしてかわからないんだ。だから、ちゃんと話に行くんだよ」
ティナは真面目に頷いた。
「仲直りできるといいね」
アルヴェルトは一瞬言葉を失った。
そして、静かに頷く。
「……そうだね。仲直りしないとね」
ユウヤは何も言わなかった。
ただ、黙って料理を口に運ぶ。
狭い家。
小さな食卓。
子供たちの笑い声。
湯気の立つ料理。
つい数日前まで、王都では処刑台があり、帝国では陰謀があり、森では殺し合いがあった。
それなのに、今ここには、当たり前の夜があった。
ユウヤはその当たり前を見て、少しだけ目を細める。
「ユウヤ兄ちゃん?」
ロウが首を傾げた。
「どうしたの?」
「何でもねえよ」
ユウヤは乱暴にロウの頭を撫でる。
「ちゃんと食え」
「食べてるよ!」
「もっと食え」
「食べる!」
ロウは笑って、再び皿へ向かった。
その夜。
ユウヤたちは、ロウたちの小さな家で休むことになった。
布団は当然足りない。
結局、床に毛布を敷き詰め、全員で雑魚寝することになった。
狭い。
寝返りもろくに打てない。
だが、不思議と嫌ではなかった。
灯りが落ち、子供たちの寝息が聞こえ始める。
ユウヤは天井を見上げていた。
雨の日も濡れない。
夜も寒くない。
ロウたちが嬉しそうに言った言葉が、何度も頭の中で響く。
自分が守ったもの。
自分が残したもの。
それが、こんな小さな家の中にあった。
「……悪くねえな」
誰にも聞こえないくらいの声で、ユウヤは呟いた。
隣でアルヴェルトが目を閉じたまま言う。
「何がだい?」
「ちっ……寝ろ、アル兄ちゃん」
「その呼び方、君がすると妙に腹が立つね」
「気が楽でいいんだろ」
アルヴェルトは小さく笑った。
レオルドはすでに寝息を立てている。
ユウヤはもう一度だけ天井を見た。
明日、王都へ向かう。
戦いは避けられない。
だが今夜だけは、何も考えずに眠ってもいい。
そう思えた。
小さな家の中で、ユウヤは久しぶりに安心して目を閉じた。




